飄(つむじ風)

純粋な理知をブログに注ぐ。

魂の法則・・・プロローグ

2013-06-01 18:06:50 | 魂の法則

これより、『魂の法則』を連載する・・・!
一体、何なんだ?!それは・・・、
読んでからのお楽しみ・・・!
ある方は、
これまでの人生が一変するかも知れない?!
又、ある人は、
嘲笑するだけかも知れないが・・・
真実の話である!!-プロローグ-

 

 人生には、多くの共時性に満ちている。言わば、ドラマのようなものだ。

 きっと、誰かは知らないが、シナリオライターが存在する。そう思わざるを得ないことがある。

 「UFOテクノロジー隠蔽工作」(スティーヴン・グリア博士著)を熟読完読したばかりであった。その折りもおり、一通のメールを頂いた。

Drstevengreer

 


 それが、『魂の法則』日本語訳者からのメールであった。

 スペイン在住の日本人(女性)である。そのメールの内容は、長くなるので割愛するが、『魂の法則』日本語訳本を広く拡散してほしいとの要望であった。

 早速、読んだ。

Tyosya

 


 そして、今日完読した。

 これは、永年曖昧にされてきた、人間の本質『魂』のディスクロージャー本であった。前記の「UFOテクノロジー隠蔽工作」が、宇宙時代の幕開けを告げるETV(地球外知的生命体宇宙船、ETI(地球外知的生命体)についてのディスクロージャーであるが、実は軌を一にしているからだ。

 それは、生命の永遠性と、魂の不変性は同じ事である。そして、生命体は宇宙に普遍的に存在する。今、地球に生まれた魂は、大きな進化のうねりの中にいる。

 それはこれまで隠蔽された地球外生命体(宇宙人)とそのテクノロジーと、人間の内面に持つ、隠された多次元宇宙の真相はその進化を速めるであろう。

 外なる大宇宙と内なる多次元宇宙は繋がっている。

 つまり、魂について知ることは、大宇宙を知ることにも繋がる。これが両者を通して一致した感想である。まずは、身近な内なる魂で知ることは、直面する人生の課題をよく理解することになり、やがては大いなる覚醒を促す力になるであろうと実感した。

 これが『魂の法則』日本語訳を、拙ブログで転載していこうとした理由であり、決意である。

 転載を待たずとも、『魂の法則』日本語訳を通読することをお奨めしたい、その方法は下記の日本語サイト:http://tamashiinohousoku.blogspot.com.esに行けば、無料でダウンロード出来るからである。

 それでも転載するのは、一口に食する時間の無い方にも、細切れに味わって頂けると考えたからだ。転載者のコメントも加えて参りたいとの思いもある。スルーされても結構である。

 

 魂の法則について、うすうす感づいては居たが、これほど明確に、しかも、現代的な分かり易い表現で、さらに、まさしく宇宙的に解説されたものは、初めてである。

 

 全く、拒絶する向きもあるかも知れないが、これが真実であるとしたら-(真実であると確信して余りあるが・・・)-読み逃したら、エライ事である。永遠の生命の中で、きっと後悔する時が必ず来る。そう確信するのである。

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題名: 「魂の法則」
スペイン語原題: “LAS LEYES ESPIRITUALES”
著者: Vicent Guillem Primo ヴィセント ギリェム・プリモ
邦訳: 小坂 真理
知的財産権登録番号 V-2095-08 (Valencia, España)
Copyright © 2008 Vicent Guillem Primo
Japanese Translation Copyright © 2013 Mari Kosaka
ホームページ: http://lasleyesespirituales.blogspot.com.es/
日本語サイト:http://tamashiinohousoku.blogspot.com.es
メールアドレス:tamashiinohousoku@gmail.com

 

Photohttp://creativecommons.org/licenses/by-nc-nd/3.0/deed.es_ES

 

「魂の法則」 by Vicent Guillem is licensed under aCreative Commons Reconocimiento-NoComercial-SinObraDerivada 3.0 Unported License. Creado a partir de la obra enhttp://lasleyesespirituales.blogspot.com.es/.
本書に修正を加えず営利目的にしない条件で、現在利用可能な全ての媒体によって、本書全体またはその一部の複製を許可するものとする。

 

 

 

 

 本文転載開始

 

はじめに

 


本書は、全世界の人々に贈る愛のメッセージだ。
メッセージがどのようにしてもたらされたのか、また誰から伝えられたのかということは、重要ではない。問われるのはその内容だろう。

