「今日の小さなお気に入り」 - My favourite little things

古今の書物から、心に適う言葉、文章を読み拾い、手帳代わりに、このページに書き写す。出る本は多いが、再読したいものは少い。

いつてみたいなよそのくに Long Good-bye 2024・07・06

2024-07-06 04:56:00 | Weblog

 

   今日の「 お気に入り 」は 、日本の夏の海の歌 二曲 。

   二曲とも童謡 。今年も梅雨明けなしで 、盛夏になりそ 。

   まずは 、作詞者・作曲者 不詳 の 「 海 」 ( 1913年の歌曲 )

  の歌詞 。

   同じ文部省唱歌でも 1941年(昭和16年)に発表された

  「 海は広いな 大きいな 」の歌い出しで始まる童謡「 海 」

  とは同名異曲 。そらで歌えるのは 、二曲とも一番のみ 。

 「 歌 詞 :

  一 、

  松原遠く 消ゆるところ 、
  白帆の影は浮かぶ 。
  干網 浜に高くして 、
  かもめは 低く波に飛ぶ 。
  見よ 、昼の海 。
  見よ 、昼の海 。 (^^♪

  二 、

  島山 闇に 著(しる)きあたり 、
  漁火 、光淡し 。
  寄る波 岸に緩くして 、
  浦風 輕く沙吹く 、
  見よ 、夜の海 。
  見よ 、夜の海 。」

  次は 、「 海は広いな 大きいな 」の歌い出しで始まる童謡

 「 海 」の歌詞 。作詞:林柳波 、作曲:井上武士 。

 「 一 、

  海は広いな 大きいな
  月がのぼるし 日が沈む  (^^♪

  二 、

  海は大波 青い波
  ゆれてどこまで続くやら

  三 、

  海にお舟を浮かばして
  行ってみたいな よその国  」。

  「 行ってみたいな 、海の向こう 」って歌詞も

 覚えているのは なんでだろ 

 

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列車食堂 Long Good-bye 2024・07・04

2024-07-04 04:51:00 | Weblog

 

 今日の「 お気に入り 」は 、内田百閒さん

 ( 1889 - 1971 )の随筆「 御馳走帖 」( 中公

 文庫 )の中から「 列車食堂 」と題した小文 の

 一節 。

  引用はじめ 。

 「 つひこなひだ 、所用があつて 、と云ひ
  たい所だが 、用事はなかつたけれど 、大
  阪へ行つて来た 。用事のない者は汽車に
  乗せないとは云はない様だから 、忙しい
  人にまぎれて 、澄まして乗つて行つた 。
  用事はなくても 、お金を分別して 、支度
  をして出かけたのだから 、どう云ふわけ
  で行く気になつたかと云ふ事を考へつめる
  事は出来る 。それを強ひて云へば 、暫く
  振りで 、汽車ぽつぽに乗りに行つたので
  ある 。
   さう云ふわけで 、車中もひまで退屈だか
  ら 、頻りに食堂へ出入した 。汽車に揺ら
  れて腹がへつたわけではなく 、お酒や麦
  酒が飲みたいからなので 、だからきまつ
  た食堂の時間を避けて食堂車のお邪魔をし
  た 。   」

 「  初めて特別急行と云ふものが出来て 、一
  二等編成の『 富士 』が走り出したのは 、
  何年頃の事であつたか 、年代の記憶ははつ
  きりしないけれど 、当時の宣伝ポスタアに
  紅茶を注いだ紅茶茶碗の絵がかいてあつて 、
  特別急行は非常に速いけれど 、揺れないか
  らお茶も茶碗の縁をこぼれないと云ふ説明
  がついてゐた 。
   特別急行『 富士 』には医務室があつて列
  車医が乗つてゐるから 、進行中に気分が悪
  くなつた人は申し出てくれとか 、列車長と
  云ふのもゐると云ふ宣伝であつた 。列車長
  と云ふのは後で考へると 、専務車掌の事だ
  つた様に思はれる 。腕に列車長と書いたき
  れを巻いたのは後まで続いた様だが 、列車
  医の方はぢきに姿を消したのではないかと
  思ふ 。尤も私がその御厄介になつた事もな
  く 、何しろ部外の素人のうろ覚えだから余
  りあてにはならない 。
   『 富士 』は特別急行と云つても 、それ
  からずつと後に出来た超特急『 つばめ 』
  程速くはなかつた 。だから『 富士 』の
  食堂の紅茶がこぼれなくても当り前かも知
  れないが 、昔の『 つばめ 』は今の『 つ
  ばめ 』や『 はと 』と同じ速さで走つた
  けれど 、食堂車ではソツプを出した 。矢
  つ張り線路の所為ではないかと云ふ気がす
  る 。」

  引用おわり 。

 その昔 小学生だった頃 乗った 超特急「つばめ」 は 、大阪・東京間を 、

 8時間50分で 、飛ぶように 、走っていた記憶があります 。

  近時記憶が飛ぶ頻度が増えて来た 、ような気がする 、今日この頃 、

  気のせいばかりじゃないようで 。

 

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カツレツ ビフテキ Long Good-bye 2024・07・02

2024-07-02 06:19:00 | Weblog

 

