「今日の小さなお気に入り」 - My favourite little things

古今の書物から、心に適う言葉、文章を読み拾い、手帳代わりに、このページに書き写す。出る本は多いが、再読したいものは少い。

2005・06・21

2005-06-21 05:17:00 | Weblog
 今日の「お気に入り」は、山本夏彦さん(1915-2002)のコラム集から。

 「私は新聞雑誌を愛読する婦人を嫌悪している。彼女たちは、そこに書いてあることをまに受ける。同時にそれを口走る。吉田茂老は昨日は犬畜生で、今日は大宰相で、そんなら明日は何者だか知れはしない。芸術院会員は、多くは情実で選ばれる。絵かきはそれになりたがって、推挙してもらおうと運動する。金品を贈るのである。
 贈ってめでたく会員になる画家があると新聞で読むと、まーあきれた、それでも芸術家なのと、隣人に吹聴する。隣人もまた同じあきれ顔する。
 それでいて親戚の某の遠縁の誰さんは、その会員なんですってねーと、尊敬おかないのである。あわよくば接近してわが子の婚礼に招いて、一席弁じてもらいたがるとは前にも書いた。
 婦人ならびにまじめ人間は、耳からはいった言葉を口から出すから、その日の会話はその日の新聞に出ている言葉ばかりである。牛乳が三円あがってけしからぬと読めば、日本中けしからぬと和して、けしからぬ同志がはちあわせして、互に同類だと認めあって、安心するのである。
 もとより彼女は、乳呑子の母ではない。使いもしないミキサーの、掃除機の、ピアノの持主である。牛乳が三円あがったところで、痛くもかゆくもありはしない。騒げと号令かけられたから、騒ぐのである。
 まーあきれたと、真実軽蔑したような顔を、少年のころから私はまじまじと見てきた。この顔が、同時に尊敬おかない顔かと見たのである。してみれば、軽蔑も尊敬も、怪しや同じものである。それなのに、それが同じだと当人に思い知らせることは出来ないのである。出来ないと知ってなん十年になる。
 たいがいあきらめていい頃なのに、私はあきらめない。右でなければ左だと考えるのは、それは考えではないパターンであるジャーナリズムの言葉、およびそれに付和する投書の言葉は、ことごとくこのパターンである人はついに自ら見て、自ら考える存在ではないのか、ないのであると、自問自答して、私は信じまいと欲して、信じざるを得なくて、あきらめかねているのである。」

   (山本夏彦著「変痴気論」中公文庫 所収)
コメント
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