僕の感性

詩、映画、古書、薀蓄などを感性の赴くまま紹介します。

上杉鷹山の業績

2017-05-13 15:17:39 | 歴史



BSで放送されたBS歴史館やTHE歴史列伝などを観るとつくづく上杉鷹山は素晴らしい人間だということが分かる。

上杉鷹山細井平洲から次の言葉を学ぶ。
「民を視ること傷めるが如し」
つまり、領民と痛みを自分のことのように共有せよ。飢えている人がいたとき
自分が飢えている境遇のように接しろとういうことだ。

その教えを守り、鷹山は領民や城内の武士に一汁一菜や木綿の服を命じたときは
自分も同じように質素な食事、粗末な衣服を断行して、大倹約令の流布に努めた。

当時米沢藩は16万両の借財があるにもかかわらず、5000人の武士が暮らしていた。
会津藩120万石時代の古き慣習をそのまま踏襲していたのだ。

武士自ら土地を耕し、半士半農の生活を断行し米の増産も図り
それぞれの石高も7分の一に下げて暮らすよう命令し大改革にのりだす。

そして100万本植樹計画と称し、漆・楮・桑の木をそれぞれ100万本づつ植えさせた。
最初漆から採った油で作った蝋が6700両の収益をあげる。
しかし西日本から安価で質のいい櫨蝋が台頭してきたのだ。
たちまち漆蝋は駆逐され多くの借財だけが残った。

そこで鷹山は上書箱を設置して、農民・商人・武士問わず広く意見を募ったのだ。

その意見をもとにさらに多くの桑の木を植え、無償で各家に配り養蚕に励み
ただ生糸を売るのではなく、絹織物としてうれるよう殖産に努めたのだ。

越後の小千谷縮の職人に学び

機織りは武家の女性が担い研究し米沢織を完成させた。

その中でも縦糸に生糸を横糸に苧麻糸を使って織った軽い夏服「透綾」がヒットした。

この米沢織の成功をきっかけとして、長年ふくれあがった債務30万両を完済したのである。

その他の功績として鷹山は、過去の飢饉を教訓に備籾蔵(義倉)に20年間で15万俵を蓄える
計画を立て、米を借りた利息は村の農民のものとなった。

また両親が病気の時は、たとえよそに嫁入りしたとしても郷里に戻って
両親の看病をして良い、そのときは仕事も休んで良いという福祉制度も作った。

鷹山自ら実父の秋月種美を30日間看病し、養父の重定が重病の時も寝食を忘れ80日間看病するという
親孝行の鑑だった。

食べ物にも注目した鷹山だった。

「養魚答問」にはお濠や池に鯉を飼育し藻を竹に結んで水深45cm沈めよと具体的に書いた。
海がなく蛋白源におとる米沢藩の民の栄養源としたのだ。

また「かてもの」という食物の手引書を莅戸善政(のぞきよしまさ)に命じて作らせた。
飢饉の際にむやみやたらに野草を食べて中毒死する領民が多かったのを教訓として
矢尾板栄雪・江口元沢・水野道益の3名に食料となる動植物の研究をさせ
本草学者の佐藤忠陸に意見を尋ね、莅戸善政に赤湯温泉で執筆させた。
全部で1575冊作って配ったという。

イノシシは厚さ2,3寸 長さ6,7寸に切って灰をまぶして梁にかけておけば
数十年もつという風に具体的に書かれている。
また山野草の「イタドリ」の記述は、よく茹でてかてものとして混ぜ炊いて食べるとなっている。

今ではよほどのことがないと食べない、「ハハコグサ」や「ハンゴウソウ」、「ハシバミ」、「いぬびえ」
「つゆ草」、「ドロノ木」、「いちび」などの野草と食べ方も書いてある。
ハハコグサ