 今日の「 お気に入り 」は 、内田百閒さん

 ( 1889 - 1971 )の随筆「 御馳走帖 」( 中公

 文庫 )の中から「 人垣 」とした小文

 一節 。家電の冷蔵庫などなかった 、われらの

 父祖が暮らした 、ほんの百年前の時代 の お話 。

  引用はじめ 。

 「 暫く牛肉のすき焼きをたべない 。鍋の手
  順を忘れた様である 。思ひ出すと食べたい 。
  しかし明け暮れすき焼の事を考へてゐるわ
  けではない 。鼻の先でいいにほひをさせら
  れては困るが 、辺りにその気配さへなけれ
  ば食はなくてもよろしい 。学生時分の事を
  思ひ出して見るに 、人人は近年程牛肉を食
  つてゐなかつた様である 。
   豚の肉が一般の台所へ入る様になつたのは
  もつと遅い 。漱石先生の学生時分には牛肉
  が一斤四銭か五銭とかであつたと云ふ話を
  聞いた様に思ふ 。そんな古い事は勿論知ら
  ないが 、私共が学校を出た当時 豚は極上の
  ロースが四十銭位であつた 。二三年前まで
  の馬肉の値段よりもまだ安かつた 。
   豚は牛肉よりきたならしい様に思はれた 。
  お膳のわきで経木や竹の皮の包みを開いて
  豚肉の生の肉を見るのは 余りいい気持でな
  かった 。学生達に取つては 豚鍋よりもカツ
  レツの方が先にお馴染になつた様である 。
  当時は ポークカツレツ と云つた 。別に英
  語を気取つたわけではなく 、場末の一品
  料理店の書出しにさう書いてあつた 。
  んカツと云ひ出したのは極く近年であつて
  甚だ下品な音(おん) である
   学生の時分には方方に一品料理の西洋料
  理屋があつてカツレツ 、ビフテキ 、オム
  レツ 、コロツケなど懐の小遣の都合に従
  つて簡単に食べる事が出来た 。ところが
  警保局の丸山保安課長と云つたと記憶する
  が 、その人の英断で以て浅草六区の私娼
  窟を取り潰した為に 、頸に白粉を塗った
  女が市中に散らかり 、それが方方の一品
  料理屋へ這入り込んで後の女給の先駆者
  の様な役目をし出した 。ナプキン紙でビ
  フテキのナイフを拭いたり 、カツレツを
  細かく切つてくれたり 、うるさい事にな
  つて 、学生が ただ下宿のお膳に不足して
  ゐる滋養分を摂取する為には手軽に立ち
  寄ると云ふわけに行かなくなつた
   牛肉のすき焼の方はもとの侭で 、行き
  にくいと云ふ事はない 。しかし 一寸腰
  掛けで一品料理を食べるのと違ってお金
  がかかる 。それはお代りお代りでいくら
  でも食べるから さう云ふ事になる 。安上
  りのつもりでクラス会を牛肉屋でやると 、
  きつと足が出て幹事が困るのであつた 。
   大正十二年の大地震の後は諸事軽便にな
  つてすき焼も腰掛けで食べられる様にな
  つた 。」

  引用おわり 。

  われわれが目にする 現代の風俗は 、大概 大正時代

 には 、その萌芽があつたようです 。ビフテキ なんて

 言葉 、すっかり 聞かなくなりましたね 。

  カツレツ は cutlet 、ビフテキ は beefsteak 。

  幼い頃 、牛肉は生焼けでもいいが 、豚肉は中まで焼き

 色がつかないと 、食べちゃ駄目と言われたものです 。

  百閒先生の随筆の中には 、牛カツ 、豚カツ について 、

 こんな文章もあります 。牛カツにせよ 豚カツにせよ 今

 日の隆盛をみるまで 高々 百年 、歴史は浅い 。

 「 カツレツと云ふのはビーフカツレツで 、
  当今の様なポークカツレツ 、豚(とん)
  カツではない 。大正初め頃の話で 、豚
  肉が一般の食用になつたのはその後の事
  である 。
   初めの頃 、御用聞きが来て註文を受け 、
  豚肉を誂へられると 、後で経木にくる
  んだ豚を届けて来る 。牛肉は従来通り
  竹の皮である 。白つぽい経木の包みを
  お勝手の板の間へ置くと 、ちょいと 、
  その辺へ 、少し離して置いて行つてく
  れと頼む 。そこいらの外の物に触れれ
  ば 、きたない様な気がした 。豚と云ふ
  物の不潔感 、けがれの聯想が 、どうせ
  すぐ後で口にするにしても 、何となく
  拭ひ切れなかつた様である 。
   そこへ行くと 、牛肉は清潔である 、
  などと云ふ理窟はない 。小学校の友達
  の近所の大工が普請の屋根から落ちて死
  んだ 。前の晩に牛肉を食つてゐたので 、
  そのけがれの為だと云ふ 。」

 

 

 

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丸の内界隈 Long Good-bye 2024・06・30

2024-06-30 05:09:00 | Weblog

 

 今日の「 お気に入り 」は 、内田百閒さん

 ( 1889 - 1971 )の随筆「 御馳走帖 」( 中公

 文庫 )の中から「 腰弁の弁 」とした小文

 一節 。

  引用はじめ 。

 「 私は永年の間 、朝飯も午飯もたべなかつ
  た 。しかしそれはお膳に坐らないと云ふ
  のであつて 、一日ぢゆう晩まで何もたべ
  なかつたわけではない 。朝はビスケツト
  に林檎 、午は蕎麦のもりかけを食つて 、
  身体の調子がすつかりそれに馴れてゐた 。
   今度日本郵船会社の嘱託になつて出掛け
  るに就き一番閉口したのは食べ物の事であ
  る 。丸ノ内にだつて蕎麦はありますよと
  軽く云ふ人があるが 、蕎麦屋はあつても 、
  毎日私の待つてゐる時刻に持つて来させる
  のは中中骨が折れる 。出前持ちはこちら
  の気のすむ様にばかりしてくれるものでは
  ない 。仮りにきまつた時刻に持つて来る
  様に馴らしたとしても私は毎日行つてゐる
  わけではないから始末がわるい 。何曜日
  にはいらない 、外の日には時間を間違へ
  ては困ると云ふ様な面倒な事は 、大勢を
  相手に商売してゐる者に云つても無理で
  ある 。」

