ドヴォルザーク 弦楽セレナーデ ホ長調 作品22 クーベリック Dvořák Serenade for Strings in E-major
Antonín Leopold Dvořák アントニン・レオポルト・ドヴォルザーク 7 /ドヴォルザーク 弦楽セレナーデ ホ長調 作品22 クーベリック
エピソード
鉄道ファンとしても知られている。
1877年以降住んだプラハのアパートはプラハ本駅からほど近く、毎朝散歩の際にはこの駅を訪れることを日課にしていた。
作曲に行き詰まると散歩に出かけ汽車を眺めて帰ってきたと伝えられる。
列車の時刻表やシリーズ番号、さらには運転士の名前までも暗記していた。
1845年にウィーンからプラハを結ぶ鉄道が開通、1851年には故郷ネラホゼヴェスを経由するドレスデンまでの線路が完成する。
この少年期の体験がドヴォルザークの鉄道好きに影響したと指摘する研究者もいる。
ドヴォルザークは毎日同じ鉄道を利用しており、その列車が奏でる走行音を楽しんでいた。
アメリカからボヘミアに帰国した際に
「アメリカとここでは列車が走る時のリズムが全く違う。これはアメリカの方がレールが長いためだろう」
と語ったと言われる。
ニューヨークにいたころには、鉄道熱と並んで船にも興味を持ち、1週間に2度ほどは波止場へ出かけて船を眺めていた・
2017年現在、チェコ - オーストリア間を運行する特急列車「レイルジェット」にはチェコとオーストリアの作曲家の名前が愛称としてつけられており、そのうちの一つに「アントニン・ドヴォルザーク号」が存在する(オーストリアのグラーツから、ウィーンを経由し、チェコのプラハを結ぶ)。
鳩の愛好家としても知られ、1884年に建てたヴィソカーの別荘で鳩の飼育を楽しんだ。
小惑星(2055) Dvorakはドヴォルザークの名前にちなんで命名された。
音楽史上の位置づけ スタヴォフスケー劇場 ドヴォルザークは西洋音楽史上、後期ロマン派に位置する作曲家である。
この時代にはドイツ・オーストリア、イタリア、あるいはフランスといった音楽先進地域の外で国民楽派が勃興し、ドヴォルザークは、1歳年上のピョートル・チャイコフスキー(ロシア)、2歳年下のエドヴァルド・グリーグ(ノルウェー)らとともに、同楽派を代表する存在である。
同時に、ベドルジハ・スメタナとともにチェコ国民楽派あるいはボヘミア楽派の創始者の一人として、ドヴォルザークはレオシュ・ヤナーチェクを初めとする以後の作曲家たちに大きな影響を与えた。
ドヴォルザークは、ワーグナー派対ブラームス派の対立が明らかとなった時代に学習期を迎えている。
1860年代後半、彼はワーグナーの音楽に心酔し、プラハでワーグナーのオペラを常時上演していたドイツ劇場(スタヴォフスケー劇場)に足繁く通った。
1871年に作曲したオペラ『王様と炭焼き』第1作には、ライトモティーフの使用や切れ間なく続く朗唱風の音楽に、ワーグナーの影響が明らかに見て取れる。
しかし、この作品は失敗作と見なされ、初演を迎えることはなかった。
ドヴォルザークは、この『王様と炭焼き』第1作と全く同じ台本に異なった音楽をつけ、ナンバー・オペラに仕立てた『王様と炭焼き』第2作以降、徐々にワーグナーの影響下を脱していく。こうしたドヴォルザークの才能にいち早く着目したのは、ワーグナーと相対していたブラームスである。
ドヴォルザークは、ブラームスや「ブラームス派」の音楽評論家エドゥアルト・ハンスリックらの推挙によって作曲家としての地位を築いた。彼は、こうした先人たちの残した豊かな遺産を十全に活用し、ワーグナーから学んだドラマ性、ブラームスも着目する構成力を高い次元で兼ね備えた作曲家であった。
とはいえ、ドヴォルザークの音楽をとりわけ魅力的にしているのは、シューベルトと並び賞される、その親しみやすく美しいメロディーである。
彼の交響曲第9番の第2楽章は、日本語の歌詞がつけられて唱歌『家路』として親しまれるだけでなく、学校や市町村防災行政無線などで夕方の時刻を知らせるメロディーとしても多く利用されている。
ピアノ曲『ユーモレスク』変ト長調(Op.101-7, B.187-7)はフリッツ・クライスラーによるヴァイオリン独奏をはじめとする様々な編曲で演奏され、耳に馴染んでいるメロディアスな作品である。
また、歌曲『我が母の教えたまいし歌』は、クラシック音楽の声楽家のみならず、ポピュラー・シンガーによっても愛唱されている。 アントニン・ドヴォルザークのアーカイブは2023年に世界の記憶に登録された。
チェコ音楽史における位置づけ ドヴォルザークの登場まで チェコの音楽界に民族主義が持ち込まれたのは、18世紀後半のドイツの哲学者で神学者でもあったヨハン・ゴットフリート・ヘルダーによって提唱された「民族精神」の概念によってであった。
ヘルダーはチェコ民謡を採集し、アンソロジーの形で発表した。これに刺激され、19世紀になるとチェコ人自らが民謡の収集・出版を行うようになった。
19世紀末から20世紀初頭には、スメタナ、フィビフ、ドヴォルザーク、ヤナーチェクといった才能の開花につながっていった。
このようなチェコ国民音楽の形成過程のなかで、個々の作曲家たちにとっては、民謡あるいは民族舞曲との距離の取り方が重要な問題として問われるようになっていった。
保守的な伝統主義者であった作曲家フランティシェク・ラディスラフ・リーゲルとそのグループは
「民族色を打ち出すには民謡の単なる引用と模倣で十分である」
と主張し、一定の支持を得ていた。
これを真っ向から否定したのがスメタナである。
スメタナは1865年に
「民謡の旋律やリズムの模倣により国民様式が形成されるのではない」
と表明、標題音楽を創作することで国民性を獲得しようとした。
すなわち、音楽の題材としてはチェコ民族の持つ歴史、詩歌、民話などを採用するが、技法的にはあくまでも西欧音楽の技法によることで、チェコ国民音楽を広くヨーロッパに知らしめようと考えたのである。そこでは、民謡の引用や舞曲リズムの使用は、具体的な場面描写に限定して用いられている。
こうした「標題性」を重視する立場は「進歩派」と呼ばれ、フィビフらがこの思想に同調した。
こうした立場は、先述のリーゲルやその思想を受け継いだフランティシェク・ピヴォダら「保守派」からは国民音楽ではなくドイツ音楽であるとの批判にさらされ、「進歩派」対「保守派」の論争となった。
(Wikipedia)