goo blog サービス終了のお知らせ 

飄(つむじ風)

純粋な理知をブログに注ぐ。

不思議な少年!! その95

2011-02-01 13:47:59 | 物語

山上の垂訓。イエス十二弟子に祈祷(いのり)の秘密を示す!! 


 このような分かり易い『山上の垂訓』はこれまで聞いたことも、読んだこともない。

Img_1652

記事に無関係>  


 さりとて、聖書の『山上の垂訓』とその優劣に差があろうか。


《参考に座右の舊(きゅう=旧)新約聖書(日本聖書協会発行)より一部抜粋》

第六章

1)汝ら見られんため己が儀を人の前にて行わぬように心せよ。然らずば、天にいます汝らの父より報いは得じ。

2)さらば施済(ほどこし)をなすとき、偽善者が人に崇められんとて会堂や街(ちまた)にて為すごとく、己が前にラッパを鳴らすな。誠に汝らに告ぐ。彼らは既にその報いを得たり。汝は施済(ほどこし)をなすとき、右の手のなすことを左の手に知らすな。これは施済(ほどこし)の隠れん為なり。然らば隠れたに見たまう汝の父は報い給わん。

3)なんじら祈るとき、偽善者の如くあらざれ。彼らは人に顕わさんとて、会堂や大路の角に立ちて祈ることを好む。誠に汝らに告ぐ。かれらは既に報いを得たり。なんじは祈るとき、己が部屋にいり、戸を閉じて、隠れたるに在す汝の父に祈れ。されば隠れたるに見給うなんじの父は報い給わん。また祈るとき、異邦人のごとく徒に言を反復するな。彼らは言多きによりて聴かれんと思うなり。さらば彼らに倣うな、汝らの父は求めぬ前に、なんじらの必要なる物を知り給う。

この故、汝らは斯く祈れ。「天にいます我らが父よ、願わくは、御名の崇めれん事を。御国の来たらんことを。御意の天野如く、地にも行われん事を。我らの日用の糧を今日も与え給え。我らに負債ある者を我らの赦した如く、我らの負債をも赦し給え。我らを試みに遇せず、悪より救い出し給え」 汝等もし人の過失を免さば、汝らの天の父も汝らを免し給わん。もし人を免さずば、汝らの父も汝らの過失を免し給わじ。

なんじら断食するとき、偽善者のごとく・・・・・・・・・以下略(マタイ伝より)



 確かに、文語は読んでいて格調がある。これはそれに馴染んでいるからで、他に理由はない。むしろ、若い人には馴染みにくいかも知れない。お経を馴染んでいるものにとっては、朗々たるお経をより有り難く感ずるのと同じである。 


 しかし、意味を解しなくては何の意味もないのであろう。やはり分かり易いに越したことはない。大切なのは内容である。


 祈祷(いのり)は大切だ。自分の心の想いを神の思念と同調させることである。決して、御願いすることばかりではない。願いもあろうが、それは既に知られていると考えるべきである。又、そうでなければ、神の神たる所以がない。そう考えることは極めて妥当なことだ。


 その意味で、聖書の中でも、山上の垂訓程、格調の高い聖句はない。


 はたして、信仰に正邪の区別があるとしたなら、ここであろう。信仰とは心の発露であって、余人を介する必要はない。よって、他人がどうこう言う必要はないのであるから、又、他人がどう判断するかを頓着する必要もないことである。


 偽善とは、常に他人を条件としている。あるいは神すらも他人の領域に容れている。だから、ひたすらに媚びへつらうのである。神は心の内に生わせる。人はすべからく、神の子だからである。


山上の垂訓。イエス十二弟子に祈祷(いのり)の秘密を示す。模範的祈祷(いのり)。赦免(ゆるし)のおきて。聖なる断食。詐欺の悪。ほどこし。


 翌朝日の出まえにイエスと十二弟子は祈りのために海辺の山に行った。そしてイエスは祈祷(いのり)の方法を弟子たちに教えて言った、

 「祈祷(いのり)は神と魂との深き交わりである。あなたがたが祈る時、偽善者のように、人の耳を喜ばすように、街や会堂に立って、ながたらしい言葉を述べ立ててはならない。


 彼らは人の評判を博するために信心深い様子をして言葉を飾り立てる。彼らは人の評判を求めるが、そのむくいは確かだ。しかしあなたがたが祈る時は、魂の密かな室(へや)に入り、戸をすっかり閉じ、聖なる瞑想で祈るがよい。


 数多き言葉を言うに及ばない。また異邦人のように何度も同じ言葉を繰りかえす必要もない。ただこの通りに折るのだ。

 『天にいますわれらの父よ、聖名(みな)のあがめられるように。御国の来るように。御心の天に行われるごとく、地にも行われるように。われらになくてならぬ食べものを今日も与え給え。

 すべてわれらの負債(おいめ)ゆるして下さるように、ほかの人々がわれらに負う負債(おいめ)を忘れさせ給え。

 われらに堪えがたき大きな誘惑者のわなにかからぬようにわれらを守り給え。

 かかるわなが来れば、これに打ち勝つ力を与え給え。』


 もしあなたがたが神と人に負うすべての負債、またあなたがたが勝手におきてを犯した負債からゆるしてもらいたいなら、あなたがたはすべての人の負債をゆるしてやらねばならぬ。それはあなたがたが人にしたように、、神はあなたがたにするであろうから。

 

 断食する時、それが人目につかぬようにするがよい。

 断食する時、偽善者はわざと化粧して陰気な顔つきをし、信心深そうな姿をして断食していることを人目に見せようとする。断食は魂の行為(おこない)で、祈祷と同じく魂の声なき行為である。

 神は決してどんな祈祷、断食も見のがし給わない。神は沈黙のなかを歩み、その祝福は魂の全ての努力にそそがれる。

 詐欺(いつわり)は偽善であるから、事実と違う自分を示そうとしてはならない。


 おのが信心振りをみせびらかすような特別のみなりをしたり、人が聞いて神聖な声と思うような音調を発してはならぬ。

 

 また困った人々を助けようとする時、街頭や会堂で自分のほどこしものを広告するために、ラッパを吹いたりしてはならない。人にほめられようとしてほどこしをする者は、人から報酬を受けるが、神はこれを顧(かえり)みたまわない。

 

 ほどこしをする時は、右の手に左の手の秘密を知らせてはならない。」

 

【宝瓶宮福音書:栗原 基訳】            


第十六部 イエスのキリスト者奉仕の二年目 


 第九十四章 山上の垂訓。イエス十二弟子に祈祷の秘密を示す。模範的祈祷。赦免(ゆるし)のおきて。聖なる断食。詐欺の悪。ほどこし。


1)翌朝日の出まえにイエスと十二弟子は祈りのために海辺の山に行った。そしてイエスは祈祷の方法を弟子たちに教えて言った、

2)「祈祷は神と魂との深き交わりである。

3)あなたがたが祈る時、偽善者のように、人の耳を喜ばすように、街や会堂に立って、ながたらしい言葉を述べ立ててはならない。

4)彼らは人の評判を博するために信心深い様子をして言葉を飾り立てる。彼らは人の評判を求めるが、そのむくいは確かだ。

5)しかしあなたがたが祈る時は、魂の密かな室(へや)に入り、戸をすっかり閉じ、聖なる瞑想で祈るがよい。

6)数多き言葉を言うに及ばない。また異邦人のように何度も同じ言葉を繰りかえす必要もない。ただこの通りに折るのだ。

7)『天にいますわれらの父よ、聖名(みな)のあがめられるように。御国の来るように。御心の天に行われるごとく、地にも行われるように。

8)われらになくてならぬ食べものを今日も与え給え。

9)すべてわれらの負債(おいめ)ゆるして下さるように、ほかの人々がわれらに負う負債(おいめ)を忘れさせ給え。

10)われらに堪えがたき大きな誘惑者のわなにかからぬようにわれらを守り給え。

11)かかるわなが来れば、これに打ち勝つ力を与え給え。』

12)もしあなたがたが神と人に負うすべての負債、またあなたがたが勝手におきてを犯した負債からゆるしてもらいたいなら、

13)あなたがたはすべての人の負債をゆるしてやらねばならぬ。それはあなたがたが人にしたように、、神はあなたがたにするであろうから。

14)断食する時、それが人目につかぬようにするがよい。

15)断食する時、偽善者はわざと化粧して陰気な顔つきをし、信心深そうな姿をして断食していることを人目に見せようとする。

16)断食は魂の行為(おこない)で、祈祷と同じく魂の声なき行為である。

17)神は決してどんな祈祷、断食も見のがし給わない。神は沈黙のなかを歩み、その祝福は魂の全ての努力にそそがれる。

18)詐欺(いつわり)は偽善であるから、事実と違う自分を示そうとしてはならない。

19)おのが信心振りをみせびらかすような特別のみなりをしたり、人が聞いて神聖な声と思うような音調を発してはならぬ。

20)また困った人々を助けようとする時、街頭や会堂で自分のほどこしものを広告するために、ラッパを吹いたりしてはならない。

21)人にほめられようとしてほどこしをする者は、人から報酬を受けるが、神はこれを顧(かえり)みたまわない。

22)ほどこしをする時は、右の手に左の手の秘密を知らせてはならない。」


 

【原文:The Aquarian Gospel of Jesus by Levi H. Dowling  


SECTION XVI

AIN

The Second Annual Epoch of the Christine Ministry of Jesus

 

CHAPTER 94

The Sermon on the Mount. Jesus reveals to the twelve the secret of prayer .
The model prayer.
The law of forgiveness. The holy fast. The evil of deceit.  Almsgiving.