 「 そんなに六づかしいなら御自分から食ひ
  に行けばいいではないかと 、その説をな
  す人が云ふのであるが 、これは大変な誤
  解であつて私がいつも家で蕎麦ばかり食つ
  たのは 、蕎麦が好きな為ではなく 、蕎麦
  で一時のおなかを押さへて我慢をしたに過
  ぎない 。若し自分から足を立てて食べに
  出掛けると云ふことになれば 、蕎麦屋で
  盛りやかけを食ふよりは 、西洋料理とか
  鰻の蒲焼などの方が好きである 。ただ昼
  間の内からさう云ふ物を食べ散らす様なお
  行儀のわるい事をすると 、自分の身体に
  いけないから蕎麦で養生してゐたのである 。
  食意地が張つてゐて自制心の弱い私の様な
  者は 、成る可くうまさうなにほひのする
  場所へ近づかないに限る
   色色考へをめぐらして見たが 、いい分別
  がないので面倒になつて 、結局なんにも
  食べないのが一番簡単であると思ひ出した 。
   さうきめたので気も軽く 、おなかの中も
  軽いなりに日本郵船へ出かけてゐたが 、
  家を出る時から既に腹がへつてゐるので 、
  向うにゐる何時間かの内には 、二三度 目
  の前がぐらぐらとして 、机の端につかまる
  事がある 。廊下を歩くと 、時化に遭つた
  甲板の様に 、急に向うの方が高くなつたり 、
  足もとが落ちて行つたりして 、あぶなくて
  仕様がない 。郵船会社は見掛けは立派だけ
  れども 、廊下が安定してゐない 。」

 「 そんな事を暫らく続けたが 、あんまり腹が
  へるので 、或る日 節を屈して 、丸ビルで
  蕎麦を食つて見た 。あつらへたお膳は目の
  前に来たけれども 、辺り一面が大変な混雑
  で 、私のすぐ右にも左にも 、鼻をつく程
  近い前にも知らない人が一ぱいゐて 、みん
  な大騒ぎをして何か食つてゐる 。腹のへつ
  た鶏群に餌を投げてやつた有様で 、こつち
  迄いらいらして 、自分の蕎麦を食ふ気がし
  なくなつたから 、半分でやめて 、外へ出
  てほつとした
   そんな所へ行くのは一度で懲りたが 、郵
  船会社の中で足もとがふらふらする事に変
  はりはない 。若し廊下で倒れてしまつたら 、
  死因は空腹であると云ふ事になると 、郵船
  会社が見つともないであらう 。
   大分長い間 瘦せ我慢を続けてゐたけれど 、
  到底長持ちのする事でないと見極めがつい
  たので 、アルミニユームの弁当函に麦飯を
  詰めて携行する事にした 。机の抽斗に入れ
  ておいて 、そろそろ廊下の浮き上がつて来
  る二時半か三時頃に食べる 。おかずがうま
  いと御飯が足りなくなるから 、塩鮭の切れ
  つ端か紫蘇巻に福神漬がほんの少し許リ入れ
  てある計りである 。持つて来る時には中が
  詰まつてゐるから音がしないが 、夕方帰る
  時は 、エレヹーターに乗つた拍子に 、袱紗
  包みの中がからんからんと鳴る事もある 。」

  引用おわり 。

  日本郵船や丸ビルが出てくるので 、いつの頃の話かと

 思ったら 、昭和十年代 、太平洋戦争が始まる前の日本

 の首都 東京 、丸の内界隈にお勤めの頃の日常らしい 。

  随筆の中に 、以下の記述があり 、嘱託勤めの裏事情が

 わかって面白い 。

 「 私は嘱託として会社に顔を出してゐたが 、
  その内に戦争が始まり 、外洋航路は丸で
  駄目になつた 。郵船としての活動は麻痺
  してしまつて 、内部には人べらしも行は
  れるし 、私の様な我侭な地位は邪魔にな
  るばかりであつた 。
   その時分私は一時 、無給嘱託と云ふ事に
  なつた 。無給なら止めてしまへばいいで
  はないかと云ふに 、さうは行かないわけ
  がある 。当時頻りに報道班員と云ふ名前
  で軍から指名されて 、文士が支那や南方
  へ行かされた 。私にも直接 、軍からで
  はないが 、一寸そんな話があつた事もあ
  る 。それがいやなので 、郵船の屋根の下
  から出てしまふ時期ではないと思つた 。
  何も郵船の庇護を受けると云ふのではなく 、
  郵船にそんな力がある筈もなかつたが 、
  ただ自分は会社勤めの身分である 。文士
  としてのお役には立たないと云ふ顔がして
  ゐたかつたからである 。
   その内に又もとの有給嘱託に戻して貰つ
  て 、敗戦により郵船ビルを接収された後
  まで会社にゐたが 、・・・  」

 

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古き良き時代 Long Good-bye 2024・06・28

2024-06-28 06:03:00 | Weblog

 

