昨日は、小学校の日曜参観がありました。
午後1時15分からの授業参観でしたので、礼拝が終わって後、学校へと向かいました。参観日の予定としては、午後1時15分からの授業参観(人権の授業)、午後2時10分から保護者対象の人権学習会(講演会)があり、演題は「スマホやネットに潜む危険~仕組みを知って被害を防ごう~」というものでした。
私は、家に誰もいなくなることもあり、保護者対象の人権学習会には参加せず、午後2時5分の児童下校と併せて子どもと一緒に帰りました。
授業参観(人権の授業)では、「百日稼ぎ」をテーマにした物語を元に、対話形式で授業が進められました。「百日稼ぎ」の中で起こった差別の現実をテーマとして、出会いや対話、共感・共働を通して差別を乗り越えて行くことの大切さを学び、積極的に発言していたのも良かったと思います。
差別に限らず、人権について思いを寄せ、あらゆる差別をなくす思いはとても大切なことです。それには、大人が人権意識を持っているかが問われているように思います。大人が人権意識が欠け、差別をしているようでは、子どもたちが人権意識を持つことなどできません。
一方で、私の頭の中に思い浮かんだのは、大人も子どもも様々な機会を得て人権や差別の問題を学習しているにも関わらず、差別がなくならないのはどうしてなのかということです。例えば、外国人を低賃金奴隷労働に従事させることを人権の問題や差別の問題と結びつけて理解することができなのかと疑問に思います。
私の頭がおかしいのか、人権学習のプログラムがおかしいのか分かりませんが、今回の授業参観(人権の授業)で取り上げた「百日稼ぎ」の中で起こった差別の問題を考えたとき、私は外国人労働者が低賃金奴隷労働を強いられていることが差別であり、外国人が訴える声を通して共感すべき問題ではないかと思うのですが、さぁてさてさて・・・。