飄(つむじ風)

純粋な理知をブログに注ぐ。

祈り(祈祷)=いのり=『意宣り(いのり)』・・・・・!

2011-02-28 20:36:55 | エッセイ風

勿論、宗教上の話ではない!
『いのり』の重要性、必要性、日常性・・・・・。




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 『いのりは、願い事ではない。


 想いの意識化である。


 神社仏閣に行けば、誰でも自ずと祈る。願い事もするが、祈りと願いはやはり違う。願いは想念の実現だが、祈りは想念の意識化だ、と思う。だから、『意宣り』と書いた。勿論、造語である。


 あまり、願い事をするのは好きではない。願いは在るのであるが、ことさらに願い事をするのは、遠慮して憚られる。


 想念の実現と意識化はどう違うか?


 実現は自らするものだが、意識化は宣言だ。だから願うことは憚られる。折角の自分の使命を頼み事にするのは好きではない。自分の仕事を頼みで実現しようとは望まない。


 人生は折角与えられた、実践場だと考えている。


 それを頼みとするは、勿体ない。


 意識は宣言したい。もし、神様が居られるとしたら(いずれにしても、自分より上の方(意識体)はきっと居られるに違いない)、そんな願いなど先刻承知のはずである。何を望み、何をしたいのかは、きっと承知しているはずだ。


 だから、その願いを宣言すれば、かなえられると感じている。そして、それを為すのは自分である。助けを願うことは、少し憚られる。勿体ない気がする。


 そうであるから、神前、仏前、仏閣に立ち向かったとき、自ずと祈るが、殆ど、具体的な想念は浮かべない。ただ、心を丸くして集中するだけである。そうすると、勿論、雑念の在るが、外にある風や音や、時には厳寒や酷暑と同じように、在っても自分には無関係の境地がしばし訪れる。


 寒いが寒苦しくなく、暑いが暑苦しくはなくなる。


 風や音は別に心地よくもなく、さりとて、邪魔くさくもなくなる。


 雑念は、あっても心を苦しめない。


 日常もそう在りたいものだと考えるが、仲々、難しい。神社・仏閣に何様が居るかは知らないが、そこに詣でたときは、やはり、祈る。何教と言うことはない。そう言う雰囲気がある場所が、無いわけではない。


 そう言う雰囲気では、祈る。そうではないところでは、何もしない。


 大勢で、何かを唱えると云うことは、好きではない。一人で大声で祈ることもしない。黙って心の中で祈る。


 清々しくなる。


 殆ど、形式は必要ない。有ればあったで抗いもしない。しかし、心の中では関係ない。


 そう言う祈りを、私はしている。自己流の祈り(『意宣り』=いのり)である。