 今日の「お気に入り」は 、また 内田百閒さん

 ( 1889 - 1971 )の随筆「 御馳走帖 」( 中公

 文庫 )の中から「 下宿屋の正月 」とした

 文の一節 。季節外れの話柄ながら 、明治と昭

 和にはさまれた 大正時代 の のんびりした社会

 の雰囲気 、代の雰囲気みたなものが 感じ

 られる 賄い付きの 下宿屋 の 正月風景  。

  引用はじめ 。

 「 学生時代に下宿屋でお正月を迎へた事は
  ない 。いつでも冬休みになる早早 郷里へ
  帰つて自分の家で年を越した 。
   それから十何年の後 、一旦 世間に地位
  を獲た後で失脚して 、私一人 場末の安下
  宿に引篭もり 、そこで 何度かのお正月を
  迎へる様な事になつた 。
   初めの内はそれ程でもなかったが 、次
  第に下宿料もたまり 、その侭 大晦日にな
  ると 、お神さんが 中中 八釜しく云つた 。
  向うも 余り成績のいい商売をしてゐる様で
  はないので 、困つてゐる事は解つてゐた
  が 、私の方でも当時は何の分別もなかつ
  た 。しかし 逃げ出す事も出来ないので 、
  障子を閉めた部屋の中に じつとしてゐると 、
  除夜の鐘が鳴つて お正月になつた 。
   元旦の朝は 目出度く おせつち物を盛つた
  お膳に お雑煮を添へて持つて来る 。また
  帳場からの心尽しで お燗が一本ついてゐる 。
  それで一ぱいやつてゐると 、廊下に著物
  のすれる音がして 、主人が 這入つて来る 。
  いつも洋服を著て どこか出歩いてゐるの
  だが 、今日は 紋付きを著用してゐる 。お
  まけに金縁眼鏡をかけてゐる 。平生 も眼
  鏡は掛けてゐる様だが 、銀かニツケルの
  曖昧な縁であつて 、気に掛けて見た事も
  ない 。しかし今日は 鼻の上に燦然と光つ
  てゐる 。更まつた時とか お目出度い時と
  かに佩用する金縁眼鏡は ふだんから蔵つ
  てあるらしい 。
   閾の所から坐った侭で這入つて来て 、お
  目出うを云つてくれる 。私の前身を知つ
  てゐる為か 、年輩の所為か知らないが 人
  の事を先生先生と呼び 、お金の事は兎に
  角として 少少尊敬してゐる様でもある 。
  一つお盃を頂戴致しませうと云ふから さ
  してお酌はしたけれど 、ここの主人は一
  滴も飲めない事を知つてゐるので 、どう
  するのかと思つてゐると 、一口に きゆつ
  と飲み干してしまふ 。何か取りとめもな
  い事を二言三言話し合つてゐる内に 、忽
  ち相手の顔が真赤になつた 。まだ外の部
  屋を廻らなければならないからと云つて出
  て行つたが 、二十何番迄ある内の 半分位
  しか人はゐないにしても 、一一 障子を開
  けて 、自分の家の中を 年賀をして廻るの
  は大変であらうと思つた 。私の所へは帳
  場からの通り路で 、最初に来てくれた様
  であつた 。
   午後になつて 、表へ出て見ようと思つて
  玄関に下りたら 、帳場の炬燵に 主人が金
  縁眼鏡をかけた侭 真赤な顔をして眠つてゐ
  るのが 障子の腰硝子 から見えた 。
   下宿屋にゐても お正月は矢つ張り静かで
  あつた 。下女と早稲田の学生とが 裏庭で
  羽をついてゐる音が 聞こえたりした 。」

   引用おわり 。

   昨今の物価の高騰 、巷に怨嗟の声が満ちている 。

  どこへ行っても 高齢者 。街中だけでなく 、ネッ

 トの交流サイトにさえ 高齢者が大勢たむろしている 。

  とくに 、収入は年金のみの高齢者の、シャキッと

 しない 長期ダラカン政権に対する 恨み は 深い 。

 物価高騰に定額の年金は目減りする一方 。先立つ

 ものに事欠いては 、買いたい物に伸ばす手が鈍る 。 

 年は取っても 、働けなくても 、情けなくても 、

 多数派有権者 。 

  ケチョンになると深海魚を決めこむ、茶の間の

 和服姿がとてもよくお似合いの 、増税メガネ に

 瓢箪から駒 が出かねない 解散総選挙なんぞ こわ

 くて こわくて 打てやしない 。

  来年まで 、がまん がまん 、深海魚路線で行くだ

 ろう 。

  人口に占める高齢者の割合は 30% に なんなん

 とす

  明治 、大正 言うまでもなく 、昭和 も 遠くなりに

 けり 。今日の天気は 、雨 ときどき 已む 。

 

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わたしの彼は左きき Long Good-bye 2024・06・26

2024-06-26 04:50:00 | Weblog

 

 今日の「 お気に入り 」は 、内田百閒さん

 ( 1889 - 1971 )の随筆「 御馳走帖 」( 中公

 文庫 )の中から「 窮屈 」とした小文 の一節 。

  引用はじめ 。

  「 私がお菓子を食ふのを見て 、あなたは酒
  飲みの癖に甘い物をたべるのですかと怪し
  む客がある 。中にはけしからん事の様に
  考へる人もゐるらしい 。酒飲みは酒飲み 、
  甘党は甘党と片づけなければ気がすまぬの
  であらう 。
   酒飲みの中にも 、本当はたべたくないわ
  けではないが 、自分はいつぱしの酒飲み
  であると云ふ誇りがあつて 、菓子を近づ
  けないのもゐさうである 。」

 「 酒飲みを左利きと云ふのは 、右手が鎚手
  (つちて) で左手が鑿手 (のみて) と云ふ
  言葉の上の洒落に過ぎないのであるが 、
  私の友達には一緒に酒を飲む時 、必ず左
  手で酌を受ける 、何かで左がふさがつて
  ゐても 、無理に左手をあけてそれで杯を
  取る男がゐる 。こちらで笑ふと 、しかし
  昔から左利きと云ふではないか 、杯は左
  で持つものですよと云つて譲らない 。窮
  屈な話だと思ふけれども 、向うの信念で
  あるから 、仕方がない 。
   それでは私も左手で杯を持つ事にして 、
  右手があいてゐるから 、右手に菓子を摘
  まむ事にしようかと考へる 。しかし窮屈 
  派に内所でやらないと 、知れたら一斉に
  起つて私の無節操をなじるに違ひない 。」

  引用おわり 。

  早朝のラジオ番組で聞く KINCHO のラジオCMが

 オモシロい 、今年も キンチヤウの夏 。

 

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日本のいちばん長い夏 Long Good-bye 2024・06・24

2024-06-24 05:04:00 | Weblog

 

