今日の「お気に入り」は、山本夏彦さん(1915-2002)のコラム集から、昨日の続き。
「『近くパリに帰るが一緒に行くか』『行く』と答えたのはこの世は生きるに値しない、どこで暮すのも同じだから応じただけで、私にパリにあこがれなんか全くなかった。まもなくシベリア経由でベルリンまで行った。そのとき土方定一と一緒だったのである。土方二十八歳私より十二齢上で東大美学出身の長身の美青年である。ただ顔色は肺病らしくすすけていた。
ベルリンでは武林がブダペストにいる妻子のもとに行って帰るまで、一週間私は土方と同じホテルの同じ部屋にいた。入浴も同じバスでした。土方はお定まりのはじめ詩人やがてアナキスト次いでボルシェビキでドイツには病気で一年しかいられなくて、昭和八年私が帰ったころは明治文学研究家になりすましていた。戦後は美術評論家になって終った。私はそのご二、三年土方と往来があったが、土方は短気で些細なことで交わりを絶った。土方は晩年『近代美術館』の館長になった。全集十二巻がある。寄贈を受けたから旧交を温めたかったのだろうが、私は別に話もないので応じなかった。
〔『諸君!』平成十一年十一月号〕」
(山本夏彦著「最後の波の音」文春文庫 所収)