「今日の小さなお気に入り」 - My favourite little things

古今の書物から、心に適う言葉、文章を読み拾い、手帳代わりに、このページに書き写す。出る本は多いが、再読したいものは少い。

どんなウソにも本当がまじっている 2014・04・09

2014-04-09 07:20:00 | Weblog


今日の「お気に入り」は、山本夏彦さん(1915-2002)のコラム集から。

「ウソとまことを並べて、どちらをとるかと聞くと、まじめ人間は、きまってまことの方をとると答える。ホントかねと聞くと、真顔でうなずく。信じかねて再び三たび念をおすと、しまいには怒りだす。真実の方をとるのは、人として当然のことで、聞くまでもないことで、それをしつこく聞くとは失礼だというのである。
 けれども、恋というものは『一生のうち何度でもできるものだ』と昔男が言ったとき、女たちは口をとがらして、一度しかできないと言いはった。殿がたは何度でもできるでしょう、げんになさっている、けれどもそれはいつわりの恋で、または浮気で、まことの恋は私たち女は一生に『一度しかできないものです』。
 ところがその同じ女たちが近ごろは、恋は何度でもできると言っている。昨日の恋人と今日の恋人は別人で、明日の恋人はまた別人であることが可能である。可能でどこが悪いと息まいている。それが恋だろうかと、今度は男が聞いて、恋だと女が答える番である。
 もしあとの言葉が本当なら、前の言葉はウソである。前の言葉が本当なら、あとのはウソである。一生に一度だと前にとがらした口と、毎月または毎日一度だと今とがらす口をくらべると、それは別人の口ではない。全く同じ口である。すこしばかり目鼻だちが違うが、それが違いだろうか。
 人はみめより心がけ、または人はみめよりただ心という。古い言葉だから、知らないだろうと思うと、たいていの娘は知っている。母親に言われたのだろう。みめは眉目と書く。顔だち、器量のことである。みめ形というと、顔ばかりでなく姿もいう。
 それは器量の良くない娘に言う言葉である。母親はなぐさめているつもりだが、なぐさめたことになろうか。心がけさえよければ、容貌は問わないというほどのことだから、たいてい娘が幼稚なころに言って、大きくなってからは言わない。言えば面と向って器量はよくない、せめて心がけでもよければと思うのにそれもよくないと言っているようで、娘は怒るかもしれない。
 そして一流の美人というものは、いつの時代でも稀なものである。二流の美人もすくないものである。してみれば、この言葉はまだまだ言われる。しかし、本当に人はみめより心がけだろうか。男という男は、心がけよりみめだと思っている。男が思うから、女も思っている。かくて、すこし美しい女はすこしの男を、もうすこし美しい女は、もうすこし多くの男を、さらに美しい女はさらに多くの男をとエスカレートして、結局最も美しい女は最も多くの男を従え、自在に翻弄して君臨できると、美しくない女は固く信じて、深く恨んでいる。
 女はみめで、心がけではない。それを心がけだというのはウソである。けれども心がけだといわなければ、美しくない女の立つ瀬はない。だからこの古い言葉は繰り返して言われ、最も若い女にも知られているのである。それはウソではあるけれど、全きウソではない。このなかにも、すこしは本当がまじっている。どんなウソにも本当がまじっている。また反対に、どんな本当にもウソはまじっている
                                                  〔『婦人公論』昭和47年7月号〕」

(山本夏彦著「とかくこの世はダメとムダ」講談社刊 所収)

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