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掲載の記事 「 子子子子子子子子子子子子 」。
「 子子子子子子子子子子子子( ねこのこ こねこ ししのこ こじし )は 、
日本の言葉遊びである 。
『 猫の子 仔猫 、獅子の子 仔獅子 』 と読む 。この問題を考え出した
のは嵯峨天皇 、解いたのは 小野篁( おの の たかむら )であると
伝えられている 。
伝 承
嵯峨天皇の時代 、内裏に『 無悪善 』 と書いた立て札が立てられた 。
天皇が篁に読み方を尋ねたところ「 さが( 悪 )なくてよからん( 嵯峨
天皇がいなければよいのに )」 と読んだため 、読めたのは篁が書いた
ために違いないとして怒った天皇は 、自分は何でも読めるのだと弁明す
る篁に 『 子 』の字を 12個 連ねたものを 差し出し 『 ならば 、これが読め
るか 』と問うたところ 、『 ねこのここねこ 、ししのここじし 』 とたちどころに
読んだため 、天皇の怒りが解けたという 。
解説と成立時期
『 子 』 という漢字には 、『 ね 』( 訓読み 、十二支から )、『 こ 』
( 訓読み )、『 し 』( 音読み 、呉音及び漢音 )、『 じ 』( 『 し 』
の変化形 )の 4通りの読み方がある 。このため 、このような読み方が
可能となる 。篁の機転をあらわす話であるといえる 。 」
( ついでながらの
筆者註 :「 嵯峨天皇( さがてんのう 、786年10月3日 〈 延暦5年9月7日 〉
- 842年8月24日〈 承和9年7月15日 〉)は 、日本の第52代天皇
( 在位: 809年5月18日 〈 大同4年4月1日 〉 - 823年5月29日 〈 弘
仁14年4月16日 〉)。 諱は神野( 賀美能・かみの )。 嵯峨源氏
の祖に当たる 。 桓武天皇の第二皇子 。母は皇后の藤原乙牟漏 。
同母兄に平城天皇 。異母弟に淳和天皇他 。
皇后は橘嘉智子( 檀林皇后 )。 」
「 皇子皇女が多数おり 、その生活費も財政圧迫の原因となった 。
そこで皇族の整理を行い 、多数に姓を賜り臣籍降下させた( 源氏の成立 )。
嵯峨天皇の子で源姓を賜ったものとその子孫を嵯峨源氏という 。
河原左大臣源融は嵯峨天皇の皇子の一人。」 ・・・ 人間天皇 お盛んだなあ
「 漢詩・書をよくし、空海・橘逸勢とともに三筆の一人に数えられる。
書作品としては延暦寺蔵の『 光定戒牒 』( 国宝 )が知られる 。
また 、華道嵯峨御流の開祖とも伝わっている 。 」
《 宝算 57 とか 》
「 小野 篁( おの の たかむら )は 、平安時代初期の公卿 、文人 。
参議・小野岑守の長男 。官位は従三位 、参議 。異名は 野相公 、
野宰相 、その反骨精神から 野狂 とも称された 。
小倉百人一首では 参議 篁 さんぎ たかむら 。 」
《 なぜか 本文に記載はないが 、小野篁 の 生まれ年は 延暦21年
( 802年 )、亡くなったのは 仁寿2年12月22日( 853年2月3日 )。》
「 嵯峨天皇が『 無悪善 』という落書きを読めと 篁 に命じたが 、篁は
なかなか応じようとはしない 。さらに天皇が強要したところ 、篁は
『 悪さが( 嵯峨 )無くば 、善けん 』(「 嵯峨天皇がいなければ良
いのに 』の意 )と読んだ 。天皇は 、これが読めたのは 篁自身が書
いたからに違いないと非難し 、篁は『 どんな文章でも読めます 』と
弁明したため 、では『 子子子子子子子子子子子子 』を読めと言った
ところ 、篁は『 猫の子の子猫 、獅子の子の子獅子 』と読み解き事
なきを得た(『 宇治拾遺物語 』巻三『 小野篁広才事 』)。 」
「 非常な母親孝行である一方 、金銭には淡白で俸禄を友人に分け与え
ていたため 、家は貧しかったという 。危篤の際に子息らに対して 、
もし自分が死んでも決して他人に知らせずにすぐに葬儀を行うように 、
と命じたとされる 。
身長六尺二寸( 約188cm )の巨漢でもあった 。なお 、当時 (平安
時代 ) の男性の平均身長は 159.5 ~ 163.5cm ほどであった 。」
「 承和元年( 834年 )遣唐副使に任ぜられる 。承和2年( 835年 )
従五位上 、承和3年( 836年 )正五位下と俄に昇叙されたのち 、
承和3年と翌承和4年( 837年 )の2回に亘り出帆するが 、いず
れも渡唐に失敗する 。承和5年( 838年 )三度目の航海にあた
って 、遣唐大使・藤原常嗣の乗船する第一船が損傷して漏水し
たために 、常嗣の上奏により 、篁の乗る第二船を第一船とし
常嗣が乗船した 。これに対して 篁は 、己の利得のために他人
に損害を押し付けるような道理に逆らった方法が罷り通るなら 、
面目なくて部下を率いることなど到底できないと抗議し 、さら
に自身の病気や老母の世話が必要であることを理由に乗船を拒否
した( 遣唐使は篁を残して6月に渡海 ) 。のちに 、篁は恨みの
気持ちを含んだまま『 西道謡 』という遣唐使の事業を( ひいて
は朝廷を )風刺する漢詩を作るが 、その内容 は本来忌むべき表
現を興に任せて多用したものであった 。そのため 、この漢詩を
読んだ嵯峨上皇は激怒して 、篁の罪状を審議させ 、同年12月に
官位剥奪の上で隠岐国への流罪に処した 。なお 、配流の道中に
篁が制作した『 謫行吟 』七言十韻は 、文章が美しく 、趣きが
優美深遠で 、漢詩に通じた者で 吟誦しない者はいなかったと
いう 。 」
「 承和7年(840年)赦免により帰京 」
以上ウィキ情報 。)
よいしょもあろうが 、色んなエピソードに事欠かない 才人 二人 。
平安時代の人も 、現代を生きる人も 、考えること 、やってることは 、おなじ 。