カタルシス((英)catharsis(ギリシャ語)katharsis)とは
本来、語源は浄化・排泄の意味らしいが、一般的には、
『文学作品などの鑑賞において、そ
こに展開される世界への感情移入が行われることで、日常生活の中で抑圧されていた感情が解放され、快感がもたらされるこ
と。特に悲劇のもたらす効果としてアリストテレスが説いた。』と認識している。
人生とは、魂のカタルシスを経験するゲームである。悲劇もあれば、喜劇もある。一律には分類できない複雑な劇もある。主人公は、生きるその人で
ある。それ故、人生はゲームである。ゲームであるから、いずれは終息を迎える。それが死である。死はすべての終わりではない。人生のひとつのゲームの終わ
りである。往生と云うではないか。往生とは、文字通り往きて生きるとある。通過点に過ぎない。
古来、人間はその事実を認識していた。今、それを忘却したか、それともトチ狂って忘れた振りをしているかどちらかである。私は、後者だと思っている。
であるから、今生この時に、人類は大きなカタルシスを体験するために生まれ集っていると考える。それほど大きなゲームの展開が我々を待ち受けて
いる。そうとしか云えない。どうも、いろいろの情報を総合すると、カタストロフィー(Catastrophe=自然界および人間社会の大変動。変革。)は
確実のようだ。
勿論、そうした見解を一笑に付すことも自由である。しかし、それはよくよく調査の上、選択するのであれば、それは見解の相違と云うことで看過
できる。そうではなく、単なる願望の域ないしは偽(ウソ)(本年の漢字 2007年12月12日19時11分
読売新聞)を元に、真実を見落としているとしたら、自ら検証し直すことである。
このカタストロフィーをどう捉えるか、各自の自由である。只、今生の生は又、各自の自由意思で選択したのであれば、積極的の捉えることが出来
る。出自は自由意思で選択したとするのが、私の見解である。中には、生まれたのは親の所為で、生まれたくはなかったという者もいるかも知れないが、これは
浅はかな狭量と云うモノである。
人生は、所詮ゲームである。私はこの言葉に強い積極性を感じて、こよなく好んでいる。主人公は自分であって、演出者も自分である。回りはすべ
てエキストラ。これは、すべての人に云える事である。出来れば、似非ドラマではなく、迫真のドラマを演じてみたい。迫真とは、以て字の如く真に迫るとの
意。為(ウソ)は今年限りにしてもらいたい。否、したい。
世の中のウソを取り上げれば、本当にキリがない。ウソ八百とはよくぞ云った。しかし、モノは考えようで、金剛石(ダイヤモンド)も磨かれずんば光るまい。磨きには多種多様の石が必
要と同じで、ゲームも多種多様で面白い。カタルシスの程度もより高まるというモノだ。
今の状況は、人類全体の存亡を決めるゲームが展開しつつある。アセンションとかフォトンベルトとか他力的な要素には、あまり興味が湧かない。迫
り来る大破局・大艱難はほぼ事実と判断する。それは人類の生み出したモノだ。それにどう対処するかというのも人類の問題だ。それは大きな大きなゲームであ
る。そして、そのゲームをどう終息させるかというのも人類のテーマである。それに立ち向かう、それに対峙する。心躍らせるゲームではないか。
私は、きっとそれに勝つだろうと思っている。その理由は(ウソ)には、それに対応する本物(ホンモノ)があるから為(ウソ)の存在理由があると
いう事に尽きる。だから、、為(ウソ)は必ず暴かれる。簡単である。本物(ホンモノ)が現れると、為(ウソ)は消える。為(ウソ)は幻である。実体がな
い。
為(ウソ)が存在する理由は、唯一ある。本物(ホンモノ)を認識する判断力の磨き砂である。ドラマもそうではないか。悪役・敵役は必要で、悲劇こそ最高のカタルシスを生むと、かのアリストテレスは云っている。
人生のゲームを通じて、本物(ホンモノ)に気づいたとき、人はカタルシスを味わう。今、時代は最高のカタルシスを生む時を迎えている。カタルシスがあるから、次に歩むことが出来る。それがなければ、堕落だ。!!
【ホンモノの心洗われる魅力】 </object>