乱鳥の書きなぐり

遅寝短眠、起床遊喰、趣味没頭、興味津々、一進二退、千鳥前進、見聞散歩、読書妄想、美術芝居、満員御礼、感謝合掌、誤字御免、

正徹とは  清巌正徹/正徹の書写した『徒然草』は現存最古の写本

2024-10-05 | つれ/″\種

 

正徹とは  清巌正徹/正徹の書写した『徒然草』は現存最古の写本

 正徹(しょうてつ、永徳元年〈1381年〉 - 長禄3年5月9日〈1459年6月9日〉)は、室町時代中期の臨済宗の歌僧。

 道号(字)は清巌・清岩

 法諱は正徹、

 庵号は松月庵・招月庵。

 

 清巌正徹。

 俗名は正清。  

 

 

 石清水八幡宮に仕える祀官一族の出身で、父は小松(または小田)康清といわれ、備中国(現岡山県)小田郡の小田荘を知行していた。  

略歴

 和歌を冷泉為尹と今川了俊(貞世)に学ぶ。

 

 応永21年(1414年)出家、法号を正徹と号した。

 

 京都東福寺の書記であったことから徹書記とも呼ばれた・

 

 

 室町幕府6代将軍足利義教に忌避され謫居(たっきょ)。

 そのためか『新続古今和歌集』に正徹の歌は入集していない。

 

 

 義教の没後は歌壇に復帰し活躍。

 

 歌人のみならず古典学者としても評価されており、8代将軍足利義政に『源氏物語』の講義を行っていることなどが知られている。

 

  2万首近くの詠が現存する、室町時代最大の歌人。

 

 歌風も際立って特色あり、二条派からは異端視されたが、藤原定家を尊崇し、時に前衛的、象徴的、夢幻的で、独自の幽玄の風体を開拓した。

 

 門下には心敬らがいる。

 

 家集に『草根集』、歌論に『正徹物語』がある。

 

『正徹物語』第201段では、歌道の数寄すなわち愛好の度合いを、茶道になぞらえ「茶食らひ」「茶飲み」「茶数寄」の3つに分け、いかにも室町時代的な比喩で説明している。

 

 下の「茶食らひ」は、「茶といへば飲みゐて、更に茶の善悪をも知らず、おほく飲みゐたる」輩で、歌道では環境も仲間も問わず、「いか程ともなく詠むことを好みて読みゐたる」歌人だという。

 

「茶飲み」は茶の産地や出荷時期などを飲み分けるのに長じた者で、単に和歌の表現や泳法によく通じていてもまだ「茶飲み」に過ぎないという。

 

 真の「茶数寄」とは「茶の具足を綺麗にして、建盞、天目、茶釜、水指などのいろいろの茶の具足を心の及ぶほどたしなみ持ちたる人」で、歌道でも「硯、文台、短冊、懐紙などうつくしくたしなみて、何時も一続など詠み、会所などしかるべき人」を真の数寄だとしている。  

 

 また、古典学者としては『源氏物語』の研究のほか、『伊勢物語』などの物語類や藤原定家などの歌人の家集など、多くの古典籍の書写を行い、現存の伝本流布に貢献している。

 

 なかでも正徹の書写した『徒然草』は現存最古の写本として重要なものであり、彼が「つれづれ草は枕草子をつぎて書きたる物也」と、両書を同じ文学の形態として認めた点は、現代では常識であるが、当時の文学史家として優れた着眼点といえる。

 

 没後 没後500年以上たった2001年、出身地の岡山県小田郡矢掛町小田地区では、「正徹を顕彰する会」が結成され、井原鉄道小田駅の駅前広場に顕彰碑などが立てられている。

(Wikipedia)

 

つれづれ種(徒然草)

正徹とは 清巌正徹/正徹の書写した『徒然草』は現存最古の写本

卜部兼好 吉田 兼好  1  

卜部兼好 吉田 兼好  2   

つれ/″\種 上  正徹本 1  一段~二段(3頁)

つれ/″\種 上  正徹本 2  二段~八段(3頁)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

Antonín Leopold Dvořák アントニン・レオポルト・ドヴォルザーク  8 /ドヴォルザーク《レクイエム》全曲 アンチェル指揮/チェコ・フィル

2024-10-05 | クラッシック音楽

ドヴォルザーク《レクイエム》全曲 アンチェル指揮/チェコ・フィル

 

