霞ヶ浦のほとりで

徒然なるままに

親鸞(6:自然法爾) ー 終 ー

2018-05-20 20:03:42 | 雑学
この世(自然)の真の姿(真如)は絶対無であり、人間(衆生)の存在もその外にあるものではなく、本来の姿(相)は無である(相即無相)…納得。
しかし、人間は本質的に自己の主我に執着し、現実の自己は見えないので(迷倒の凡夫)真の安心は得られない…納得。
信において主我性が断じられて執着から脱却でき、初めて自己が生死の凡夫であることを知る…納得。
親鸞は「現実の安心」ということに宗教の本質を主張した。ここが未来教と思われがちの浄土教の諸師を超えた偉大さがある。問題は、往生するかしないか、弥陀が救うか救わないかではなく、現実に信を獲て本当に安心することにある…納得。
自然=真理=真如であるゆえ、自然の道理に従順なのが自然で最も合理的、自然と私が一枚となった無の世界が、明白な真実そのもの(自然法爾)である…大いに納得。
以上、解説書による予備知識を持って「教行信証」をじっくり読んでみたいと思っています。

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