 今日の「 お気に入り 」は 、今拾い読みしている

 内田百閒さん ( 1889 - 1971 )の随筆「 御馳走

 帖 」( 中公文庫 )の一節 。昭和20年 ( 19

 45年 ) 夏 の 百閒先生の日記 からの抜き書き 。

  正史のどこにも書いてない 、銃後の 、会社勤め

  の 、当時55歳の日本人男性 が書いた 日記  。

  一見のんきそうで 、そうではない 、団塊世代の親

 の世代が生きていた 首都東京の 当時の世相が 、ヴ

 ィヴィッドに伝わってきます 。

  筆者が生まれる ほんの二年半前 のこと 。

  引用はじめ 。

 「 七月十三日 金曜日 午後出社ス 。会社ニテ 古 ( 会社というのは日本郵船のことらしい )
  日 カラ麦酒一本貰ツタ 。夕 帰リテ 井戸水ニ冷ヤ
  シテ飲ム 。コノ頃ノ麦酒ハ マヅイナドト素人ガ
  申スナレド 然ラズ 。タツタ一本デモ 初メカラ ソ
  ノ覚悟デ飲ンダカラ ヤレタ 。家ノ焼ケ跡ノ玄関ノ
  戸棚ノアツタ所ト台所トノ 二ケ所ニ 麦酒罎ノ王冠
  栓ノ焦ゲタノガ小山ノ様ニ盛リ上ガツテヰタノヲ
  思ヒ出シタ 。」

 「 七月十五日 日曜日 イヨイヨ オ米ガ無クナリ
  カケテヰル 。モウドウスル事モ出来ナイ様ナ世
  間ノ形勢デアル 。夕 古日 来 。葡萄酒ヲ 麦酒罎
  ニ 一本ト 饂飩粉五百匁 持つて来テクレタ 。饂飩
  粉ハ難有イト云ツテ家内頗ル喜ベリ 。」

 「 八月一日 水曜日 御飯抜キノ 夕飯ヲ終リテ 間モ
  ナク 午後八時二十五分 警戒警報鳴ル 。同五十五分
  空襲警報トナリ ソレカラ 午前二時四十五分ノ空襲
  警報解除マデ 五時間五十分ニ亘ル空襲ニテ 頭ノ上
  ニコソ何事モナカツタガ 気疲レト連夜ノ寝不足ノ
  挙ゲ句 表ニ起ツテヰナガラ 居眠リガツク程 草臥レ
  タ 。」 

 「 八月四日 土曜日 夕 早目ニ会社カラ帰ル 。今
  日ハ 配給ノ麦酒三本アリ 。冷蔵庫ヤ氷ハ 叶ハヌ
  事ナレドモ 汲ミ立テノ井戸水ニ冷ヤシテ 三本続ケ
  様ニ飲ミ 大イニヤレタリ 。然ルトコロ 半月ニ及
  ブ穀断チノ後 漸ク今日ノ配給日マデ漕ギツケタト
  思ツタラ 午後家内ガ近所ノ人人ト請取リニ行ツテ
  見ルト 配給所ニ オ米ガ無イトカニテ 六日ニ 延ビタ
  由ナリ 。先日来 既ニオ米ヲ食ベル食ベナイノ問
  題デナク 代リノ粉モ 二度目ノ澱粉米モ 大豆サヘモ
  無クナツテヰルトコロダカラ 配給ノ日取リノ狂フ
  ハ 由由敷 大事也 。コノ 二日ヲ如何ニ過ゴスカ家内
  苦慮中ナリ 。」

   引用おわり 。

   風の便りに 、首都東京の有様を聞くにつけ 、・・・

   二十一世紀も四半分が過ぎようとしている 、嗚呼 。

 

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鱶 (フカ) 鮫 (サメ) 和邇 (ワニ) Long Good-bye 2024・06・22

2024-06-22 04:00:00 | Weblog

 

 今日の「 お気に入り 」は 、内田百閒さん

 ( 1889 - 1971 )の随筆「 御馳走帖 」( 中公

 文庫 )の中から「 蒲鉾 」とした小文 の一節 。

  引用はじめ 。

 「 私の郷里の岡山に昔から名代の蒲鉾屋があつて 、
  今はなくなつたさうだが 、当時は近国にまでそ
  の名が知れ渡つてゐた 。
   子供の時に聞いた話に 、その蒲鉾屋の横山の
  御主人がみんなと一緒に船に乗つて 、金比羅
  詣りをした 。船は岡山の町を貫流してゐる旭
  川を下つて 、川口の児島湾から外海(そとうみ)
  に出る 。外海と云ふのは瀬戸内海の事であつて 、
  対岸の四国の讃岐へ渡るのであるが 、小さな船
  の事だから手間が掛かつた事であらう 。
   船が沖に出た頃 、不意に鱶(ふか)が船をつけ
  て来たので 、船中が大騒ぎになつた 。鱶は群
  をなして来るし又一匹でも人の乗つた船をくつ
  がへす事が出来る 。鱶につけられた以上は 、
  船の中のだれかが一人犠牲になつて海に入り 、
  鱶の餌食にならなければ 、結局は船をひつくり
  返されて 、みんなが残らず食はれてしまふと云
  ふ事になる 。それでさう云ふ災厄に遭つた時は 、
  船に乗つてゐる者が 、船べりから銘銘自分の手
  拭を水中に垂らし 、鱶がその手拭を引つ張つた
  者は 、自分から海に投じて他の者の危難を救は
  なければならぬと云ふ事に昔からきまつてゐる
  のださうであつて 、その時もみんなが手拭を垂
  らしたところが 、鱶は蒲鉾屋の横山の主人の手
  拭を引つ張つた 。
   それで当人は海に入つて鱶に食はれなければな
  らぬ事になつたが 、その時 、横山の主人が 、
  『 わしは岡山の横山だが 』と一言云ふと 、途
  端に船のまはりを取り巻いてゐた鱶が一散に逃
  げてしまつたと云ふのである 。
   備前岡山の横山はその通り有名であつて 、外
  海の鱶でも名前を知つてゐると云ふ事になるの
  であらうと思ふけれど 、それには横山の蒲鉾に
  は鱶をすりつぶして入れてあると云ふ事から 、
  鱶が横山の名前を聞いただけで 、恐れて逃げ出
  したと云ふのであらう 。子供の時に聞いたその
  話をこの頃になつて思ひ出して見ると 、岡山の
  人人の癖で 、その話も横山の悪口ではないのか
  と云ふ気がし出した 。横山横山と云ひはやすけ
  れど 、横山の蒲鉾にだつて鱶がつかつてある 、
  それだから鱶が逃げたのだと云ふ蔭口ではない
  かとも思はれる 。いい蒲鉾には鱶をつかはない
  かどうかさう云ふ点を私は丸で知らないので 、
  これから先は考へる事が出来ない 、また鱶と鮫
  とはどう違ふのかよく知らないが 、どちらも人
  を食ひ 、また蒲鉾の種につかはれるらしいので 、
  鮫の切り身の事からそんな事を気にしてゐたので
  ある 。