これをどう扱うかは、各人の自由だ。無視しても、批判しても、検証しても、あるいは君自身の人生に適用してもらっても構わない。僕自身は、色々な経緯の後に、人生に応用するということを選んだ。

従って、対話相手であり本書の主人公であるイザヤが架空の人物なのか実在するのか、彼との会話が本物なのか、それがどのような状況下で起きたのか、などを判断するのは君に委ねたいと思う。いずれにせよ、これが君の心に届くように、真心をこめて書いたことに偽りはない。
僕の役に立ったように、君にとっても有意義なものとなってくれることを願う。

君が自分自身を知り、感情を目覚めさせてエゴを解き放つと共に、人生の目的を知り、自分に起きたことや今後起こる出来事を理解するために役立てて欲しい。

希望を持ち続け、他の人々への理解を深め、いつかは皆を愛せるように。また、自分が生きる世界を理解し、最も悲惨な状況からも最大の恩恵を引き出し、愛において成長できるように。
つまり、君が本来の自分になれて、自由で、自覚しながら真実の愛・無条件の愛を体験でき、そしてそれによって、更に幸せになってくれることを願う。

全ての愛をこめて。

 

序文

僕は、長い間いつも多くの疑問を抱えてきた。
それらは、存在の根源に関するものだった。いつも、自分の人生の目的や、皆の存在理由を知りたがっていた。

「僕は何者か」「なぜ存在しているのか」「他者はなぜ存在するのか」「僕らはここで何をしているのか」「何か特別なことをするためにやって来たのか」「人はなぜ生まれ、死ぬのだろうか」「僕らはどこからやって来て、どこに向かうのか」「死後にも、何かがあるのだろうか」

そして、それでおしまいではなかった。時には、世界中で目にするおびただしい不正に対する答えを求めた。

「人生は、なぜこれほど不公平なのか」「誰にも危害を加えたことのない小さな子どもが、生まれた時から誰からも愛されずに飢餓・戦争・貧困・病気・搾取・虐待で残酷なまでに苦しむその一方で、健康に生まれつき、幸せな環境で愛される子どもがいるのはどうしてか」「なぜ病気になる人とならない人がいるのか」「長生きする人がいる一方で、生まれた途端に死んでしまう人がいるのはなぜか」「苦悩と悪意は何のためなのか」「善人と悪人、幸福な人と不幸な人がいるのはなぜか」「僕はどうしてこの家族の下に生まれ、他の家ではなかったのか」「どうして他の人ではなく、この僕に、こんな災難が降りかかるのか」「他の人に起こる不幸が、自分に起こらないのはなぜか」「これらの違いは一体何によるのだろうか」

また、ある時は感情面でのものだった。

「なぜ僕は幸せでないのか」「なぜ幸せになりたいのか」「どうしたら幸せになれるのか」「僕を幸せにしてくれる愛の対象を見つけられるだろうか」「愛とは何で、感情とは何だろう」「この気持ちは何なのか」「愛す価値があるのか」「愛す方が苦しむのか、それとも愛さない方だろうか」
おそらく君も、人生のある時点で、同じような質問をしたことがあるだろうし、今でも時々そのように考えることがあるのではないだろうか。

 

でも僕たちは、日常生活の一日一日に追われているので、意識してこのような問題を提起する機会も、答えを見つけようと努力する時間も余りない。僕たちには、色んな義務や気を逸らされる雑事が多過ぎるのだ。そして、答えは簡単には見つからないし、探求すると自分が不安になるので、疑問は心の片隅に押し込めておくのだ。そうすれば、苦しみが軽減されるとでも思うのかもしれない。

これらの疑問の一つ一つに答えはあるのだろうか? ありきたりな答えを求めているのではなく、本当のことが知りたいんだ。真実は存在するのか? 何が真実なのだろう。どこに真理を求めるべきか。そしてそれが本物だと、どうして分かるのだろうか。

僕は、常に懐疑的で疑い深い人間だったが、探求心も旺盛だった。いつも自分自身で物事を確かめるのが好きだった。だから、小さい頃から教えられた宗教・哲学・科学の中に答えを見い出そうと、ずっと長い間探し求めてきたのだと自信を持って言える。

そしてどの分野にも、世の中の理解が深まる独自の宇宙観があったが、自分の現実をありのままに説明するには、宗教にも科学にも限界があるように思えた。いつも現実からかけ離れた、中途半端で矛盾し合う答えしか得られずに、僕の疑問が解消することはなかった。深く追求しようとどんなに努力を重ねても、最後には破ることのできない壁 ―質問を続ける気が損なわれてしまう最終回答― に突き当たった。

宗教から得られた最終回答は、「神の御心です。神のみが知るのです。私達には計り知れません」というものだった。

つまり、人の生まれ出る環境にどうして優劣があるのかや、病気になる人とならない人がいることや、寿命の長さの違いなどは、僕たちには理解できないということだ。死後に起きることや、他でもなくこの家族の下に生まれた訳や、なぜこんな世界なのかとか、神がこの世の不正を許容する理由などは、僕たちには、到底理解できないということなのだ。

そして科学から得られた最終回答は、大体次のものだった。「全ての事象は物理的な説明が可能だが、哲学的な観点から言えば、ほとんどは『偶然の産物』か『それが存在するかどうかは、科学的には証明できない』ということになる」


つまり、君が存在するに足る理由はないし、生きるに値する特別な目的もないということだ。もし概ね恵まれた環境の下に生まれたのだとしたら、それは偶然だ。生まれつき病気だったり健康なのも、どの家族に生まれるかや寿命の長短なども、偶然だ。科学的には、生まれる以前の生や死後の生の存在などは証明できない。科学的には、神が存在することも証明できない、などなど。

大抵の人は、このように教わったことを真に受けているので、誰かと話をしても、宗教を信じている人であれば、概ね、「神の御心です。神のみが知るのです。私達には計り知れません」と答えるだろう。

一方、科学を信奉する科学者の立場を取る人達は、宗教を信じるグループよりも知識があると信じ込んでいて、「それは偶然の賜物だ」または「科学的には証明できない」と答えるだろう。

僕にこんな風に答える第三のグループの人達もいた。「さあ、知らないな。君の質問に対する答えが何かは分からない。でも、そういうことを自問するのにも、答えるのにも興味がないんだ」

そして、僕が彼らに「悪いけれど、その答えは役に立たないよ。僕の質問に答えてくれていないのだから」と言うと、最初のグループの人なら、「それは、信仰心がないからだよ。信仰心さえあれば、知る必要なんかないよ」と言う。

二番目のグループなら「君には必要な知識が欠けてるからね。科学は答えをくれるさ。それが僕の言うところの『科学では証明できないってことが、科学的に証明されている』ことなんだよ」と返答する。

第三グループは、「払わなければならないローンがあるし、食わせないとならない家族がいるし、分割払いの車がある。週末には旅行に行くことになっているし、もう充分忙しいんだから、こんなことでこれ以上僕を煩わせないでくれよ」と言う。

最初のグループには、僕自身の疑問に答えることを放棄することなどできないと答えよう。放棄できるとしたら、自分の意志に背くことになるし、僕にはそうする気がないからだ。

第二グループには、知識の欠如によるものではないと答えたい。そのような知識は学んだ。僕は化学博士だし、物事の探求に限界を設ける必要がある、という結論に達したことは一度もない。計測する道具がないからといって、踏み込めない分野があるとは思わない。僕には僕自身がいるし、自分が自分の計器となればいい。僕は、自分が知覚したことは、精密な計器で測定できたも同様に見なしているで、他者もそれぞれが感知器であることを認めよう。だから、僕自身の計器で感知できないことがあったら、他の人達に、その人達の感知器では何を捉えたのかを聞いて、役に立つのか見てみようと思う。

第三のグループには何も言わないでおこう。彼らは僕の話を聞きに来ているのではないから。

こう言ってはいても、答えの探求において、役に立ったり注目するような事柄に出会えなかった訳ではない。だけど、より多くのヒントに出会えたのは、正規の道筋から外れたところでだった。

中でも最も興味を引かれたのは、他の人達の体験だった。それは、自分でも試せるものだった。誰かが以前に経験したのだとしたら、僕にも体験できるかもしれないからだ。

特に二つのことに興味を持った。アストラル体(幽体)での旅とナザレのイエスの生涯だ。この名前には聞き覚えがあるだろう? 僕は、教会が彼についてどう言っているかを問題にしているんじゃない。公式なもの非公式なもの、宗教上のものも世俗的なものも様々な起源の、随分沢山の資料を研究してみたが、ほとんどのものが二つの点で共通していた。それは、この人物が実際に存在したということと、話したり行ったりしたことが人類史上に多大な影響を与えた、ということだ。