つゆ草

ハシバミの実


とにかく鷹山のエピソードは多いが、お忍びで村を視察し、急な雨で稲刈りが進まず困っている老婆を
自ら助ける優しさも持ち合わせていた。

今も米沢の人たちは上杉鷹山を鷹山公と呼称し慕い続けている。

春日沼の伝説

2017-05-12 18:33:22 | 歴史
同窓会の日、八ツ沼の春日沼のほとりを散策しました。
春日沼の湖底には雌雄の龍神が棲むという伝説があります。












八ツ沼には悲しい物語があります。八ツ沼城主原家と、鳥屋ヶ森城主岸家との婚姻の話です。
 
八ツ沼城主、原甲斐守忠重に原半兵衛兼道という若君がおりました。また鳥屋ヶ森城主岸美作守にそれは美しい弥生姫という娘がおりました。

二人は見そめ合い、結婚をしました。

けれど同じく弥生姫に惹かれた和合但馬守秋広が横恋慕して、八ツ沼城と鳥屋ヶ森城の両城主が
霞ヶ城(山形城)城主最上義光を倒そうと画策していると讒言するのです。

これがきっかけに最上軍は動き、八ツ沼城と鳥屋ヶ森城は滅ぼされてしまいます。

二人は来世での夫婦を誓い合い春日沼に身を沈めたのでした。

薬師祭植木市

2017-05-10 21:20:01 | 歴史
日本三大植木市である薬師祭りの最終日に
出かけました。

夕方だったので、中学生、高校生など
若人でごった返していました。

健康と家内安全を願ってお詣りします。


お化け屋敷が賑わっていました。


色んな露店が出ています。




外人さんが油彩画を売っていたので
気に入った一枚をおまけしてもらい
買っちゃった!


盆栽も何点か購入。

エニシダ


出猩々(デショウジョウ)


紅丁木(コウチョウゲ)


雲龍


苔に植えた紅葉



斑入り欅


段々趣味が苔生(む)してきました。

鎌倉幕府と鎌倉

2017-04-24 18:21:27 | 歴史
大学時代、友人Hと鎌倉の建長寺を訪れましたが、前日食べた鯵の開きがちょっと日がたっていて
二人は腹を下し、建長寺境内のトイレで唸っておりました。

それから30年後家族で鶴岡八幡宮に遊ぶ機会がありまして、
「おーこれが公暁の隠れた大イチョウか」
などと感心しておりましたら
その翌年3月強風で倒れてしまいました。樹齢1000年だったらしいですね。

それ以来鎌倉には行っていないのですが
冒頭に出てきたHはよく鎌倉の海岸に砂鉄を採取に行っていたそうです。

昔は刀と言えば、砂鉄から作っていたわけで
頼朝が鎌倉に幕府を作ったのは
たくさんの砂鉄がとれた土地だったからと言われています。

もう一つの理由は、鎌倉は三方を山に囲まれ、前は海で
鉄壁の要塞になっていたことが挙げられます。

この鎌倉に入るには、切通しという狭い道を通らなければならず
名越切通しは、幕府を開く前からあったそうで、全部で7つの切通しがありました。
武装した大群が簡単に通れないよう鋭角に道筋が切られていたり
軍馬が通れないよう、道の真ん中に置き石を据えたり工夫しました。困惑している敵に
崖の上から矢を射かけたり、石を落としたりして退散させたのです。

前面の海は由比ヶ浜という海岸で水深1m以下の遠浅になっていたため
船底が付き、船が前に進みませんでした。
そこで兵士は海に飛び込みますが、弓矢の格好の標的となるのです。

もう一つの理由として、鎌倉は平安時代、源頼義が源氏の氏神である京都の
石清水八幡宮を勧進して鶴岡八幡宮を造営しました。また、頼朝の父・義朝が
寿福寺あたりに住まいしており、いわば源氏の所縁(ゆかり)の土地だったのです。

そして最大の理由は朝廷のいる京の都がすこぶる汚かったからなのです。
鴨川は今のインドのガンジス河同様、
下水設備などなく、トイレや死体処理の場所を兼務していたのです。
当時京都の人口が20万人、そのうち疫病(天然痘・コレラ・赤痢・咳病)などで
4万2300人の死者が出ました。

それに対して鎌倉の山は豊かで山の幸、木材を与え、海は魚や貝を提供してくれました。
また浜に打ち寄せる波はすべての汚いものをきれいにしてくれたのです。

ようするに飲み水や食べ物が危険で命を脅かす京の町をとっても嫌ったのですね。
京というととても優雅で綺麗な町を想像するのですが、人口が増え続け
インフラが整っていなければ、本当に恐ろしい場所なのですね。