  引用おわり 。

  こういう小話 だいすき 。

  かまぼこは 、おととなの ?

 ( ´_ゝ`)

 ( ついでながらの

   筆者註:「 サメ( 鮫 )は 、軟骨魚綱板鰓亜綱に属する
       魚類のうち 、鰓裂が体の側面に開くものの総称 。
       鰓裂が下面に開くエイとは区別される 。2020年
       11月時点で 世界中に 9目36科106属553種が存在
       し 、日本近海には 9目34科64属130種 が認めら
       れている 。 」 

      「  一般的にはサメは『 鮫 』という漢字が使用され
       ますが『 鱶 』という漢字が使われることもあり
       ます 。 
        おもに関東以北では サメ と呼ばれていますが 、
       関西では フカ 、山陰地方では ワニ ( 和邇 ) と呼
       ばれることが多いのだそう 。

       以上ウィキ情報ほか 。

       「 因幡の白兎 」の話には 、ワニ が登場しますが 、

      幼い頃 読み聞かされたとき 、日本の昔話に 、なぜ

      西洋の「 フック船長 ワニ 」が出てくるのか 、

      理解に苦しみました 。確か 白兎が 、慈悲深い大国主命

      に命を救われるお話で 、元々は、白兎が嘘をついて

      ワニたちを渡海に利用したのが 、白兎受難の原因

      で 、嘘ついたり 騙しちゃいけないよ 、という教訓

      話だったような記憶があります 。

 

( 紫陽花(アジサイ)の花言葉は、「移り気」「浮気」「無常」など。
鍾馗空木(ショウキウツギ)の花言葉は 、「謙虚」「古風」「風情」「秘密」など 。)

  ( 和名は ショウキウツギ( 鍾馗空木 )です 。)

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おさけははたちになつてから Long Good-bye 2024・06・20

2024-06-20 05:55:00 | Weblog

 

 今日の「 お気に入り 」は 、内田百閒さん

 ( 1889 - 1971 )の随筆「 御馳走帖 」( 中公

 文庫 )の中から「 シュークリーム 」とした

 小文 の一節 。

  引用はじめ 。

 「 私が初めてシュークリームをたべたのは 、
  明治四十年頃の事であらうと思ふ 。その
  当時は岡山にゐたので 、東京や大阪では 、
  或はもう少し早くから有つたかも知れない 。
   第六高等学校が私の生家の裏の田圃に建
  つたので 、古びた私の町内にもいろいろ
  新らしい商売をする家が出来た 。夜にな
  ると 、暗い往来のところどころにぎらぎ
  らする様な明るい電気をともしてゐる店が
  あつて 、淋しい町外れの町に似合はぬハ
  イカラな物を売つてゐた 。
   私は明治四十年に六高に入学したのであ
  るが 、その当時は私の家はもうすつかり
  貧乏してしまつて父もなくなり 、もと造
  り酒屋であつたがらんどうの様な広い家
  の中に 、母と祖母と三人で暮らしてゐた 。
   夜机に向かつて予習してゐると 、何が
  食ひたいかと考へて見ると 、シユークリ
  ームがほしくなつて来る 。その時分は 、
  一つ四銭か五銭であつたが 、さう云ふ高
  い菓子をたべると云ふ事は普通ではない 。
  しかし欲しいので祖母にその事を話すので
  ある 。祖母が一番私を可愛がつてゐたの
  で 、高等学校の生徒になつても矢張り子
  供の様に思はれたのであらう 。それなら
  自分が買つて来てあげると云って暗い町
  に下駄の音をさせて出かけて行く 。
   六高道に曲がる角に広江と云ふ文房具屋
  があつて 、その店でシユークリームを売
  つてゐる 。祖母はそこまで行つて 、シユ
  ークリームを一つ買つて来るのであるが 、
  たつた一つ買つて来ると云ふ事を私も別に
  不思議には思はなかつた 。祖母の手から
  そのシユークリームを貰つて 、そつとそ
  の中の汁を啜つた味は今でも忘れられな
  い 。子供の玩具に本当の牛を飼つて見た
  り 、いい若い者の使に年寄りがシユーク
  リームを買ひに行つたりするのが 、いい
  か悪いかと云ふ様な事ではないのであつて 、
  こつてい牛は今では殆んど見られなくなつ
  たが 、シユークリームをたべると 、いつ
  でも祖母の顔がどことなく目先に浮かぶ様
  に思はれるのである 。  」

  引用おわり 。

  文学的才能の萌芽らしきものを見せ始めた一人息子に

 期待を寄せる母と祖母 、父親不在家庭にあって 、十五 、

 六歳になった ひとり息子 が 、幼い頃そのままに 、母 、

 祖母に 、傍若無人で 、大人をなめきった態度 、行動を

 り続ける 。

  とてもやばそう 。だけど 、現代でもありそうな家庭情況 。

 ( ´_ゝ`)