一体何が僕の注意を引いたのだろう。それは「汝の敵を愛せよ、誰でも愛せよ」という彼のメッセージだった。全ての宗教の神々が征服や戦争を正当化するために利用され、人々や民族がありとあらゆる口実で絶えず戦い合っているような世の中(現状と同じく)で、それと全く反対のメッセージを携えた人物が現れたことが、目立たない筈はないだろう。そしてそれだけでなく、自分を手本として実践してみせたのだ。つまり、過大な約束しておきながら、後では言ったことと反対のことをするお馴染みの政治家のように、口先だけではなかったのだ。

けれど、イエスについては、死後に彼以外の人 ―中には彼と出会いもしなかった人達― によって書かれたものが余りにも多すぎて、一体どうしたら本当に起きたことが分かるのだろう? 彼が実際に言ったこと、または言わなかったことは何だったのか? 僕にはそれが気になった。

イエスのテーマは、後ほど本書で取り扱うので一旦置いて、今度はアストラル旅行(幽体離脱)について話したいと思う。

僕は、様々な著者の色々な本の中でその事象を知った。彼らは、身体をリラックスさせるあるテクニックによって、自分の身体から離れることが可能だとしていた。これが幽体(アストラル体)離脱である。信じられないだろう?

自分自身の身体から離れられるということに、興味を持っただけではなかった。この人達は、その状態で、物体の中を通過したり、考えただけで一瞬にして好きな場所に移動するというような、驚くべきことをやれると断言していたのだ。しかも、それだけではなかった。その状態では意識が拡大するため、人生の目的やこの世でするべきことがはっきりと理解できるというのだ。

僕は、この事に関心を持った。もしかしたら、疑問に対する答えを得られるかもしれない。失うものは何もない。「最悪でも、何も起こらないだけだ」、と考えた。そして、実際に取り組んでみることにした。

毎晩寝る前には、リラックス体操を行ってみた。一月ほどは何も起こらなかった。つまり、身体から離れることには成功しなかった。だけど、リラックスすることで何も感じられない訳ではなかった。これは、なかなか気に入った。通常感じられたのは足の裏の振動で、これは脚まで上昇してきて目で見えるほどだった。

ある日、この振動は脚よりも上に、胴体へ首へ、そして頭へと登っていって、とうとう身体の感覚がなくなった。激しいながらも心地よい振動だけとなり、そして、それは起こった。突然スポッ! と、超スピードでトンネルの中に発射されるような感覚を味わった。それは本当に信じ難い感覚で、言葉でどう表現していいのか分からない。目が回るような速度で一瞬のうちに何億キロメートルも旅したようだったが、不快な目眩も酔いも感じられなかった。そしてスピードが少しずつ減速していって、自分のいる場所を見てみることができた。

それは、おとぎ話から抜き出したような信じられないところだった。表現する言葉もないほど美しい自然に囲まれた湖があった。全てが、光も色も香りも音も本当に何もかもが、うっとりするようだった。そして、僕自身がその場に溶け込んだかのように、全てを活き活きと感じた。言い表せないほどの平和が息づいていた。僕は体験していること全てに余りにも驚いていたので、何も考えられないでいた。と、その時、一人でいるのではないことに気づいた。

水辺近くの石の上に座っている人がいた。自分でもどうやったのか分からないが、近づきたいと思っただけで、直ぐにその人がいる所に行きつくことができた。どうやら、そこでは、したいと心の中で思ったり考えたりするだけで実現できるようだった。彼は僕のことを待っていたようで、僕を見ても全く驚かなかった。年をとっていて、髪の毛も長いひげも完全に白髪ではあったけれど、老人につきものの疲労や苦悩の跡は見られなかった。白い祭服のようなものを着て、紐で腰を締めていた。でも、それが一番目を引く点ではなかった。

僕が惹きつけられたのは、彼のまなざしだった。あのような素晴らしい瞳は、この世では絶対に見ることができないだろう。優しく、人を見通すように透き通り、例えようがないほど落ち着いた平和な気分にしてくれた。変に聞こえるかもしれないけれど、その見知らぬ老人がまなざしで僕に愛を送ってくれているような気がして、自分が置かれたその居心地のいい状況を、大して奇妙だとも思わなかった。

ここからは、イザヤという名を語ったその素晴らしい老人との対話を、この最初の出会いとその後の巡り会いを思い出して、再現してみたいと思う。彼との対話は、僕の人生をより良いものへ、いや、はるかにいいものへと根本から変えるほどのものだったので、それをできる限り忠実に再現して、君たちと共有したいと思う。僕の解釈や印象に捉われることなく、彼の言葉を直接聞いて、君たち自身が自分なりの結論を引き出してくれればと思う。

さあ、寛いで座ってもらおう。幕が上がるから。【本文転載続く】