Antonín Leopold Dvořák アントニン・レオポルト・ドヴォルザーク  8 /ドヴォルザーク《レクイエム》全曲 アンチェル指揮/チェコ・フィル

 

アメリカ音楽史への影響
 ナショナル音楽院は、作曲の学校を創設するという目的のために創設された音楽院であった。
 創始者のジャネット・サーバー夫人は、メトロポリタン歌劇場に対抗して、アメリカ人作曲家による英語のオペラ上演を行うことが夢であった。
 すなわち、この音楽院は、アメリカにおける国民楽派の創立を目指す拠点としての位置づけにあった。
 
 チェコ国民楽派の大物作曲家であったドヴォルザークを招聘した目的もアメリカ国民楽派創立に向けての音楽教育、特に作曲分野での充実を図る狙いがあった。
 
 ドヴォルザークがアメリカに到着した直後に、サーバー夫人はアメリカ人作曲家のためのオペラ賞の設立を発表している。
 
  しかし、アメリカ時代のドヴォルザーク門下からは特筆するような作曲家や音楽作品は生まれず、サーバー夫人のもくろみは直接的には果たされなかった。その理由として、基本的な音楽教育が不備でありナショナル音楽院の学生のレベルが高くなかったこと、ドヴォルザークが教鞭を執った期間が短すぎたこと、ドヴォルザーク自身がネイティブ・アメリカンの音楽や黒人霊歌を研究・吸収することに時間を費やし実践的教育にまで至らなかったことなど、さまざまな憶測がなされている。  
 
 しかし、これはドヴォルザークが以後のアメリカ音楽の発展に寄与しなかったということには当たらない。
 
 ドイツを範とする傾向が強かった当時のアメリカの作曲界に、国民音楽の潮流を生み出したことは間違いない。
 
  渡米8ヶ月後の1893年5月21日、「ヘラルド・トリビューン」紙上に『黒人の旋律の真の価値』と題するドヴォルザークの論文が掲載された。また1895年、チェコに帰国した後ではあるが、ニューヨークの音楽雑誌に『アメリカの音楽』と題する論文を発表している。
 
 これらの論文を通してドヴォルザークは、黒人やネイティブ・アメリカンの音楽の豊かさを啓発したのだった。
 
 そして、その主張を何よりも雄弁に物語ったものは、交響曲第9番「新世界より」、弦楽四重奏曲第12番「アメリカ」、チェロ協奏曲といった彼自身の音楽作品そのものであった。
 
 
 これらの作品は、スラヴ的であると同時にアメリカのフォークロアの影響が表れており、アメリカの国民音楽創設の可能性を示す作品でもあった。
 
 ドヴォルザーク門下生たちは、黒人霊歌やジュビリーを素材とした短い歌曲やピアノ曲を少なからず作曲し、出版したし、直接ドヴォルザークとの接触を持たなかった他の作曲家たちも似たような傾向を持つ楽曲を作り始めた。  
 
 ドヴォルザークはアメリカの音楽愛好家に深く愛され、チェコに帰国するころまでには作品のほとんどがアメリカ初演を終えていた。
 
 ニューヨーク・フィルハーモニックはアメリカ音楽の興隆に寄与したことを感謝し、ドヴォルザークを名誉会員に推挙したのであった。

(Wikipedia)

 

Antonín Leopold Dvořák アントニン・レオポルト・ドヴォルザーク  1

Antonín Leopold Dvořák アントニン・レオポルト・ドヴォルザーク  2 /京響 ドヴォルザーク:交響曲第9番 ホ短調「新世界から」

Antonín Leopold Dvořák アントニン・レオポルト・ドヴォルザーク  3 /東京都交響楽団 ドヴォルザーク:交響曲第3番 変ホ長調 op.10

Antonín Leopold Dvořák アントニン・レオポルト・ドヴォルザーク  4 /東京都交響楽団 ドヴォルザーク:交響曲第3番 変ホ長調 op.10

Antonín Leopold Dvořák アントニン・レオポルト・ドヴォルザーク  5 /ドヴォルザーク/スラヴ舞曲

Antonín Leopold Dvořák アントニン・レオポルト・ドヴォルザーク  6 /ドヴォルザーク:チェロ協奏曲 ロ短調 

Antonín Leopold Dvořák アントニン・レオポルト・ドヴォルザーク  7 /ドヴォルザーク 弦楽セレナーデ ホ長調 作品22 クーベリック

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

Antonín Leopold Dvořák アントニン・レオポルト・ドヴォルザーク  7 /ドヴォルザーク 弦楽セレナーデ ホ長調 作品22 クーベリック

2024-10-05 | クラッシック音楽

ドヴォルザーク 弦楽セレナーデ ホ長調 作品22 クーベリック Dvořák Serenade for Strings in E-major

 