以上、なぜ頼朝は鎌倉に幕府を開いたかという答えでした。

青銅器の酒器

2017-04-14 20:33:49 | 歴史
古代中国の祭祀や酒宴で使用された酒器です。
爵と呼ばれる入れ物なのです。
以前骨董市で買いました。


たぶんレプリカですが、実物は、殷や周の時代に使われました。


この器で酒を温め、耳杯や高杯などに注ぎ飲んだと思われます。
注ぎ口に2本の突起がついていますが、これに布をかけて酒を濾す役目を果たしたと言われています。


三國志など中国の時代劇に酒を飲むシーンがありますが、酒の飲んでいる姿が相手に見えないように袖で隠したりしています。

これは儒教の教えなのでしょうか、目上の者や大将を敬う行為なのでしょう。

石山本願寺の名の起こり

2017-03-14 18:18:33 | 歴史
石山本願寺は、戦国時代から安土桃山じだいにかけて、摂津国東成郡生玉荘大坂にあった浄土真宗の寺院です。

なぜ生玉荘大坂の地名を「石山」と名付けたのでしょうか。

蓮如の孫顕誓が次のように述べています。


明応第五ノ秋下旬蓮如上人(中略)一宇御建立、其始ヨリ種々ノ奇端不思議等コレアリトナン。マヅ御堂ノ礎ノ石モネカネテ地中ニアツメヲキタルガ如云々


—反故裏書


これによると、そのまま礎石に使える大きな石が土中に多数揃っていたという不思議な状況に因んで、石山と呼称したようになったのであろうとしているのです。

なお、後年の発掘調査の結果、大坂城址一帯は難波宮の比定地にもなっていることがわかりました。

神亀3年(726)、聖武天皇が藤原宇合に命じて難波宮の造営を行いました。その際に中国の技法で礎石建、瓦葺屋根の寝殿造りにしたのです。

古代の宮殿跡に使用した礎石がたくさん出てきたので、石山と言うようになったのですね・・・あくまでも推測ですが・・・

その後石山本願寺は織田信長との石山合戦で敗れ、京都に移らざるをえなくなります。

堀や塀、土塁に囲まれた堅牢な石山本願寺は、豊臣大坂城に踏襲され、さらに盛土を繰り返し、徳川大坂城に受け継がれたのでしょうか。

和気清麻呂と猪

2015-06-23 17:44:10 | 歴史
昔の10円札である。


このお札の肖像は和気清麻呂という人物である。


そして札の裏には猪が描かれている。


なぜ猪なのだろうか。

この動物は和気清麻呂のアトリビュートのようなものだ。

和気清麻呂は称徳天皇の時代、弓削道鏡の皇位を宇佐八幡の神託によって廃位させた。

そのことで道鏡の怒りを買い、別部穢麻呂(わけべのきたなまろ)と改名させられて

大隅国に流されてしまう。

その道中何度も襲われて殺されそうになるが、猪3百頭が現れて清麻呂を助けたという逸話が残っている。

たぶん皇室に味方する土着の部族であると思うが、このことで猪は清麻呂の随身として尊ばれるようになったわけ。

岡山県の和気神社には狛犬ではなく「狛猪」が飾られているそうだ。

小嶋家の歴史

2015-04-11 13:42:08 | 歴史
 先日、商用で三日町の小嶋家を訪れた。

 小嶋家は現在でも山形の実業家で広く活躍している小嶋家一族の総本家である。

初代小嶋源兵衛は、天保期の1830年代に銀町の小嶋源右衛門家(宗家)から分家して三日町に居を移した。

 安政期までの小嶋家は、荒物・紙・扇子・傘・茶・五十集物(いさばもの)・砂糖・反物・古着・繰綿・油・蠟燭などを

卸売することを基本に中規模商人として成長していった。

 幕末維新期にかけては、菜種の大量買い付けを前提とした油絞り業・油商売を展開している。

また菜種粕・荏粕などの油粕を中心とした肥料商いも従事した。

 幕末期から蔵米(領主米)の買い付けを始め、米穀商業にも参画するようになった。

 明治初年からは経営の比重を主要輸出業になった養蚕生糸・製茶に移していった。

 明治30年代半ばから大正期にかけては、内外米・大豆粕・搗麦・麩(ふすま)などの米穀商業・肥料・飼料商いに集中し

とくに輸入南京米などの卸売りを活発に行っている。

 昭和戦前期には、小嶋源兵衛は山形米穀商業組合長や山形商工会議所議員を歴任している。


 小島総本家からはそれぞれ子供が分家し、オビイチ・オビニ・オビサン・オビゴ・オビロク・オビシチ・オビハチ・オビク・オビジュウ

と分かれていった。オビとは商人が着る着物の角帯のことである。オビヨンはなく、オビジュウも商売は行わなかったようである。

現在、オビサンは紙事業・包材事業を展開し、オビゴは仏壇・仏具で有名な小嶋源五郎である。

 オビロクは木製品、紙、パルプなどを扱う会社で、オビハチは小嶋商事を経営し、肥料や特産農産物、蔵オビハチなど

広く事業を展開している。

他にオビジョウ家具、オビマス商店が著名だが、どの分家から分かれたかは私は知らない。


 もともと小嶋家は荒物・煙草などの萬商い(よろずあきない)で成長していき、遠く奥州伊達郡(現 福島県北部)へも

萬商品を売りさばいて行った。

 そうした商売のノウハウと人脈は代々緻密に受け継がれていったものと思われる。

石上宅嗣(いそのかみのやかつぐ)と物部氏

2013-04-07 22:09:28 | 歴史
石上宅嗣は古代豪族の物部氏を先祖に持つ、奈良時代後期の公卿・文人である。
同時代の淡海三船(おうみのみふね)とともに難読人名の一人でもある。


彼は賢明で悟りも早く立派な容姿を持ち、経書、歴史書を好み幅広い書籍に通じていた。
文を作ることを好み草書、隷書とも上手であった。
旧宅に日本最初の図書館「芸亭(うんてい)」を設けた。

恵美押勝を除こうとして失敗し左遷されたが、藤原仲麻呂の乱で恵美押勝が失脚したので
再び息を吹き返し大納言まで出世した。

石上という地名も現在の奈良県天理市中部にある。この地は物部氏の勢力圏であって
石上神宮で「布都御魂」と呼ばれる神剣をまつり、王家の安泰を祈っていた。
この剣は「磐座(いわくら)」と呼ばれる神聖な巨岩の上でまつられた。
そのため「石の上で神をまつる地」を意味する「石上」の地名が出来た。

古代人は、霊を「もの」と呼んだ。「もの」が化けると「もののけ」になる。
物部氏は石上の有力な霊をまつるので「ものをまつる男」を意味する
「物の夫(もののふ)」と呼ばれた。

後に物部氏が有力な軍事氏族になり、優れた武人が出たので、武士を「もののふ」と
呼ぶ呼び方も生まれたらしい。

鴨長明

2013-02-04 23:17:33 | 歴史
僕の感性のブログのアドレスはutakata96だが、鴨長明の著した「方丈記」の中の
淀みに浮かぶうたかたはかつ消えかつ結びて・・・
という文章のうたかたなのである。

彼、鴨長明の人生は不運が付きまとった。
父が死んで、父と同じ禰宜の職を継ごうとしたが、叶わなかった。

俊恵に学んだ得意の和歌も新古今の時流に乗れず、定家ほどの誉れも得られなかった。

中原有安に教わった琵琶も秘曲「啄木」の演ずる時を誤って、非難されてしまう。

いよいよ彼は出家し大原の山中に篭り、のちに日野に3.3メートル四方の庵(いおり)を構える。そこであの有名な「方丈記」を書き上げる。

彼は「無常観」というものを切々と説いた。そして物質的なものの脆さや儚さも説いた。

約5畳半の庵の中央に炉を置き、壁に阿弥陀如来と普賢菩薩の仏画を掛け、傍に琵琶、琴、書を置いた。

彼は身の栄達や物質的に満たされた生活を捨て、本当の人間らしい心の安寧を抱くことが出来たのだろうか?

私自身も彼に肖りたく思うが、琵琶・琴・書物以外にお話できる相手がいてほしい・・・なんて
俗物なものだから、そんな風に思う。