今日の「お気に入り」は、山本夏彦さん(1915-2002)のコラム集から、昨日のつづき。
「大きいものはいいものだというが、冗談だろうと、私は書いたことがある。大きいものは悪いものだ。大新聞、大銀行、大デパートと並べてみると分る。みな大きくて、悪いものである」。
(中略)
「山本周五郎氏は、弱いものと強いもの、貧しいものと富めるもの、正しいものと正しくないものを峻別する。そして、常に弱く貧しく正しいものの味方である。作者は一個の人格者で、その人格が小説に反映して、はからずも松下氏と共に修身の権化である。
人は修身がきらいだきらいだと言いながら、実は大好きなのである。新聞はそれと知って『天声人語』だの『余録』だのという欄をやめないのである。あれには立派なことばかり書いてある。書いた人が、決して実行しないだろう、修身のかたまりが書いてある。新聞が文部省の修身科復活と聞くと、必ず反対するのは、このためである。お株をとられるかと心配するのである。
大衆は修身を欲して、得られないから、両氏に殺到したのである。それなのに周五郎氏は曲軒と呼ばれ、つむじ曲りだそうである。ちなみに、つむじ曲りとへそ曲りは違う。へそ曲りは僅々二、三十年来の言葉である。正しくはつむじ曲りだと、勝手ながら私は思っている
したがって社会党は、何でも反対党だそうだから、へそ曲りではあっても、つむじ曲りではない。あんなもの、つむじ曲りの風上にもおけない。
つむじ曲りというものは、自分がつむじ曲りであることを恥ずかしく思うものである。自慢しないものである。我にもあらずそっぽを向いて、向いたとたんに後悔するものである。かくて、つむじ曲りは、曲っていない人に変装する義務を負う。」
(中略)
私は正義がいつも大きいものの上にあるのを怪しく思うものである。有利なものの上にあるのを疑うものである。正義はしばしば小さいものの方に、また不利なものの方にあると、弱年のとき私は聞いたことがある。
〔『諸君!』昭和48年4月号〕」
(山本夏彦著「とかくこの世はダメとムダ」講談社刊 所収)