勿論、宗教上の話ではない!
『いのり』の重要性、必要性、日常性・・・・・。
『いのり』は、願い事ではない。
想いの意識化である。
神社仏閣に行けば、誰でも自ずと祈る。願い事もするが、祈りと願いはやはり違う。願いは想念の実現だが、祈りは想念の意識化だ、と思う。だから、『意宣り』と書いた。勿論、造語である。
あまり、願い事をするのは好きではない。願いは在るのであるが、ことさらに願い事をするのは、遠慮して憚られる。
想念の実現と意識化はどう違うか?
実現は自らするものだが、意識化は宣言だ。だから願うことは憚られる。折角の自分の使命を頼み事にするのは好きではない。自分の仕事を頼みで実現しようとは望まない。
人生は折角与えられた、実践場だと考えている。
それを頼みとするは、勿体ない。
意識は宣言したい。もし、神様が居られるとしたら(いずれにしても、自分より上の方(意識体)はきっと居られるに違いない)、そんな願いなど先刻承知のはずである。何を望み、何をしたいのかは、きっと承知しているはずだ。
だから、その願いを宣言すれば、かなえられると感じている。そして、それを為すのは自分である。助けを願うことは、少し憚られる。勿体ない気がする。
そうであるから、神前、仏前、仏閣に立ち向かったとき、自ずと祈るが、殆ど、具体的な想念は浮かべない。ただ、心を丸くして集中するだけである。そうすると、勿論、雑念の在るが、外にある風や音や、時には厳寒や酷暑と同じように、在っても自分には無関係の境地がしばし訪れる。
寒いが寒苦しくなく、暑いが暑苦しくはなくなる。
風や音は別に心地よくもなく、さりとて、邪魔くさくもなくなる。
雑念は、あっても心を苦しめない。
日常もそう在りたいものだと考えるが、仲々、難しい。神社・仏閣に何様が居るかは知らないが、そこに詣でたときは、やはり、祈る。何教と言うことはない。そう言う雰囲気がある場所が、無いわけではない。
そう言う雰囲気では、祈る。そうではないところでは、何もしない。
大勢で、何かを唱えると云うことは、好きではない。一人で大声で祈ることもしない。黙って心の中で祈る。
清々しくなる。
殆ど、形式は必要ない。有ればあったで抗いもしない。しかし、心の中では関係ない。
そう言う祈りを、私はしている。自己流の祈り(『意宣り』=いのり)である。