飄(つむじ風)

純粋な理知をブログに注ぐ。

魂の法則・・・その③ 神について・・・

2013-06-03 13:07:22 | 魂の法則

ここまでが基礎的認識だ・・・
いきなり、神?!、
我慢して、読んで頂く必要がある!
神に関する不毛の論争は、
絶えることがない・・・!
それは、
目に見えず、掴むことが出来ないからだ!

 

 しかし、感ずることは出来るだろう。

 

 論争には、常に自己矛盾に陥る。何故なら、人間にも神のごとく、創造する能力があるからだ。それは、神のごとく造られたからである。だが、神ではないのは、被創造物であり、創造主ではない。

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 初めがあり、終わりのないものである。

 神は違う。

 初めもなく、終わりのないものである。アルファであり、オメガであるところのものだ。全ての全てであるから、完全に測りきれるものでもなかろう。

 

 不毛の論争は割愛して、法則について考えてみることが肝腎であろう。幸い、人間は法則を追求する。因果の法則を認める。しかし、神について論ずるとき、それを放棄する。

 形而上の問題は、あくまで形而上の問題であって、見えないので、把握できないのでそうなる。

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 なら、それはさておき、法則について考えることは可能であり、人間にはその能力が備わっている。要は、その範囲が問題なのである。

 ここまでは、「魂の法則」の言わば、導入部門であって、本題は次回以降に始まる。魂は、創られた。何によってか? 神だろう。神は上に通ずる。下流の存在に上のことはよく知れない。推理することが出来よう。

 それが、法則を知ることである。

 実は、この「魂の法則」は、これからが佳境である。

 

 これまでも、魂についての語られた、あるいは、書かれた書物は多い。それらに通じている方々には、違和感のない話であろうが、斯く言う私もその一人であった。

 しかし、

 現代の諸相に最適の魂論は少ない。これがそれである。多くを書かないが、最後まで読み進んでいくと、分かる人には分かるであろう。

 敢えて言うなら、現代の福音書とでも呼べるであろう。福音とは、良い情報という意味で書いている。

 ところで、お詫びしておかなければならないことがある。昨日、本稿の準備段階で、公開してしまったようである。ちょっとちぐはぐな本稿をさらけ出してしまった。

 

 本文転載も、下準備中であった。もし、転載された方には、改めて完成稿を引き直して頂ければ、幸いである。まあ、読みにくかったかも知れないが、転載本文は基本変わりがないので、毒になったとは思っていないが、お詫び申し上げる。

 (原稿作成の手の内を見せてしまったようである。)

 

 

 

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題名: 「魂の法則」
スペイン語原題: “LAS LEYES ESPIRITUALES”
著者: Vicent Guillem Primo ヴィセント ギリェム・プリモ
邦訳: 小坂 真理
知的財産権登録番号 V-2095-08 (Valencia, España)
Copyright © 2008 Vicent Guillem Primo
Japanese Translation Copyright © 2013 Mari Kosaka
ホームページ: http://lasleyesespirituales.blogspot.com.es/
日本語サイト:http://tamashiinohousoku.blogspot.com.es
メールアドレス:tamashiinohousoku@gmail.com

 

Photohttp://creativecommons.org/licenses/by-nc-nd/3.0/deed.es_ES

 

「魂の法則」 by Vicent Guillem is licensed under aCreative Commons Reconocimiento-NoComercial-SinObraDerivada 3.0 Unported License. Creado a partir de la obra enhttp://lasleyesespirituales.blogspot.com.es/.
本書に修正を加えず営利目的にしない条件で、現在利用可能な全ての媒体によって、本書全体またはその一部の複製を許可するものとする。

 

【本文転載その③開始】




 やあ、弟よ! 遅かったじゃないか! 待ちくたびれて年を取ってしまったよ! 髪まで白くなってしまっただろう!

*何ですって? あなたの髪はもう白かったではありませんか!

 怒りなさんな。冗談だよ! こんな上の方ではユーモアのセンスもない、とでも思っていたのかい? さて、地上に戻ってからどうだったかい? 私を懐かしんでくれたかい?

*ええ、とてもあなたに会いたかったです。もう一度ここに来て平和を感じたいと思いました。あなたが教えてくれた本を見つけ出して読んでみました。とても参考になりましたが、質問がもっと増えてしまいました。

 喜ばしいことだ。さあ、言ってごらん。自由に質問を始めていいよ。

*信じている訳ではないんですが、霊性進化についてあなたが言ったことや本に書いてあることから推測すると、かなり複雑な組織化された計画のようなものがあるみたいなのですが。

 そうだよ。全宇宙の全ての生き物と全存在物を網羅する計画だ。もちろん、それぞれの魂には進化の具体的な計画があるがね。万物の生命はどれも愛され幸せになるように定められているのだ。この個人的な進化の計画には、様々な進化段階にいる多数の存在が関与していて、進むべき道をたどれるように各々の魂を支援しているのだ。

*どういう意味ですか。

 君たちには霊的な家族がいるということだ。

 君たちは誰もが、多数の霊的存在から愛されているのだ。先ず初めに神に、それから決して君たちを見捨てることのない君たち自身の守護神に、そして他の多くの霊魂たち。その多くは、すでに故人となっている今生や前生での友人や家族だ。しかも、それでも足りないかと言わんばかりに、君たちには全員に、伴侶とも言える自分に完全に似通った双子の魂が存在していて、それは本当の愛を感じ始める対象としては最適な相手なのだ。彼らの中には、君たちと同時期に転生している者もいて、肉体上の家族の一員であったりなかったり、または単に仲のよい人だったりする。

*そんなに愛されているのに、多くの場合に独りぼっちだと感じてしまうのは、どうしてでしょう。

 それは君たちが、同じ時期に転生していたり霊界から支えてくれている存在などの仲間との繋がりを知らずに、霊的世界から隔離されて暮らしているからだ。頭や五感の要求を聞くのに一生懸命で、心で感じる思いとはかけ離れてしまい、地上での使命を自覚できないからだ。

 一つはっきりさせておこう。物質界で独りだと感じられたとしても、霊的世界においては、決して独りになることなどない。この繋がりを発見し、その繊細な扉の向こう側に本当の生を発見するのは、一人ひとりにかかっている。だがその扉を開くことができる鍵は、愛情だけなのだ。

  真心を込めて願えば、君たちの感受性を目覚めさせ、君たちの苦悩を癒してくれる助けが得られるだろう。だが、それを受け取るためには愛を阻む鎧を自分で脱がなくてはならない。一人で孤立していたいと願う者には、その意思が尊重されるからだ。

*先ほど神に言及されたので告白するのですが、僕は神の存在をすごく疑問視しているのです。神に会ったことのある人などいるのですか。

 神の作品を見たことがないのか? 宇宙、生命、君自身だ。神はこれ以上君に近づけないほど近いところにいる。だが神は、自分を認めろとか心を開けとかを強制しない。君自身が神を感じたい、気づきたいと思わなくてはならない。

 しかし、もし君が、君ぐらいの大きさの、目や顔や腕や脚を持った自分に似た人に会うことを期待しているのだとしたら、絶対に神が分からないであろう。神はそれよりずっとすごいものなのだ。

 身体の細胞の一つが「どこに私がいるという身体があるのかい? 見えないんだけれど」と言うようなものだ。「君はその中にいるんだよ。気がつかないかい?」と答えても、細胞は言うだろう、「私が見えるのは細胞だけだよ。細胞! そこらじゅう私みたいな細胞だらけだ」と。「それでは、自分自身の性質や機能や他の細胞と築いている関係を良く見てごらん。全体を形成するのにどれほど素晴らしい連携をしているか、他の細胞同士との関係も調べて、その全体が作るものを観察してごらん。そうすれば、細胞よ、自分が一部となっている身体に気づいて、それを認識することができるだろう」

*では、どこに神が存在するという確証を求めることができるのでしょう。

 細胞での例のように、先ず最初に自分の存在、次に自分の周りの存在の中に、それは見い出せる。

 自分自身の存在を自覚していて、感じたり考えたりできる人はどこからやって来たのか? 完璧に全ての歯車が噛み合い調和がとれた宇宙の起源とは?