Antonín Leopold Dvořák アントニン・レオポルト・ドヴォルザーク  7 /ドヴォルザーク 弦楽セレナーデ ホ長調 作品22 クーベリック

 

エピソード
 
 鉄道ファンとしても知られている。
 
 1877年以降住んだプラハのアパートはプラハ本駅からほど近く、毎朝散歩の際にはこの駅を訪れることを日課にしていた。
 
 
 作曲に行き詰まると散歩に出かけ汽車を眺めて帰ってきたと伝えられる。
 
 列車の時刻表やシリーズ番号、さらには運転士の名前までも暗記していた。
 1845年にウィーンからプラハを結ぶ鉄道が開通、1851年には故郷ネラホゼヴェスを経由するドレスデンまでの線路が完成する。
 
 この少年期の体験がドヴォルザークの鉄道好きに影響したと指摘する研究者もいる。
 ドヴォルザークは毎日同じ鉄道を利用しており、その列車が奏でる走行音を楽しんでいた。
 
 アメリカからボヘミアに帰国した際に
「アメリカとここでは列車が走る時のリズムが全く違う。これはアメリカの方がレールが長いためだろう」
と語ったと言われる。
 
 ニューヨークにいたころには、鉄道熱と並んで船にも興味を持ち、1週間に2度ほどは波止場へ出かけて船を眺めていた・
 
 2017年現在、チェコ - オーストリア間を運行する特急列車「レイルジェット」にはチェコとオーストリアの作曲家の名前が愛称としてつけられており、そのうちの一つに「アントニン・ドヴォルザーク号」が存在する(オーストリアのグラーツから、ウィーンを経由し、チェコのプラハを結ぶ)。
 
 鳩の愛好家としても知られ、1884年に建てたヴィソカーの別荘で鳩の飼育を楽しんだ。
 小惑星(2055) Dvorakはドヴォルザークの名前にちなんで命名された。
 
 音楽史上の位置づけ  スタヴォフスケー劇場 ドヴォルザークは西洋音楽史上、後期ロマン派に位置する作曲家である。
 
 この時代にはドイツ・オーストリア、イタリア、あるいはフランスといった音楽先進地域の外で国民楽派が勃興し、ドヴォルザークは、1歳年上のピョートル・チャイコフスキー(ロシア)、2歳年下のエドヴァルド・グリーグ(ノルウェー)らとともに、同楽派を代表する存在である。
 
 同時に、ベドルジハ・スメタナとともにチェコ国民楽派あるいはボヘミア楽派の創始者の一人として、ドヴォルザークはレオシュ・ヤナーチェクを初めとする以後の作曲家たちに大きな影響を与えた。  
 
 
 ドヴォルザークは、ワーグナー派対ブラームス派の対立が明らかとなった時代に学習期を迎えている。
 
 1860年代後半、彼はワーグナーの音楽に心酔し、プラハでワーグナーのオペラを常時上演していたドイツ劇場(スタヴォフスケー劇場)に足繁く通った。
 
 1871年に作曲したオペラ『王様と炭焼き』第1作には、ライトモティーフの使用や切れ間なく続く朗唱風の音楽に、ワーグナーの影響が明らかに見て取れる。
 
 しかし、この作品は失敗作と見なされ、初演を迎えることはなかった。
 
 ドヴォルザークは、この『王様と炭焼き』第1作と全く同じ台本に異なった音楽をつけ、ナンバー・オペラに仕立てた『王様と炭焼き』第2作以降、徐々にワーグナーの影響下を脱していく。こうしたドヴォルザークの才能にいち早く着目したのは、ワーグナーと相対していたブラームスである。
 