NEXT morning ere the sun had risen Jesus and the twelve went to a mountain near the sea to pray; and Jesus taught the twelve disciples how to pray. He said,
2) Prayer is the deep communion of the soul with God;
3) So when you pray do not deceive yourselves as do the hypocrites who love to stand upon the streets and in the synagogues and pour out many words to please the ears of men.
4) And they adorn themselves with pious airs that they may have the praise of men. They seek the praise of men and their reward is sure.
5) But when you pray, go to the closet of your soul; close all the doors, and in the holy silence, pray.
6) You need not speak a multitude of words, nor yet repeat the words again and then again, as heathen do. Just say,
7)
Our Father-God who art in heaven; holy is thy name. Thy kingdom come; thy will be done on earth as it is done in heaven.
8) Give us this day our needed bread;
9) Help us forget the debts that other people owe to us, that all our debts may be discharged.
10) And shield us from the tempter's snares that are too great for us to bear;
11) And when they come, give us the strength to overcome.
12) If you would be discharged from all the debts you owe to God and man, the debts you have incurred by wilfully transgressing law,
13) You must pass by the debts of every man; for as you deal with other men your God will deal with you.
14) And when you fast you may not advertise the deed.
15) When fast the hypocrites they paint their faces, look demure, assume a pious pose, that they may seem to men to fast.
16) A fast is deed of soul, and like a prayer, it is a function of the silence of the soul.
17) God never passes by unnoticed any prayer, or fast. He walks within the silence, and his benedictions rest on every effort of the soul.
18) Deception is hypocrisy, and you shall not assume to be what you are not.
19) You may not clothe yourselves in special garb to advertise your piety, nor yet assume the tone of voice that men conceive to be a holy voice.
20) And when you give to aid the needy ones, blow not a trumpet in the street, nor synagogue to advertise your gift.
21) He who does alms for praise of men has his reward from men; but God regardeth not.
22) In giving alms do not let the right hand know the secret of the left.

 【続く】


不思議な少年!! その94

2011-01-21 15:43:48 | 物語

弟子たち麦をたべる。イエス彼らの寃(えん=ぬれぎぬ)を雪(すす)ぐ!! 


 何時の時代にも、形式主義は存在する。現代にも、パリサイ人は存在しないとは云えない。

Img_1687

記事に無関係>  


 聖書は優れた書物である。それが霊によって示された書物であろうがなかろうが、凡俗には判断出来ないことだから、そう言うことには関係なく、多くの真実を見いだすことが出来るからだ。


 ところが、聖書を崇拝するあまりに、教条的になるのは本来的に好みではない。教条的な人々は、何時の時代にもいる。何も聖書には限らない。全ての宗教にも当てはまるであろう。所謂、原理主義者である。 


 物事には、事の軽重というものが在ろう。エホバの証人が、輸血を断固、忌避し自分の子供すらも死に至らしめることが、報ぜられたことがある。輸血は良いものとは思わないが、かといって肉体を維持するには、緊急に必要な時もある。


 それと同じで、信仰は生けるもののためにあると考えれば、融通無碍の心得を必要とする。エホバは、ブルックリンの回し者が作ったカルトと考えているから、例に挙げるのは論外であるが、信者は教条主義の犠牲者だ。彼らは聖書を読んでいるが、本当は聖書の一方的解釈を洗脳されているのである。


 多くのクリスチャンは、真面目で真摯である。しかし、中には聖書を形式的に捉えすぎているきらいも無きにもあらずと感じる。投稿者がクリスチャンではないので、言わば素人であるから、一笑に付されるかも知れないが、それはしょうがない。


 もとより、『The Aquarian Gospel of Jesus』は、聖書とは違う。聖書派から云えば、異端であるかも知れない。しかし、聖書では聖書以外は異端とは一言も書いてはいない。ましてや、イエスはそう言ってはいないと思う。


 そう言う意味で、安息日に病人を癒したイエスは、何を伝えたかったか、考える意義ある章である。又、好きな章で、今更ながらイエスを信頼出来る所以である。。


  キリスト者熟した麦畠を通る。弟子たち麦をたべる。イエス彼らの寃(えん=ぬれぎぬ)を雪(すす)ぐ。キリスト者カペルナウムに帰る。イエス安息日にしなびた手をいやし、その行為を弁護す。


 再び安息日が来て、イエスと弟子たちは熟した麦畠を通った。そして彼らは飢えていたので、麦の穂を手でもんでたべた。彼らと一緒に行った人々のなかに厳格なバリサイ人が居ってイエスに言った、


 「先生、なぜお弟子たちが安息日にしてはならないことをするのですか。」


 イエスは言った、「あなたがたはダビデとその従者が食べもののなかった時に、どうしたか聞かなかったか。ダビデが神の家に行って、聖所の台から供えもののパンを取ってたべ、それから一緒に居った人々にもたべさせたことを聞かなかったか。

 わたしはあなたがたに言う、みなの人々よ、人の必要なものは儀式のおきてに勝って居る。そしてわれらの聖書には祭司たちが聖所に仕えて居る間だ、色々な方法で安息日をけがしたけれども、罪にはならなかった。

 安息日は人のために出来たもので、人が安息日のために出来たものではない。

 人は神の子で、最高のおきてなる永遠の正義のおきての下(もと)にあるから、成文律を取り消すことも出来る。犠牲のおきては人の作ったおきてに過ぎない。そしてわれわれのおきてにあっては、神が何よりも先ずあわれみを求めると記してある。あわれみはすべての成文律の上にある。

 人の子はすべてのおきての主である。『あわれみに正義は従う、されば謙(へりくだ)って汝の神とともに歩め』と書物に書いてあるのは、予言者が正義の総括(そうかつ)ではないか。」


 それからイエスと十二弟子はガリラヤに行き、安息日の前日カペルナウムのイエスの家についた。


 彼らは安息日に会堂に行った。群集もそこに来た。イエスは彼らを教えた。


 礼拝者のなかに手の不白由な人がいた。律法学者とパリサイ人はイエスがその人を見たことに気がついて言った、「彼はどうするだろうか。安息日にいやすだろうか。」


 イエスは彼らの思いを知り、手の不自由な人を呼んで言った、「起きてこれらの人々の前に立ちなさい。」


 また言う、「律法学者とパリサイ人よ、口を開いてわたしに答えよ。安息日に生命を救うのは罪か。もしあなたがたが羊.を飼い、その一匹が安息日に穴に落ちたら、これを助けあげるのが悪いか。翌日まで泥のなかに苦しめておくのがあなたがたの神の思召だろうか。」


 非難者はだまっていた。


 それから彼は彼らに言った、「羊は人間以上に貴いか。神の律法(おきて)は正義の岩に記されている。公正が律法を書き、憐れみがペンであった。」


 それからイエスは言った、「あなた、手をあげて延ばせ。」彼は手を挙げた、手がよくなった。


 パリサイ人は忿懣(ふんまん)のあまり、ヘロデ党とひそかに会合し、どうすればイエスを殺せるかと相談し始めた。しかし彼らは民衆が彼の擁護に立つから、公然と訴えることを恐れた。


 イエスと十二弟子は去って海辺に行き、多くの人々はこれについて行った。

 

【宝瓶宮福音書:栗原 基訳】            


第十六部 イエスのキリスト者奉仕の二年目



 第九十三章 キリスト者熟した麦畠を通る。弟子たち麦をたべる。イエス彼らの寃(えん=ぬれぎぬ)を雪(すす)ぐ。キリスト者カペルナウムに帰る。イエス安息日にしなびた手をいやし、その行為を弁護す。



1)再び安息日が来て、イエスと弟子たちは熟した麦畠を通った。

2)そして彼らは飢えていたので、麦の穂を手でもんでたべた。

3)彼らと一緒に行った人々のなかに厳格なバリサイ人が居ってイエスに言った、

4)「先生、なぜお弟子たちが安息日にしてはならないことをするのですか。」

5)イエスは言った、「あなたがたはダビデとその従者が食べもののなかった時に、どうしたか聞かなかったか。

6)ダビデが神の家に行って、聖所の台から供えもののパンを取ってたべ、それから一緒に居った人々にもたべさせたことを聞かなかったか。

7)わたしはあなたがたに言う、みなの人々よ、人の必要なものは儀式のおきてに勝って居る。

8)そしてわれらの聖書には祭司たちが聖所に仕えて居る間だ、色々な方法で安息日をけがしたけれども、罪にはならなかった。

9)安息日は人のために出来たもので、人が安息日のために出来たものではない。

10)人は神の子で、最高のおきてなる永遠の正義のおきての下(もと)にあるから、成文律を取り消すことも出来る。

11)犠牲のおきては人の作ったおきてに過ぎない。そしてわれわれのおきてにあっては、神が何よりも先ずあわれみを求めると記してある。あわれみはすべての成文律の上にある。

12)人の子はすべてのおきての主である。『あわれみに正義は従う、されば謙(へりくだ)って汝の神とともに歩め』と書物に書いてあるのは、予言者が正義の総括(そうかつ)ではないか。」

13)それからイエスと十二弟子はガリラヤに行き、安息日の前日カペルナウムのイエスの家についた。

14)彼らは安息日に会堂に行った。群集もそこに来た。イエスは彼らを教えた。

15)礼拝者のなかに手の不白由な人がいた。律法学者とパリサイ人はイエスがその人を見たことに気がついて言った、

16)「彼はどうするだろうか。安息日にいやすだろうか。」

17)イエスは彼らの思いを知り、手の不自由な人を呼んで言った、「起きてこれらの人々の前に立ちなさい。」

18)また言う、「律法学者とパリサイ人よ、口を開いてわたしに答えよ。安息日に生命を救うのは罪か。

19)もしあなたがたが羊.を飼い、その一匹が安息日に穴に落ちたら、これを助けあげるのが悪いか。

20)翌日まで泥のなかに苦しめておくのがあなたがたの神の思召だろうか。

21)非難者はだまっていた。

22)それから彼は彼らに言った、「羊は人間以上に貴いか。

23)神の律法(おきて)は正義の岩に記されている。公正が律法を書き、憐れみがペンであった。」

24)それからイエスは言った、「あなた、手をあげて延ばせ。」彼は手を挙げた、手がよくなった。

25)パリサイ人は忿懣(ふんまん)のあまり、ヘロデ党とひそかに会合し、どうすればイエスを殺せるかと相談し始めた。

26)しかし彼らは民衆が彼の擁護に立つから、公然と訴えることを恐れた。

27)イエスと十二弟子は去って海辺に行き、多くの人々はこれについて行った。


 

【原文:The Aquarian Gospel of Jesus by Levi H. Dowling  


SECTION XVI

AIN

The Second Annual Epoch of the Christine Ministry of Jesus

 

CHAPTER 93

The Christines go through a field of ripe wheat, and the disciples eat of the wheat
Jesus exonerates them. The Christines return to Capernaum. Jesus heals
a withered hand on the Sabbath, and defends his deed.

ANOTHER Sabbath day had come and Jesus and the twelve walked through a field of ripened wheat.
2) And they were hungry and they took the heads of wheat and in their hands threshed out the grain and ate.
3) Among the men who followed them were Pharisees of strictest sect, and when they saw the twelve thresh out the wheat and eat, they said to Jesus,
4) Sir, why do the twelve do that which is not lawful on the Sabbath day?
5) And Jesus said,
Have you not heard what David did when he and those who followed him had need of food?
6) How he went to the house of God and from the table in the Holy Place took of the presence bread and ate, and gave to those who followed him?
7) I tell you, men, the needs of man are higher than the law of rites.
8) And in our sacred books we read how priests profane the Sabbath day in many ways while they are serving in the Holy Place, and still are free from guilt.
9) The Sabbath day was made for man; man was not made to fit the Sabbath day.
10) The man is son of God and under the eternal law of right, which is the highest law, he may annul the statute laws.
11) The law of sacrifice is but the law of man, and in our law we read that God desires mercy first; and mercy stands above all statute laws.
12) The son of man is Lord of every law. Did not a prophet sum the duties of the man when in the book he wrote: In mercy follow justice and walk humbly with your God?
13) Then Jesus and the twelve returned to Galilee, and on the day before the Sabbath day they reached the home of Jesus in Capernaum.
14) And on the Sabbath day they went up to the synagogue. The multitudes were there and Jesus taught.
15) Among the worshippers was one, a man who had a withered hand. The scribes and Pharisees observed that Jesus saw the man, and then they said,
16) What will he do? Will he attempt to heal upon the Sabbath day?
17) And Jesus knew their thoughts and he called to the man who had the withered hand and said,
Arise, stand forth before these men.
18) And Jesus said,
You scribes and Pharisees, speak out and answer me: Is it a crime to save a life upon the Sabbath day?
19) If you had sheep and one of them fell in a pit upon the Sabbath day would you do wrong to take it out?
20) Or would it please your God to let it suffer in the mire until another day?
21) But his accusers held their peace.
22) And then he said to them,
Are sheep of greater value than a man?
23) The law of God is written on the rock of Right; and Justice wrote the law, and Mercy was the pen.
24) And then he said,
Man, raise your hand and stretch it forth.
He raised his hand; it was restored.
25) The Pharisees were filled with rage. They called in secret council the Herodians, and they began to plot and plan how they might bring about his death.
26) They were afraid to publicly accuse, because the multitudes stood forth in his defense.
27) And Jesus and the twelve went down and walked beside the sea, and many people followed them.

 【続く】


不思議な少年!! その93

2011-01-05 13:41:34 | 物語

イエス子供を火中から救い出し、聖言(みことば)で火を消す!! 


 聖言(みことば)で、火を消す等と言うことがあるだろうか?と考えるのが普通であろう。しかし、あり得る話だと考えることも、自由である。

Img_2081

記事に無関係>  


 投稿者などは、何でもあり得るという立場であるから、不思議とは想わない。細かく詮索つもりもない。人間は最終的には何でも出来る存在であると自然に考えている。


 問題は、聖意(みこころ)に叶うか否かが問題なのである。その真逆もあろうが、それは頂けない。しかし、それもあり得ることだと考えている。人は、神にも鬼にもなれる存在である。それだけの自由に委ねられている。


 だからと言って、その自由を無制限に吹聴するつもりはない。それは自業は自得であるからである。そのための良心がある。良心を台無しすることは、人間を止めることに通ずる。人間を人間たらしめることは何か? それを常に思考することが重要だ。


 それにしても、この章は好きな章の一つだ。誰でも真人間に成れるという希望がある。


 良心にはその根底に愛がある。愛はエネルギーである。その方向性が、時には憎しみになり、嫉妬になり、自暴自棄にするが、元は愛である。愛がないと言うことは、無い。愛が無いと云うことは、全てがないと言うことである。


 憎しみは愛の不在と云うが、それはウソであろう。愛故に憎しみが存在する。愛のエネルギーのベクトルの違いに他ならない。換言すれば、はき違えである。もっと云えば、利己愛であって、本来の姿ではない。愛は外に向かってこそ愛であろう。何故なら、愛は内から奔流するものであるから、それが行き場を失うと、自らを焼き尽くす。


 利己愛は、憎しみ、嫉妬、自暴自棄となって自らを焼き尽くす。とにもかくにも、愛なくして人は片時も生きられない。


  キリスト者ラザエの家で開宴中、町に火事が起る。イエス子供を火中から救い出し、聖言(みことば)で火を消す。酔っぱらいを救って実際的教訓を示す。



 さて、ラザロは祝宴を張り、イエスと十二弟子はそのベタニヤの家に行った。そしてラザロとその姉妹はイエスと十二弟子のために食事を用意し、またルツとアシャーもエリコから来た。これはアシャーがもうキリストに対して敵意を抱かなかったからである。


 客人たちが食卓についている時しも、見よ、村に火事だという叫び声が起った。人々は町に駆けつけた。見れば多くの隣人の家が燃えている。


 2階の部屋に一人の幼児(おさなご)が熟睡中であったが、誰も日の中を通ることは出来ない。母親は心配で狂わんばかり、子供を助けてくれと叫ぶばかり。


 その時イエスは火の霊が青くなって震え出すような大声拳、はりあげて言った、「だまれ、だまれ、静かにせよ。」


 それから彼は煙と焔(ほのお)の中を歩み、落ちかかって居る階段を昇り、一瞬にして再び姿を現わし、その両腕に子供を抱いていたが、火のあとが彼にも着物にも子供にもついていなかった。


 それからイエスは手を挙げて火の霊を叱りつけ、恐ろしい仕事を中止して静まれと言った。すると海上の大浪が一度に火焔を襲ったように火は消えた。あれ狂った火がやんだから、人々は火を鎮めることの出来る人を見ようと狂い出した。イエスは言った、


 「人は火のために出来たのでなく、火が人のために出来たものである。人が正気づいて神の子なることを知り、自分に神のすべての力がやどることを知れば、その人は大智者であって、すべての自然力はその声を聞いて喜んで従う。

 二頭の頑丈な驢馬(ろば)が人間の意志をしばりつけている。それは恐怖と不信である。これを捕えて投げ捨てれば、人の意志は無限に強くなる。そうすれば人間は言うだけで万事意の如くになる。」


 それから客人たちは戻って来て席についた。ひとりの小さな子がイエスのそばに立っていた。


 この女の子はイエスの腕に手をかけて言った、「どうぞ、イエス先生、お聞き下さい、父は大酒飲みです。お母さんは朝から晩まで働き、お金を 持って帰ると、父はこれをひったくって、すっかり酒代(さかしろ)にします。それで母も子供たちもひとばんじゅうおなかがへってひもじいのです。

 どうぞ、イエス先生、わたしと一緒に来て父の心に触れて下さい。酒を飲まない時は至って善良で親切ですの。お父さんを別人にするのはお酒です。」


 そこでイエスは子洪と共に出かけ、その荒れ果てた家に行った。彼は母と子供たちに親切に話しかけた。それから藁布団(わらぶとん)の中にやすんでいる酒のみを見つけた。


 彼はその手をとって言った、「わが友よ、われらの父神の姿に造られた人よ、起きてわたしと一緒に来ないか。あんたの隣人たちは大変こまって居る。恐ろしい火事で何もかもなくしてしまった。みんなは再び家を建てなければならない。そしてあんたとわたしは先きに立って働かなければならない。」


 するとその男は立ち上がった。二人は手に手をとって火事のあとを見た。


 二人は母親たちや子供らが街頭で叫んでいるのを聞き、その惨状を見た。


 そしてイエスは言った、「友よ、ここにわれらのなすべき仕事がある。助ける手段を講じてほしい。屹度ベタニヤの人々はあんたに材料を供して手伝ってくれるだろう。」


 長いことこの男の心にくすぶっていた希望の閃光(ひらめき)があおられて燃え出した。彼はぼろの着物をぬぎ捨てて、真人間となったのだ。それから彼は手伝いを求めた。これは自分のためでなく、家なき人々のためであった。みんなは手伝って、破れた家が再び建てなおされた。


 それから、その男は自分のみすぼらしい家を見て、心の奥底まで動かされた。


 人間としての自尊心が一杯になった。彼はlこの古巣を家庭らしくしよう」と言って、これまでなかったほどよく働いた。みんなも手伝ってやった。


 かくて間もなく不潔であったあばら家はひとかどの家庭らしくなり、愛の花が家の中に匂った。母と小さな子供たちは喜びに満ちた。その後父は二度と酒を飲まなくなった。


 これでひとりの人間が救われた。それから後、誰も怠慢とか酔態と言う言葉を口にする者なく、誰も無理に改心せよと言う者もなくなった。


 

【宝瓶宮福音書:栗原 基訳】            

第十六部 イエスのキリスト者奉仕の二年目 

 
 第九十二章 キリスト者ラザエの家で開宴中、町に火事が起る。イエス子供を火中から救い出し、聖言(みことば)で火を消す。酔っぱらいを救って実際的教訓を示す。


1)さて、ラザロは祝宴を張り、イエスと十二弟子はそのベタニヤの家に行った。

2)そしてラザロとその姉妹はイエスと十二弟子のために食事を用意し、またルツとアシャーもエリコから来た。これはアシャーがもうキリストに対して敵意を抱かなかったからである。

3)客人たちが食卓についている時しも、見よ、村に火事だという叫び声が起った。人々は町に駆けつけた。見れば多くの隣人の家が燃えている

4)2階の部屋に一人の幼児(おさなご)が熟睡中であったが、誰も日の中を通ることは出来ない。母親は心配で狂わんばかり、子供を助けてくれと叫ぶばかり。

5)その時イエスは火の霊が青くなって震え出すような大声拳、はりあげて言った、「だまれ、だまれ、静かにせよ。」

6)それから彼は煙と焔(ほのお)の中を歩み、落ちかかって居る階段を昇り、一瞬にして再び姿を現わし、その両腕に子供を抱いていたが、火のあとが彼にも着物にも子供にもついていなかった。

7)それからイエスは手を挙げて火の霊を叱りつけ、恐ろしい仕事を中止して静まれと言った。

8)すると海上の大浪が一度に火焔を襲ったように火は消えた。

9)あれ狂った火がやんだから、人々は火を鎮めることの出来る人を見ようと狂い出した。イエスは言った、

10)「人は火のために出来たのでなく、火が人のために出来たものである。

11)人が正気づいて神の子なることを知り、自分に神のすべての力がやどることを知れば、その人は大智者であって、すべての自然力はその声を聞いて喜んで従う。

12)二頭の頑丈な驢馬(ろば)が人間の意志をしばりつけている。それは恐怖と不信である。これを捕えて投げ捨てれば、人の意志は無限に強くなる。そうすれば人間は言うだけで万事意の如くになる。」

13)それから客人たちは戻って来て席についた。ひとりの小さな子がイエスのそばに立っていた。

14)この女の子はイエスの腕に手をかけて言った、「どうぞ、イエス先生、お聞き下さい、父は大酒飲みです。お母さんは朝から晩まで働き、お金を持って帰ると、父はこれをひったくって、すっかり酒代(さかしろ)にします。それで母も子供たちもひとばんじゅうおなかがへってひもじいのです。

15)どうぞ、イエス先生、わたしと一緒に来て父の心に触れて下さい。酒を飲まない時は至って善良で親切ですの。お父さんを別人にするのはお酒です。」

16)そこでイエスは子洪と共に出かけ、その荒れ果てた家に行った。彼は母と子供たちに親切に話しかけた。それから藁布団(わらぶとん)の中にやすんでいる酒のみを見つけた。

17)彼はその手をとって言った、「わが友よ、われらの父神の姿に造られた人よ、起きてわたしと一緒に来ないか。

18)あんたの隣人たちは大変こまって居る。恐ろしい火事で何もかもなくしてしまった。みんなは再び家を建てなければならない。そしてあんたとわたしは先きに立って働かなければならない。」

19)するとその男は立ち上がった。二人は手に手をとって火事のあとを見た。

20)二人は母親たちや子供らが街頭で叫んでいるのを聞き、その惨状を見た。

21)そしてイエスは言った、「友よ、ここにわれらのなすべき仕事がある。助ける手段を講じてほしい。屹度ベタニヤの人々はあんたに材料を供して手伝ってくれるだろう。」

22)長いことこの男の心にくすぶっていた希望の閃光(ひらめき)があおられて燃え出した。彼はぼろの着物をぬぎ捨てて、真人間となったのだ。

23)それから彼は手伝いを求めた。これは自分のためでなく、家なき人々のためであった。みんなは手伝って、破れた家が再び建てなおされた。

24)それから、その男は自分のみすぼらしい家を見て、心の奥底まで動かされた。

25)人間としての自尊心が一杯になった。彼はlこの古巣を家庭らしくしよう」と言って、これまでなかったほどよく働いた。みんなも手伝ってやった。

26)かくて間もなく不潔であったあばら家はひとかどの家庭らしくなり、愛の花が家の中に匂った。

27)母と小さな子供たちは喜びに満ちた。その後父は二度と酒を飲まなくなった。

28)これでひとりの人間が救われた。それから後、誰も怠慢とか酔態と言う言葉を口にする者なく、誰も無理に改心せよと言う者もなくなった。


【原文:The Aquarian Gospel of Jesus by Levi H. Dowling  


SECTION XVI

AIN

The Second Annual Epoch of the Christine Ministry of Jesus

 

CHAPTER 92

The Christines at a feast in Lazarus' home. A fire rages in the town.
Jesus rescues a child from the flames and stays the fire by the Word.
He gives a practical lesson on how to redeem a drunken man.

NOW, Lazarus was at the feast and Jesus and the twelve went with him to his home in Bethany.
2) And Lazarus and his sisters made a feast for Jesus and the twelve; and Ruth and Asher came from Jericho; for Asher was no longer hostile to the Christ.
3) And while the guests sat at the board behold a cry,
The village is a-fire!
and all rushed out into the streets, and, lo, the homes of many neighbors were in flames.
4) And in an upper room an infant lay asleep, and none could pass the flames to save. The mother, wild with grief, was calling on the men to save her child.
5) Then, with a voice that made the spirits of the fire pale and tremble, Jesus said,
Peace, peace, be still!
6) And then he walked through smoke and flame, climbed up the falling stair, and in a moment came again, and in his arms he brought the child. and not a trace of fire was on himself, his raiment, or the child.
7) Then Jesus raised his hand, rebuked the spirits of the fire, commanding them to cease their awful work, and be at rest.
8) And then, as though the waters of the sea were all at once poured on the flames, the fire ceased to burn.
9) And when the fury of the fire was spent the multitudes were wild to see the man who could control the fire, and Jesus said,
10) Man was not made for fire, but fire was made for man.
11) When man comes to himself and comprehends the fact that he is son of God, and knows that in himself lie all the powers of God, he is a master mind and all the elements will hear his voice and gladly do his will.
12) Two sturdy asses bind the will of man; their names are Fear and Unbelief. When these are caught and turned aside, the will of man will know no bounds; then man has but to speak and it is done.
13) And then the guests returned and sat about the board. A little child came in and stood by Jesus' side.
14) She laid her hand on Jesus' arm and said,
Please, Master Jesus, hear! my father is a drunken man; my mother toils from morn till night and when she brings her wages home my father snatches them away and squanders every cent for drink, and mother and us little ones are hungry all the night.
15) Please, Master Jesus, come with me and touch my father's heart. He is so good and kind when he is just himself; I know it is the wine that makes another man of him.
16) And Jesus went out with the child; he found the wretched home; he spoke in kindness to the mother and the little ones, and then upon a bed of straw he found the drunken man.
17) He took him by the hand and raised him up and said,
My brother, man, made in the image of our Father-God, will you arise and come with me?
18) Your neighbors are in sore distress; they have lost all they had in this fierce fire, and men must build their homes again and you and I must lead the way.
19) And then the man arose; the two went arm in arm to view the wrecks.
20) They heard the mothers and the children crying in the streets; they saw their wretchedness.
21) And Jesus said,
My friend, here is work for you to do. Just lead the way in helpfulness; I'm sure the men of Bethany will furnish you the means and help.
22) The spark of hope that so long had been smoldering in the man was fanned into a flame. He threw his ragged coat aside; he was himself again.
23) And then he called for help; not for himself, but for the homeless ones; and everybody helped. The ruined homes were built again.
24) And then he saw his own poor den; his heart was stirred into its depths.
25) The pride of manhood filled his soul; he said,
This wretched den shall be a home.
He worked as he had never wrought before, and everybody helped.
26) And in a little while the den became a home indeed; the flowers of love bloomed everywhere.
27) The mother and the little ones were filled with joy; the father never drank again.
28) A man was saved, and no one ever said a word about neglect or drunkenness, nor urged him to reform.

 【続く】


不思議な少年!! その92

2010-12-10 18:47:54 | 物語

エルサレムの祭典でのイエス。人はすべて神の子なることを示す!! 


 人は、全て神の子である。イエスは神の子であるとして、反感を買った。ましてや、人皆神の子と言うならば、総反感を買うところであろう。

Img_2019

記事に無関係>  


 しかし、クリスチャンの一部では、イエスは神の御子という言葉の意味には、イエスこそ唯一人の神の御子というニュアンスが含まれている。そんなはずはない。それには、この章が明快である。


 すごすごと退席した祭司のようにならないために、無知は啓かなければならない。。 


 これは、寓話であるが、ある時、無知な人間と、そうではない人間が居た。二人は罪を犯した。果たして、どちらの罪は深いか? との問いに対して、どう応えるか?


 無知な人間は、無知故に罪を犯したのだ。そうでない人間は、罪と知っていながら、犯したのである。何れが深刻かという問題である。投稿者は前者と応える。しかし、多くは無知な人間に同情するであろう。知らないから、仕方なかったと言うだろう。


 そして、知って犯した罪はより深い、と言うであろう。法律用語の悪意(知っていること)の罪という奴である。しかし、実際は逆だ。


 知って犯す罪は、改めることが出来る。知らずに犯す罪は、何度でも繰り返す。故に、無知による罪は、改まることがないから、より深刻である。


 これを無明の罪という。人間は無明から抜け出さなければならない。。


  エルサレムの祭典でのイエス。虚弱者をいやす。治療の実地教訓。人はすべて神の子なることを示す。


 祭日が来たのでイエスと十二弟子はエルサレムに行った。安息日の前日、彼らはオリーブ山に達し、北方にオリーブ山を仰ぐ一軒の宿屋にとまった。


 安息日朝早く彼らは羊の門からエルサレムに行った。


 門の近くにあるベテスダの霊泉は病気の人で一杯であった。それは一定の時刻が来れば天使が来て池に治療の霊験あるものを注ぐから、一番先きに入って洗った者がいやされると信じていた。


 イエスと十二弟子は池の近くに立っていた。


 そしてイエスは、そばに一人の男がいるのを見た。彼は三十八年もの間病んでいた。他人の手がなければ、彼は動くことができなかった。

 

 イエスは彼に言った、「わが兄弟よ、男よ、治りたいか。」

 その男は答えた、「何とかして治りたいのです。しかし私は、体が自由がききません。そして主の使いがやってきて、池に治癒力をふり注ぐとき、もう一人の歩ける男が、先きにその泉の中に入り、私は治らぬままになっています。」


 イエスは言った、「僅かの人しか治癒に恵まれないようなこの池に主の使いを遣わしたのは誰か。わたしは知っている。それは神ではない。彼はすべての人に対して平等に扱うからだ。天国の病の治る泉では、一人が他の人より機会に恵まれているということはない。

 健康の泉は、あなたの魂の中にある。そこには、しっかり錠のかけられた扉がある。鍵は信仰である。そしてすべての人は、この鍵をもつことができる。そこでその扉の錠を外し、病の治る泉にとびこみ、健全になることができるのだ。」


 するとその人は希望満々たる気分になり目を挙げて言った、「どうかこの信仰の鍵を与えて下さい。」


 イエス、「わたしの言ったことを信ずれば、あなたの信仰通りになる。起きて床をとりあげて歩め!」


 その人はすぐ立ちあがって去っていった。ただ神に感謝しますと言ったきりであった。


 そして人々が誰にいやされたかと聞けば、彼は答えた、「誰か知りません、池で見知らぬ人の一言でわたしはよくなりました。」


 イエスがこの人をいやした時これを見ない人が多かった。そして彼は十二弟子と共に宮の庭に行った。


 宮でイエスはその人を見て言った、「見よ、あなたはよくなった。これからのち生命を大切にするのだ。行ってこれからのち罪を犯してはならない。そうしないともっと悪いことが起るよ。」


 その人は今やっと自分をなおしてくれた人の誰かということが分かった。


 彼は祭司たちにこの話をしたが、彼らは大変怒って言った、「律法は安息日にいやすことを禁じている。」


 しかしイエスは言った、「わが父は安息日でも外の日と同様に働く。神はその雨、その日光、その露を送り、草を生えさせ、花を咲かせ、収穫を促すことは安息日もほかの日も同じだ。

 もし安息日に草が生え、花が咲くことが正しいなら、確かに悩める人を救うことは悪しくはない。」


 すると祭司たちはますます怒った、彼が神の子であると公言したからである。


 主立った祭司アビフは言った、「この奴はわが国民と律法に対して危険人物だ、自分を神の子と言う、生かしておけない。」


 しかしイエスは言った、「アビフよ、あなたは学者だ。生命の律法(おきて)を知っている筈だ。神の息子が人の娘を娶(めと)ったと創世記に書いてあるその神の子とは誰であったか。

 それはわれらの父アダムだ。彼はどんな人であったか、父があったか、或は星のように天から降って来たか。神から来たとモーセは言っているのをわれわれは読んでいる。もしアダムが神から来たなら、彼は誰かの子孫であったか、息子であったか、どうか。

 われらはこの神の子の子供である。それで尋ねる、博学な祭司よ、もし神の子でなければ、われらは誰の子か。」


 祭司は急用があるとて行ってしまった。


 イエスは言う、「人はすべて神の子である。人々が神聖な生活を送れば、いつも神とくつろぐ。人々は神のみわざを見てこれが分かる。そしてその聖名(みな)によってこのようなわざを行うことが出来る。

 雷電暴風は、日光や雨露と同様に、神の使者である。

 もろもろの天の美徳は神の聖手(みて)にある。すべての忠誠な子らは、このような美徳とこのような力を用いることが出来る。人間は地上に神の意志を行うための神の使者である。そして人間は病人をいやし天の霊をつかさどり、死人を生かすことが出来る。

 わたしにこのような力があると言っても、何の不思議もない。人間は誰でもこのようなことを行う力がある。しかし先ず低い自我のすべての情欲を克服しなければならない。これをやろうと思えば克服することが出来る。

 それであるから、人間は地上の神である。そして神をあがめる者は、人間をあがめなければならない。それは神と人間とは、父と子とが一体であるように、一体であるから。

 見よ、わたしは言う、時が来た、死者は人の声を聞いて生きる。それは人の子は神の子であるから。あなたがたイスラエルの人々よ、聞け、あなたがたは生きながら死んでいる、墓の中に閉じこめられている。


 (無知と不信よりも深い死はない。)


 しかし、すべての人間はいつかは人間の声によって明らかにされた神の声を聞いて生きるだろう。あなたがたはみな神の子であることを知り、聖なる言葉によって、神の聖業を行うだろう。あなたがたが生命に来る、即ち神の子なることを認めるなら、正しき生活をした人間で、生命の野にあって目を開く。

 しかし、罪の道を愛する者は、この復活にあって法廷の前に立ち、人々と自分自身に負う負債を払えと宣告されよう。何事であれ、誤った行為は再三再四繰り返して行わねばならないが、いつかは完全な人間の姿になる。


 時が来れば、最低のものと最高のものとが、共に立ち上がって光に歩む。


 わたしはあなたがたが神に告訴しようか。否、あなたがたの預言者モーセは既にそれをやった。そして若しあなたがたがモーセの言葉を聞かなければ、わたしの言うことも聴かぬだろう。モーセはわたしのことについて書いているからである。」


 

【宝瓶宮福音書:栗原 基訳】            

第十六部 イエスのキリスト者奉仕の二年目 

 
第九十一章 エルサレムの祭典でのイエス。虚弱者をいやす。治療の実地教訓。人はすべて神の子なることを示す。


1)祭日が来たのでイエスと十二弟子はエルサレムに行った。

2)安息日の前日、彼らはオリーブ山に達し、北方にオリーブ山を仰ぐ一軒の宿屋にとまった。

3)安息日朝早く彼らは羊の門からエルサレムに行った。

4)門の近くにあるベテスダの霊泉は病気の人で一杯であった。

5)それは一定の時刻が来れば天使が来て池に治療の霊験あるものを注ぐから、一番先きに入って洗った者がいやされると信じていた。

6)イエスと十二弟子は池の近くに立っていた。

7)そしてイエスは、そばに一人の男がいるのを見た。彼は三十八年もの間病んでいた。他人の手がなければ、彼は動くことができなかった。

8)イエスは彼に言った、「わが兄弟よ、男よ、治りたいか。」

9)その男は答えた、「何とかして治りたいのです。しかし私は、体が自由がききません。そして主の使いがやってきて、池に治癒力をふり注ぐとき、

10)もう一人の歩ける男が、先きにその泉の中に入り、私は治らぬままになっています。」

11)イエスは言った、「僅かの人しか治癒に恵まれないようなこの池に主の使いを遣わしたのは誰か。

12)わたしは知っている。それは神ではない。彼はすべての人に対して平等に扱うからだ。

13)天国の病の治る泉では、一人が他の人より機会に恵まれているということはない。

14)健康の泉は、あなたの魂の中にある。そこには、しっかり錠のかけられた扉がある。鍵は信仰である。

15)そしてすべての人は、この鍵をもつことができる。そこでその扉の錠を外し、病の治る泉にとびこみ、健全になることができるのだ。」

16)するとその人は希望満々たる気分になり目を挙げて言った、「どうかこの信仰の鍵を与えて下さい。」

17)イエス、「わたしの言ったことを信ずれば、あなたの信仰通りになる。起きて床をとりあげて歩め!」

18)その人はすぐ立ちあがって去っていった。ただ神に感謝しますと言ったきりであった。

19)そして人々が誰にいやされたかと聞けば、彼は答えた、「誰か知りません、池で見知らぬ人の一言でわたしはよくなりました。」

20)イエスがこの人をいやした時これを見ない人が多かった。そして彼は十二弟子と共に宮の庭に行った。

21)宮でイエスはその人を見て言った、「見よ、あなたはよくなった。これからのち生命を大切にするのだ。

22)行ってこれからのち罪を犯してはならない。そうしないともっと悪いことが起るよ。」

23)その人は今やっと自分をなおしてくれた人の誰かということが分かった。

24)彼は祭司たちにこの話をしたが、彼らは大変怒って言った、「律法は安息日にいやすことを禁じている。」

25)しかしイエスは言った、「わが父は安息日でも外の日と同様に働く。

26)神はその雨、その日光、その露を送り、草を生えさせ、花を咲かせ、収穫を促すことは安息日もほかの日も同じだ。

27)もし安息日に草が生え、花が咲くことが正しいなら、確かに悩める人を救うことは悪しくはない。」

28)すると祭司たちはますます怒った、彼が神の子であると公言したからである。

29)主立った祭司アビフは言った、「この奴はわが国民と律法に対して危険人物だ、自分を神の子と言う、生かしておけない。」

30)しかしイエスは言った、「アビフよ、あなたは学者だ。生命の律法(おきて)を知っている筈だ。神の息子が人の娘を娶(めと)ったと創世記に書いてあるその神の子とは誰であったか。

31)それはわれらの父アダムだ。彼はどんな人であったか、父があったか、或は星のように天から降って来たか。

32)神から来たとモーセは言っているのをわれわれは読んでいる。もしアダムが神から来たなら、彼は誰かの子孫であったか、息子であったか、どうか。

33)われらはこの神の子の子供である。それで尋ねる、博学な祭司よ、もし神の子でなければ、われらは誰の子か。」

34)祭司は急用があるとて行ってしまった。

35)イエスは言う、「人はすべて神の子である。人々が神聖な生活を送れば、いつも神とくつろぐ。

36)人々は神のみわざを見てこれが分かる。そしてその聖名(みな)によってこのようなわざを行うことが出来る。

37)雷電暴風は、日光や雨露と同様に、神の使者である。

38)もろもろの天の美徳は神の聖手(みて)にある。すべての忠誠な子らは、このような美徳とこのような力を用いることが出来る。

39)人間は地上に神の意志を行うための神の使者である。そして人間は病人をいやし天の霊をつかさどり、死人を生かすことが出来る。

40)わたしにこのような力があると言っても、何の不思議もない。人間は誰でもこのようなことを行う力がある。しかし先ず低い自我のすべての情欲を克服しなければならない。これをやろうと思えば克服することが出来る。

41)それであるから、人間は地上の神である。そして神をあがめる者は、人間をあがめなければならない。それは神と人間とは、父と子とが一体であるように、一体であるから。

42)見よ、わたしは言う、時が来た、死者は人の声を聞いて生きる。それは人の子は神の子であるから。

43)あなたがたイスラエルの人々よ、聞け、あなたがたは生きながら死んでいる、墓の中に閉じこめられている。

44)(無知と不信よりも深い死はない。)

45)しかし、すべての人間はいつかは人間の声によって明らかにされた神の声を聞いて生きるだろう。あなたがたはみな神の子であることを知り、聖なる言葉によって、神の聖業を行うだろう。

46)あなたがたが生命に来る、即ち神の子なることを認めるなら、正しき生活をした人間で、生命の野にあって目を開く。

47)しかし、罪の道を愛する者は、この復活にあって法廷の前に立ち、人々と自分自身に負う負債を払えと宣告されよう。

48)何事であれ、誤った行為は再三再四繰り返して行わねばならないが、いつかは完全な人間の姿になる。

49)時が来れば、最低のものと最高のものとが、共に立ち上がって光に歩む。

50)わたしはあなたがたが神に告訴しようか。否、あなたがたの預言者モーセは既にそれをやった。そして若しあなたがたがモーセの言葉を聞かなければ、わたしの言うことも聴かぬだろう。モーセはわたしのことについて書いているからである。


【原文:The Aquarian Gospel of Jesus by Levi H. Dowling  


SECTION XVI

AIN

The Second Annual Epoch of the Christine Ministry of Jesus

 

CHAPTER 91

Jesus at the feast in Jerusalem. Heals an impotent man.
Gives a practical lesson in healing. Affirms that all men are the sons of God.

THE feast time came and Jesus and the twelve went to Jerusalem.
2) Upon the day before the Sabbath day they reached Mount Olives and they tarried at an inn before Mount Olives on the north.
3) And in the early morning of the Sabbath day they went in through the sheep gate to Jerusalem.
4) The healing fountain of Bethesda, near the gate, was thronged about with people who were sick;
5) For they believed that at a certain time an angel came and poured a healing virtue in the pool, and those who entered first and bathed, would be made whole.
6) And Jesus and the twelve were standing near the pool.
7) And Jesus saw a man near by who had been stricken eight and thirty years; without a hand to help he could not move.
8) And Jesus said to him,
My brother, man, would you be healed?
9) The man replied,
I earnestly desire to be healed; but I am helpless and when the angel comes and pours the healing virtues in the pool,
10) Another who can walk, steps in the fountain first and I am left unhealed.
11) And Jesus said,
Who sends an angel here to potentise this pool for just a favored few?
12) I know it is not God, for he deals just the same with every one.
13) One has no better chance in heaven's healing fountain than another one.
14) The fount of health is in your soul; it has a door locked fast; the key is faith;
15) And every one can have this key and may unlock the door and plunge into the healing fount and be made whole.
16) And then the man looked up in hopeful mood and said,
Give me this key of faith.
17) And Jesus said,
Do you believe what I have said? According to your faith it shall be done. Arise, take up your bed and walk.
18) The man at once arose and walked away; he only said,
Praise God.
19) And when the people asked,
Who made you whole? the man replied,
I do not know. A stranger at the pool just spoke a word and I was well.
20) The many did not see when Jesus healed the man, and with the twelve he went his way up to the temple courts.
21) And in the temple Jesus saw the man and said to him,
Behold you are made whole; from henceforth guard your life aright;
22) Go on your way and sin no more, or something worse may fall on you.
23) And now the man knew who it was who made him whole.
24) He told the story to the priests and they were much enraged; they said,
The law forbids a man to heal upon the Sabbath day.
25) But Jesus said,
My Father works on sabbath days and may not I?
26) He sends his rain, his sunshine and his dew; he makes his grass to grow, his flowers to bloom; he speeds the harvests just the same on Sabbath days as on the other days.
27) If it is lawful for the grass to grow and flowers to bloom on Sabbath days it surely is not wrong to succour stricken men.
28) And then the priests were angered more and more because he claimed to be a son of God.
29) A leading priest, Abihu, said,
This fellow is a menace to our nation and our laws; he makes himself to be a son of God; it is not meet that he should live.
30) But Jesus said,
Abihu, Sir, you are a learned man; you surely know the law of life. Pray tell who were the sons of God we read about in Genesis, who took to wife the daughters of the sons of men?
31) Our father Adam; who was he? From whence came he? Had he a father? or did he fall from heaven as a star?
32) We read that Moses said, He came from God. If Adam came from God pray, was he offspring, was he son?
33) We are the children of this son of God; then tell me, learned priest, Who are we if not sons of God?
34) The priest had urgent business and he went his way.
35) And Jesus said,
All men are sons of God and if they live a holy life they always are at home with God.
36) They see and understand the works of God, and in his sacred name they can perform these works.
37) The lightnings and the storms are messengers of God as well as the sunshine, rain and dew.
38) The virtues of the heavens are in God's hands, and every loyal son may use these virtues and these powers.
39) Man is the delegate of God to do his will on earth, and man can heal the sick, control the spirits of the air, and raise the dead.
40) Because I have the power to do these things is nothing strange. All men may gain the power to do these things; but they must conquer all the passions of the lower self; and they can conquer if they will.
41) So man is God on earth, and he who honors God must honor man; for God and man are one, as father and the child are one.
42) Behold, I say, The hour has come; the dead will hear the voice of man, and live, because the son of man is son of God.
43) You men of Israel, hear! you live in death; you are locked up within the tomb.
44) (There is no deeper death than ignorance and unbelief.)
45) But all will some day hear the voice of God made plain by voice of man, and live. You all will know that you are sons of God, and by the sacred Word, may do the works of God.
46) When you have come to life, that is, have come to realize that you are sons of God, you who have lived the life of right, will open up your eyes on fields of life.
47) But you who love the ways of sin will, in this resurrection, stand before a judgment bar, and be condemned to
pay the debts you owe to men and to yourselves.
48) For whatsoever you have done amiss must be performed again, and yet again, until you reach the stature of the perfect man.
49) But in due time the lowest and the highest will arise to walk in light.
50) Shall I accuse you unto God? No, for your prophet, Moses, has done that; and if you hear not Moses' words you will not hearken unto me, for Moses wrote of me.

 【続く】


不思議な少年!! その91

2010-11-30 23:40:54 | 物語

イエスひとり山に行って祈る。弟子たち彼をさがし出す!! 


 ある日のこと、ふとある喫茶店に入った。勿論、理由なきサボリングである。別に理由はないから、何か雑誌でもと、本棚に目をやると、雑誌ではなくびっしりと本が詰めてある。

Img_2014

記事に無関係>  


 インドのヒンズーの本やら、何やらかにやら小難しい本が並んである。どうせ暇つぶしで、その中の一つを取った。それがこの書である。暇つぶしが時間つぶしに変わってしまった。すっかり、辺りは暗くなってしまっていた。 


 聖書は座右にあるが、ひと味違った魅力にとりつかれた。一応、書名は控えてあったから、ネットで調べると、あった。既に絶版であったが、古本で見つけた。買った。結構、古本でも高かったように想う。3000円近くはしたであろう。もう10年も前の話だ。


 しかし、繰り返し読んだ。何度読んでも飽きなかった。この本が本物であるとか、そうでないとか言う次元の頓着はない。著者についても、原作本の由来など関係ない。書いてあるそのまましか承知していない。だが、面白かった。只それだけである。


 本はこれまでにも結構読んできた。大して取り柄もないが、本の虫でもある。最近はネットでの情報収集で忙しいから、あまり読めなくなったが、言わば乱読派である。しかし、そうでもない場合がある。この本であった。もう、4,5回は読んでいる。こんな事は滅多にない。聖書ですら、通読は2度までだ。


 そこで、ブログを始めた序でに連載を志した。理由は精読をするにはぴったりだ。勿論、他の誰かに、読んでも戴きたい。そういう気持ちもある。それだけである


 何よりも、自分の感覚を拠り所としたい。その本が、正しいとか怪しいとかは考えない。正しいと感じたら正しいのだし、怪しいと感じたら、怪しい。人がそう言ったとしても、それはその人の感じ方だから、文句はないが、自分は自分の感じ方を優先する。


 この本は、不思議な魅力がある。そして、今はもう青年だが、少年の時から、こよなく愛着を感じてきた。そして、その言動は、信じられる。もっともだと思う。聖書よりも具体的で、分かり易い。これが史実と符合しているかどうかは、確かめようがないが、そんなことは2の次である。これが、本書の転載の理由である。


 イエスひとり山に行って祈る。弟子たち彼をさがし出す。十二弟子を招き共にいやしながらガリラヤを一周す。テベリヤで癩病人をいやす。キリスト者カペルナウムに帰る。イエスわが家で中風患者をいやし、治療の哲理と罪の赦しを明らかにす。


 

 キリスト者の先生は姿を隠した。誰乏の行方を知らない。ペテロとヤコブ、ヨハネがさがしに行って、彼がハンモス山の集合所に居るのを見出した。


 ペテロは言う、「カペルナウムの町は大騒ぎです。人々は町に集まり、どこの広場も人々で一杯です。男も女も子供たちも、到るところで意のままに病気をいやす人をさがして居ります。


 あなたの家もわれわれの家も、みな病人で一杯です。彼らはキリストと呼ばれているイエスを呼んで居ります。彼らに何と言えぱよいでしょうか。」

5)イエス、「ほかの多くの町々も呼んで居る。彼らに生命(いのち)のパンを持って行かねばならぬ。ほかの人々も連れて来て、一緒に行こう。」


 そしてイエスと十二人はピリボ、ナタナエルの住んでいるベッサイダに行って教えた。群集はキリストを信じ、罪を告白してバプテスマを受け、そして聖なる者の御国に入った。


 キリスト者の先生と十二人はガリラヤの町々をあまねくまわって、教え、また信仰を抱いて来て罪を告白するすべての人々にバプテスマを施した。彼らは盲人の目を開き、聾者(つんぼ)の耳をあけ、憑かれた者の悪霊を追い払い、その他あらゆる病気をいやしてやった。


 そして彼らが海の近くのテベリオで教えていると、ひとりの癩病人が近づいて来て言う、「主よ、わたしは信じます。若し御心なら、聖言(みことば)を言って下さい。さらばわたしは清められます。」


 イエス、「わが意に叶った。清くなれ。」するとその人は即座に清められた。


 イエスは彼に命じて言った、「誰にも言わず、行って祭司たちに自分を示し、それから清められたことに対して、律法(おきて)の定めに従って供物(そなえもの)を献げよ。」


 この人は狂気せんばかりであった。しかし祭司たちに行かないで市場に行って、到るところで自分の身に起ったことを語った。

 そこで病人たちは群をなして、治療者と十二弟子に押し寄せ、いやしてくれと懇願した。そして彼らはあまりにしつこいので、手の施しようがなかったからキリスト者たちは群衆の居る往来を去って荒野に行き、そこについて来た群集を教えた。


 数日の後、キリスト者たちはカペルナウムに帰って来た。イエスが家に居ることが分かると、民衆がやって来て、家のなかの部屋という部屋に一杯になり、入口もその通りであった。


 そこにはガリラヤの各方面から、またエルサレムから、律法学者、パリサイ人、博士たちが来ていたので、イエスは彼らに生命(いのち)の道を明らかにした。


 そこに四人の人々がひとりの中風患者を小さな寝台(ねだい)に乗せて連れて、来たものの、入口から入ることが出来ないから、病人を屋根に上げて通路を開き、これを治療者の面前に引きおろした。


 イエスは彼らの信仰を見て中風患者に言った、「わが子よ、元気を出しなさい。あなたの罪は悉く赦された。」


  これを聞いた律法学者とパリサイ人は言った、「なぜこの人はこんなことを言うか。神のほかに人の罪を赦すことができるか。」


 イエスは彼らの思いを察し、自分たちの間で問答していることを知って、彼らに言った、「なぜそのように互いに論じ合っているか。わたしが、汝の罪が消えたとか、起きて床を取り上げ、歩めと言ったとて、それがどうと言うのか。

 人がここで人の罪を赦すことができることを証明するため言おう。」(と言って中風患者に向って)、


 「起きよ。床を取り上げて帰るがよい」と言った。


 すると、その人は彼らの面前で、床を取りあげて去った。


 人々は見たこと聞いたことが附に落ちない。彼らは互いに「今日は忘れがたい日だ。驚くべきことを見た。」と言った。


 人々が立ち去った後、十二弟子が残っていたから、イエスは言った。


 ユダヤの祭典が近い。来週われわれはエルサレムに行き、遠くから来た兄弟たちに、王に逢える道を開いてやろう。」


 キリスト者たちは、静かな自宅に行って、数日問折りにすごした。


 

【宝瓶宮福音書:栗原 基訳】            

第十四部 イエ スのキリスト奉仕者としての第一年
 

第九十章 イエスひとり山に行って祈る。弟子たち彼をさがし出す。十二弟子を招き共にいやしながらガリラヤを一周す。テベリヤで癩病人をいやす。キリスト者カペルナウムに帰る。イエスわが家で中風患者をいやし、治療の哲理と罪の赦しを明らかにす。


1)キリスト者の先生は姿を隠した。誰乏の行方を知らない。ペテロとヤコブ、ヨハネがさがしに行って、彼がハンモス山の集合所に居るのを見出した。

2)ペテロは言う、「カペルナウムの町は大騒ぎです。人々は町に集まり、どこの広場も人々で一杯です。

3)男も女も子供たちも、到るところで意のままに病気をいやす人をさがして居ります。

4)あなたの家もわれわれの家も、みな病人で一杯です。彼らはキリストと呼ばれているイエスを呼んで居ります。彼らに何と言えぱよいでしょうか。」

5)イエス、「ほかの多くの町々も呼んで居る。彼らに生命(いのち)のパンを持って行かねばならぬ。ほかの人々も連れて来て、一緒に行こう。」

6)そしてイエスと十二人はピリボ、ナタナエルの住んでいるベッサイダに行って教えた。

7)群集はキリストを信じ、罪を告白してバプテスマを受け、そして聖なる者の御国に入った。

8)キリスト者の先生と十二人はガリラヤの町々をあまねくまわって、教え、また信仰を抱いて来て罪を告白するすべての人々にバプテスマを施した。

9)彼らは盲人の目を開き、聾者(つんぼ)の耳をあけ、憑かれた者の悪霊を追い払い、その他あらゆる病気をいやしてやった。

10)そして彼らが海の近くのテベリオで教えていると、ひとりの癩病人が近づいて来て言う、「主よ、わたしは信じます。若し御心なら、聖言(みことば)を言って下さい。さらばわたしは清められます。」

11)イエス、「わが意に叶った。清くなれ。」するとその人は即座に清められた。

12)イエスは彼に命じて言った、「誰にも言わず、行って祭司たちに自分を示し、それから清められたことに対して、律法(おきて)の定めに従って供物(そなえもの)を献げよ。」

13)この人は狂気せんばかりであった。しかし祭司たちに行かないで市場に行って、到るところで自分の身に起ったことを語った。

14)そこで病人たちは群をなして、治療者と十二弟子に押し寄せ、いやしてくれと懇願した。

15)そして彼らはあまりにしつこいので、手の施しようがなかったからキリスト者たちは群衆の居る往来を去って荒野に行き、そこについて来た群集を教えた。

16)数日の後、キリスト者たちはカペルナウムに帰って来た。イエスが家に居ることが分かると、民衆がやって来て、家のなかの部屋という部屋に一杯になり、入口もその通りであった。

17)そこにはガリラヤの各方面から、またエルサレムから、律法学者、パリサイ人、博士たちが来ていたので、イエスは彼らに生命(いのち)の道を明らかにした。

18)そこに四人の人々がひとりの中風患者を小さな寝台(ねだい)に乗せて連れて、来たものの、入口から入ることが出来ないから、病人を屋根に上げて通路を開き、これを治療者の面前に引きおろした。

19)イエスは彼らの信仰を見て中風患者に言った、「わが子よ、元気を出しなさい。あなたの罪は悉く赦された。」

20)これを聞いた律法学者とパリサイ人は言った、「なぜこの人はこんなことを言うか。神のほかに人の罪を赦すことができるか。」

21)イエスは彼らの思いを察し、自分たちの間で問答していることを知って、彼らに言った、

22)「なぜそのように互いに論じ合っているか。わたしが、汝の罪が消えたとか、起きて床を取り上げ、歩めと言ったとて、それがどうと言うのか。

23)人がここで人の罪を赦すことができることを証明するため言おう」(と言って中風患者に向って)、

24)起きよ。床を取り上げて帰るがよい」と言った。

25)すると、その人は彼らの面前で、床を取りあげて去った

26)人々は見たこと聞いたことが附に落ちない。彼らは互いに「今日は忘れがたい日だ。驚くべきことを見た。」と言った。

27)人々が立ち去った後、十二弟子が残っていたから、イエスは言った。

28)ユダヤの祭典が近い。来週われわれはエルサレムに行き、遠くから来た兄弟たちに、王に逢える道を開いてやろう。」

29)キリスト者たちは、静かな自宅に行って、数日問折りにすごした。


【原文:The Aquarian Gospel of Jesus by Levi H. Dowling  


                        SECTION XV

SAMECH

The First Annual Epoch of the Christine Ministry of Jesus

CHAPTER 90

Jesus goes alone to a mountain to pray. His disciples find him.
He calls the twelve and they journey through Galilee teaching and healing.
At Tiberius Jesus heals a leper. The Christines return to Capernaum. In his
own home Jesus heals a palsied man and makes known the philosophy of healing
and the forgiveness of sins.

THE Christine master disappeared; no one saw him go, and Peter, James and John set forth to search for him; they found him at his trysting-place out on the Hammoth hills.
2) And Peter said,
The city of Capernaum is wild; the people crowd the streets and every public place is filled.
3) The men, the women and the children everywhere are asking for the man who heals by will.
4) Your home and our homes are filled with people who are sick; they call for Jesus who is called the Christ. What will we say to them?

5) And Jesus said,
A score of other cities call, and we must take the bread of life to them. Go call the other men and let us go.
6) And Jesus and the twelve went to Bethsaida where Philip and Nathaniel dwelt; and there they taught.
7) The multitudes believed on Christ, confessed their sins and were baptized, and came into the kingdom of the Holy One.
8) The Christine master and the twelve went everywhere through all the towns of Galilee, and taught, baptizing all who came in faith, and who confessed their sins.
9) They opened up blinded eyes, unstopped deaf ears, drove forth the evil ones from those obsessed, and healed disease of every kind.
10) And they were in Tiberius by the sea, and as they taught a leper came a-near and said,
Lord, I believe, and if you will but speak the Word I will be clean.
11) And Jesus said to him,
I will; be clean.
And soon the leprosy was gone; the man was clean.
12) And Jesus charged the man, say naught to anyone, but go and show yourself unto the priests and offer for your cleansing what the law demands.
13) The man was wild with joy; but then he went not to the priests, but in the marts of trade, and everywhere he told what had been done.
14) And then the sick in throngs pressed hard upon the healer and the twelve, imploring to be healed.
15) And they were so importunate that little could be done, and so the Christines left the crowded thoroughfares, and went to desert places where they taught the multitudes that followed them.
16) Now, after many days the Christines came back to Capernaum. When it was noised around that Jesus was at home, the people came; they filled the house till there was no more room, not even at the door.
17) And there were present scribes and Pharisees and doctors of the law from every part of Galilee, and from Jerusalem, and Jesus opened up for them the way of life.
18) Four men brought one, a palsied man upon a cot, and when they could not pass the door they took the sick man to the roof, and opened up a way, then let him down before the healer's face.
19) When Jesus saw their faith, he said unto the palsied man,
My son, be of good cheer; your sins are all forgiven.
20) And when the scribes and Pharisees heard what he said, they said,
Why does this man speak thus? who can forgive the sins of men but God?
21) And Jesus caught their thought; he knew they questioned thus among themselves; he said to them,
22) Why reason thus among yourselves? What matters it if I should say, Your sins are blotted out; or say, Arise, take up your bed and walk?
23) But just to prove that men may here forgive the sins of men, I say,
(and then he spoke unto the palsied man)
24) Arise, take up your bed, and go your way.

25) And in the presence of them all the man arose, took up his bed, and went his way.
26) The people could not comprehend the things they heard and saw. They said among themselves,
This is a day we never can forget; we have seen wondrous things today.
27) And when the multitudes had gone the twelve remained, and Jesus said to them,
28) The Jewish festival draws near; next week we will go to Jerusalem, that we may meet our brethren from afar, and open up to them the way that they may see the king.
29) The Christines sought the quiet of their homes, where they remained in prayer for certain days.

 【続 く】