 それが、無ということなどあり得ない。なぜなら、無は、こんなにも複雑かつ美しいものを創造することなどできないからだ。成り行きに任せて鍵盤を叩いて美しいシンフォニーを作曲できると信じる人がいるだろうか? それと同様に、宇宙や生命や人間のように美しく複雑なものが、因果の結果としてではなく、偶然の産物だということはあり得ない。

*でもこれら全てを創造したのが、なぜ神でなければならないのですか。自然そのものには、創造する能力がないとでも言うのでしょうか。

 それなら、自然の創造能力はどこから生まれるのだ? 宇宙を司る法則はどこで出来た? 君たちは、自然や宇宙に創造する力があることや、その力を組織して秩序化する物理的・化学的・生物的な法則が存在することは認めているようだ。だから、科学者たちは、知らない現象を発見すると、無から生じたとは言わずに、それを生じさせた原因を探そうとする。つまり、君たちは日々の生活の中で、原因なくして結果なしという法則を認めている訳だ。

 それなのに、宇宙の起源は何か、つまり最初の原因は何か、という問いに答える時には、いつもは有効だと認めている原因-結果の法則に反して、「無から生まれた!」という原因なしの帰結を公言することをいとわない。これは、矛盾極まりないことだ! だから、全てに最初の原因がある筈で、それが神なのだ。

*何度もしつこく申し訳ないのですが、なぜ全てを創造したのが必ずしも神でなければならないのですか。僕たち人間には美しく複雑なものは創れないとでも言うのですか。例えば、音楽やコンピューターなど…

 君たちにも創造の能力があるというのは確かだが、その能力があるのだとしたら、何に起因するのだろう?

 宇宙には、様々な進化段階にいる多くの存在がいて、その進歩の度合いによって君たちよりも能力が高かったり低かったりする。しかし、彼らに始まりがあったとするなら、原因と結果の法則において、それ以前の何かの工程によって創造されたと認めるべきだろう。従って、実際には、被創造者の創造力というものは、すでに存在している法則に従って、他の創造物に対して発揮されるに過ぎない、と認めるべきだ。

 よって、我々は、創造されたのではなく悠久の時から存在し、今後も永遠に存在する、全存在物の法則と規範を定めた最初の創造主を認めなければならないこととなるのだが、それが神なのだ。

*では、神が存在するという可能性だけは認めましょう。神の存在を仮定した場合、僕は、その掴みどころがなく、姿を見せない神とされるものが誰で、どんな様子なのかということに興味があるのですが。

 作品を見れば作者が分かるだろう。自分自身や自分を囲む世界を知れば、神が分かり始める。生き物は創造主の潜在能力を秘めているので、人間の善良なる資質の全てをできる限り完璧に想像すれば、今の君の力ではたいそう不完全なものだとはいえ、それが神のイメージには一番近く、神の輪郭を描き始めたことになるのだ。「神とはどのようなものか?」という問いに「その存在になれた時の君のようだよ」と答えるものがあるが、それが的を得ている。

*善良なる資質とはどういうものですか。

 愛、叡智、正義、真実、謙虚、寛大、誠実、繊細、理解、慈悲…。

*神の資質で僕たちが持てないものがありますか。

 あるとも。創造主は、不変で全能で創られることがなく、いつも存在する。

 創造物は、終わりはないが初めはある。常に改善しようとしているので変移するし、絶えず拡大させている進歩の能力には制限こそないが、それは無限ではない。

*もし、神という存在がそんなにも完璧であるのなら、どうして、この世界に悪が存在することを許すのですか。

 神は、生き物が自由に体験し、間違いから学べるのを容認している。この世の悪は、神から生じたものではなく、霊的法則を知らないために他の被創造物を傷つける、進化の途上の人間が生んだものだ。

*それなら、それらの法則がどんなものなのか、教えて下さらなければなりません。僕にはまだ納得のいく答えが得られていない疑問が山ほどあり、この世界の非常に理不尽な出来事が理解できないので、その法則できちんとした説明が得られるのか疑問ですが。

喜んで。用意はいいかい。話すことが山ほどあるよ。

【本文転載その③終了→④へ続く】