 ドヴォルザークは、ブラームスや「ブラームス派」の音楽評論家エドゥアルト・ハンスリックらの推挙によって作曲家としての地位を築いた。彼は、こうした先人たちの残した豊かな遺産を十全に活用し、ワーグナーから学んだドラマ性、ブラームスも着目する構成力を高い次元で兼ね備えた作曲家であった。  
 
 
 とはいえ、ドヴォルザークの音楽をとりわけ魅力的にしているのは、シューベルトと並び賞される、その親しみやすく美しいメロディーである。
 
 彼の交響曲第9番の第2楽章は、日本語の歌詞がつけられて唱歌『家路』として親しまれるだけでなく、学校や市町村防災行政無線などで夕方の時刻を知らせるメロディーとしても多く利用されている。
 
 ピアノ曲『ユーモレスク』変ト長調(Op.101-7, B.187-7)はフリッツ・クライスラーによるヴァイオリン独奏をはじめとする様々な編曲で演奏され、耳に馴染んでいるメロディアスな作品である。
 
 また、歌曲『我が母の教えたまいし歌』は、クラシック音楽の声楽家のみならず、ポピュラー・シンガーによっても愛唱されている。  アントニン・ドヴォルザークのアーカイブは2023年に世界の記憶に登録された。
 
   チェコ音楽史における位置づけ ドヴォルザークの登場まで チェコの音楽界に民族主義が持ち込まれたのは、18世紀後半のドイツの哲学者で神学者でもあったヨハン・ゴットフリート・ヘルダーによって提唱された「民族精神」の概念によってであった。
 
 ヘルダーはチェコ民謡を採集し、アンソロジーの形で発表した。これに刺激され、19世紀になるとチェコ人自らが民謡の収集・出版を行うようになった。
 
 19世紀末から20世紀初頭には、スメタナ、フィビフ、ドヴォルザーク、ヤナーチェクといった才能の開花につながっていった。   
 
 
 このようなチェコ国民音楽の形成過程のなかで、個々の作曲家たちにとっては、民謡あるいは民族舞曲との距離の取り方が重要な問題として問われるようになっていった。
 
 保守的な伝統主義者であった作曲家フランティシェク・ラディスラフ・リーゲルとそのグループは
「民族色を打ち出すには民謡の単なる引用と模倣で十分である」
と主張し、一定の支持を得ていた。
 
 これを真っ向から否定したのがスメタナである。
 
 スメタナは1865年に
「民謡の旋律やリズムの模倣により国民様式が形成されるのではない」
と表明、標題音楽を創作することで国民性を獲得しようとした。
 
 すなわち、音楽の題材としてはチェコ民族の持つ歴史、詩歌、民話などを採用するが、技法的にはあくまでも西欧音楽の技法によることで、チェコ国民音楽を広くヨーロッパに知らしめようと考えたのである。そこでは、民謡の引用や舞曲リズムの使用は、具体的な場面描写に限定して用いられている。
 
 こうした「標題性」を重視する立場は「進歩派」と呼ばれ、フィビフらがこの思想に同調した。
 
 こうした立場は、先述のリーゲルやその思想を受け継いだフランティシェク・ピヴォダら「保守派」からは国民音楽ではなくドイツ音楽であるとの批判にさらされ、「進歩派」対「保守派」の論争となった。

(Wikipedia)

 

Antonín Leopold Dvořák アントニン・レオポルト・ドヴォルザーク  1

Antonín Leopold Dvořák アントニン・レオポルト・ドヴォルザーク  2 /京響 ドヴォルザーク:交響曲第9番 ホ短調「新世界から」

Antonín Leopold Dvořák アントニン・レオポルト・ドヴォルザーク  3 /東京都交響楽団 ドヴォルザーク:交響曲第3番 変ホ長調 op.10

Antonín Leopold Dvořák アントニン・レオポルト・ドヴォルザーク  4 /東京都交響楽団 ドヴォルザーク:交響曲第3番 変ホ長調 op.10

Antonín Leopold Dvořák アントニン・レオポルト・ドヴォルザーク  5 /ドヴォルザーク/スラヴ舞曲

Antonín Leopold Dvořák アントニン・レオポルト・ドヴォルザーク  6 /ドヴォルザーク:チェロ協奏曲 ロ短調 

Antonín Leopold Dvořák アントニン・レオポルト・ドヴォルザーク  7 /ドヴォルザーク 弦楽セレナーデ ホ長調 作品22 クーベリック

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする