「裸に気づいて上着を着た」 ヨハネによる福音書21章1~14節
物語は、イエスさまを失った後、12人いた弟子たちが7人に減り、湖で7人が力を合わせて漁をしても何も獲れなかったという重苦しい雰囲気のお話です。正に、弱さの極みであると受け取れます。けれども、そこに恵がありました。それは、弱いからこそイエスさまが共にいてくださり、共に働いていてくださることに気がついたということです。イエスさまは「子たちよ」と声かけをし、「舟の右に網を降ろしなさい」とアドバイスをしておられたのです。実は、共にいてくださり、共に働いていておられたのです。
そのことに気がつき、「主だ!」と言った弟子がいました。ペトロは、その声を聞き、裸に気づいて上着を着て湖に飛び込み、イエスさまのところへ泳いで行きました。創世記には、アダムとエバが神さまから「食べてはならない」と命じられていた木の実を食べたところ、自分たちが裸であることに気づき、恥ずかしくなって葉っぱの腰巻きを身につけたこと、その後、神さまが近づいてくるのを知ったとき、恐れて隠れてしまったことを伝えています。「裸」であることに気がついたり、「恐れ」を抱いてしまうことが、神さまに対して罪を犯した自覚の現れであると教えられています。ペトロもまた、イエスさまに対する罪意識から、自らの裸に気づいて上着を着たのではないでしょうか。
7人の弟子が、みんな湖に飛び込んだ訳ではありませんでした。湖に飛び込んだ後の責任をカバーした者あり、網を引き続ける者あり、舟を操り続けた者あり、それぞれ違った働きではありますが、全体として共同作業を成し遂げました。それが、朝の食事へとつながっています。考え方や違いがあって当たり前ですし、皆が同じようにする必要もありません。時に、弱さを感じることもあるかもしれませんが、それもまた恵であると受け止めたいと思います。