  1889年(明治22年)生まれの「 榮造 」少年が 十五歳か

 十六歳のときの 1905年(明治38年)に父親が亡くなり 、

 実家の造り酒屋 志保屋が倒産 、経済的に困窮したらしい 。

 それでも 、地方の旧家の常で 、恒産があったのか 、日々

 の暮らしはなんとかなったらしく 、ひとり息子だった榮造

 少年は 、翌 1906年(明治39年)に 、博文館発行の文芸雑

 誌「 文章世界 」に小品を投稿し、「 乞食 」が 優等入選 し

 たりしている 。

  そして 、1907年(明治40年)には 、岡山中学校を卒業し 、

 第六高等学校( 現在の岡山大学 )に入学 。三年後の1910年

 (明治43年)、第六高等学校卒業 。上京し 、東京帝国大学

 文科大学に入学( 文学科独逸文学専攻 )。1911年(明治44年)、

 療養中の夏目漱石を見舞い 、門弟となったようである 。

 ( ´_ゝ`)  

 ( ついでながらの

   筆者註:この随筆の巻末に 、百閒先生の旅のお供

    をされた ヒマラヤ山系君 こと 平山三郎さんが

    書かれた「 解説 」があり 、その解説文の中に

    百閒先生について こんな記述があります 。

    「 ひとりッ子で我侭の仕放題 、おんば
     日傘で育てられた 、お祖母さん子で
     ある 。」

     こんな場合 、大抵 ろくな大人には育たない 。

     百閒先生が ろくな大人 だったのかどうかは 、

    寡聞にして 筆者は存じ上げません 。それでも

     お酒も 、煙草も 、若い頃から切らしたことが

    ない というほど嗜まれた 百閒先生は 存外 長命

    で 、81歳で 、老衰で 、亡くなったそうです 。

     随筆を読みますと 、ご長命の理由が仄見えて来

    ます 。そう感じられる普段の生活習慣をいくつか

    挙げてみます 。

     引用はじめ 。

    「 朝の支度は 、起きると先づ果物を一二種食ふ 。
     梨や林檎は大概半顆宛 、桃は大きくても小さく
     ても一つ食べる 。桃の身は濡れてゐて辷(すべ)
     り込むから食つてしまふのである 。それと同時
     に葡萄酒を一杯飲む 。大変貴族的な習慣で聞き
     なりはいいが 、常用の葡萄酒は日本薬局方の所
     謂赤酒である 。問屋からまとめて買ふので一本
     五十二銭である 。」

    「 郵便や新聞を見終る前に 、ビスケットを噛つて
     牛乳を飲む 。これで朝食を終るのである 。」

    「 何の邪魔も這入らない時は 、十時頃から仕事に
     かかる 。さうしてお午になると蕎麦を食べる 。
      大体秋の彼岸から春の彼岸までは 、盛りかけ一
     つ宛を半分宛食ふ 。春の彼岸から秋までは盛り
     二つを一つ半位食ふ 。夏の方が朝が早いのでそ
     れ丈腹がへるらしい 。学校を止めて以来ずつと
     その習慣を変へない 。」

    「 午後ずっと仕事をしてゐても 、私は間食は決
     してしない 。ただひたすらに 、夕食を楽しみ
     にしてゐる 。」

    「 私は親譲りの酒好きなのであらうと自分でも
     さう思ふのは 、酒の味がうまくて堪らないの
     である 。酔つた気持も悪くないが 、しかし
     あまり度を過ごすのは好きではない 。それは
     私が気を遣つて自制するのではなく 、いい加
     減のところまで行くと 、酒の味が悪くなるの
     で 、さうなると 、もうあまり飲む気がしな
     い 。」  ( 専ら日本の麦酒と清酒で 、火酒は滅多に飲まれなかったらしい 。)

    「 夕食の膳では酒を飲む 。酒も決して外の時間
     には口にしない 。間でお行儀のわるい事をする 
     と 、折角の晩の酒の味が滅茶苦茶になるからで
     ある 。酒は月桂冠の罎詰 、麦酒は恵比須麦酒
     である 。」

    「 夜は大概仕事をしない 。おなかのふくれたと
     ころで寝てしまふ 。」

    「  毎月八日と十七日と二十一日の三日をお精進と
     定めて 、魚も肉も食べない 。野菜を煮る汁に
     も鰹節をつかはない様に云ひつけてある 。味の
     素は精進料理につかつて差支へない物と思ふけ
     れども 、味の素を入れた料理は上つすべりがし
     て 、塩梅の妙味と云ふものがなくなるから 、
     ふだんから使はせない 。口先だけうまくて 、
     ペンキ塗の御馳走だからいかんと申し渡してあ
     る手前 、お精進の三日だけは味の素をつかつ
     てもいいと云ふのも沽券にかかはるので 、昆
     布のだしなどで我慢する 。それで煮物も平生
     よりはうまくない様だが 、それだけ味が変は
     つて 、如何にも今日はお精進であると云ふ様
     な気がする 。  」

    「 いつでもその翌日は精進落ちを布令する 。
     牛肉の網焼をさせたり 、蒲焼を取つたり 、
     四谷見附の三河屋から牛の舌を持つて来させ
     たりする 。それで一月に三日は大つぴらに
     御馳走を食ひ散らす口実が出来てゐるが 、
     更にその機会をふやすために 、謝肉祭の故
     智に祖(なら)つて 、お精進の前晩にも 、
     平生あまり食はない様な御馳走を要求する事
     にしようかと考へついた 。この次の十七日
     のその前の晩は 、うつかり過ごさないやう
     にしようと心掛けてゐる 。  」

     引用おわり 。

     バランスよく 、規則正しく食べていらっしゃる 。

      理にかなった 食生活 。

     へべれけ になるまでは 、のまない 。

     筆者の想像するところ 、百閒先生 何よりの健康法は 、

    ストレスを内に溜め込まず 、爆発させて発散するか 、

    ひとにストレスを転嫁することにあった と思います。

     随筆の中に 、次のような記述があり 、老衰 という

    より 、年来の痼疾から来る 心不全 で亡くなったよう

    にも思えます 。ご寿命だったのでしょう 。

    「 私の動悸と云ふのは 、普通の人の動悸とは
     大分違ふのであつて 、もう二十年来の持病
     である 。発作が起こると脈搏は二百位にな
     るが 、しかし呼吸は普通であつて 、煙草を
     吸ひながら 、話しをする事が出来る 。すぐ
     治まれば何でもないが 、長く続くと変な気持
     になつて 、死にさうに思はれる 。それで夜
     なかでも夜明けでも小林博士の許へ行く様な
     事になるのだが 、診察室で苦しい胸を押さへ
     て 、待つてゐるところへ 、外の廊下に小林
     博士の足音が聞こえると 、その拍子になほ
     つてしまつたと云ふ様な事が何度もある 。
     発作だから 、なほつたら後は何ともない 。
     よる夜中お騒がせしてすみませんでしたと
     お詫びして帰つて来る 。小林博士の玄関ま
     で来てなほつた事もあり 、自動車がその近
     所へ曲がつた時になほつた事もあり 、苦し
     くなつて 、小林博士の許へ行かうと思つて 、
     自動車に乗つた途端になほつた事もある 。
     普通の心臓病ではないのださうであつて 、
     病名は Paroxysmale Tachykardie 発作性
     心臓収縮異常疾速症と云ふのである 。
      しかしさう云ふ風にうまい工合になほら
     ぬ時もあつて 、二百前後の脈搏が何時間
     も続き 、十何時間も続き 、二十何時間も
     続き 、一番長かつた時は 、三十六時間半
     続いた事がある 。 」

      ( 文中に出てくる小林博士は 、百閒先生の掛りつけのお医者さんで 、医学博士の小林安宅先生 のこと )

     晩年の 1967年 (昭和42年)、芸術院会員に推薦され

    も固辞

     辞退の弁は「 イヤだから 、イヤだそうです 。

 

 

  和名はショウキウツギ( 鍾馗空木 )です 。

           毛に覆われた実を 、悪魔を追い払う髭の生えた神様「 鍾馗 」の
           顎ひげになぞらえたことから、ショウキウツギという和名がついたそうです

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越天楽今様 Long Good-bye 2024・06・18

2024-06-18 05:05:00 | Weblog

 

  今日の「 お気に入り 」は 、「 春のやよいの 

 あけぼのに 」が 歌い出しの「 越天楽今様 」

 (えてんらく いまよう)の 歌詞 。メロディ

 が思い浮かばないのは 、耳に馴染みがない

 せいでしょうか 。日本の四季 、今は昔 。

  作詞者は 僧 慈円 。「 小倉百人一首 」で

 前大僧正慈円(さきの だいそうじょう じえん)

 と紹介されている 、平安時代末期から鎌倉時代

 初期の天台宗の僧で、歌人 。歴史書「 愚管抄 」

 を記した人物 。

 「 歌 詞

   春のやよいの あけぼのに
  四方(よも)の山べを 見わたせば
  花盛りかも しら雲の
  かからぬ峰こそ なかりけれ

   花たちばなも 匂うなり
  軒のあやめも 薫るなり
  夕暮さまの さみだれに
  山ほととぎす 名乗るなり

   秋の初めに なりぬれば
  ことしも半ばは 過ぎにけり
  わがよ更けゆく 月影の
  かたぶく見るこそ あわれなれ

   冬の夜寒の 朝ぼらけ
  ちぎりし山路は 雪ふかし   朝帰りの歌
  心のあとは つかねども
  思いやるこそ あわれなれ  」

 「 歌詞の意味:

   春 、三月の明け方に 、周りの山々を見渡すと 、
  桜が満開なのだろうか 、雲のかかっていない
  峰はない 。

   夏には橘の白い花が匂い 、軒に咲く菖蒲も香る 。
  夕暮れに五月雨(さみだれ)が降り 、山では
  ホトトギスが鳴いている 。

   秋に入り 、今年も半分過ぎた 。月が沈むように
  我が人生も過ぎゆき 、もの寂しく思う 。

   冬の寒い夜が明ける頃 、細い山道の雪は深い 。  書いてないけど朝帰りなんです 。
  心の足跡はつかないが 、思いを馳せるのは趣深い 
  ことだ 。 」

   

  ( ´_ゝ`)

 ( ついでながらの

   筆者註:ネット検索した 小学唱歌集 ( 明治14年11月 )

    の 第十五に 「 春のやよひ 」と題してこの歌が

    載っています 。

    「 一 春のやよひの。あけぼのに。
       四方のやまべを。見わたせば。
       はなざかりかも。しらくもの。
       かゝらぬみねこそ。なかりけれ。
     二 はなたちばなも。にほふなり。
       軒のあやめも。かをるなり。
       ゆふぐれさまの。さみだれに。
       やまほとゝぎす。なのるなり。
     三 秋のはじめに。なりぬれば。
       ことしもなかばは。すぎにけり。
       わがよふけゆく。月かげの。
       かたぶく見るこそ。あはれなれ。
     四 冬の夜さむの。あさぼらけ。
       ちぎりし山路は。ゆきふかし。
       こゝろのあとは。つかねども。
       おもひやるこそ。あはれなれ。 」

      福岡県民謡「 黒田節 」の三番に「 春のやよひ 」の

     一番の歌詞が使われているようです 。

     《 黒田節の歌詞:

       酒は飲め飲め 飲むならば
       日の本一の この槍を
       飲みとるほどに 飲むならば
       これぞまことの 黒田武士

       峰の嵐か 松風か
       訪ぬる人の 琴の音か
       駒ひきとめて 立ち寄れば
       爪音高き 想夫恋

       春の弥生の あけぼのに
       四方の山辺を 見渡せば
       花盛りかも 白雲の
       かからぬ峰こそ なかりけれ 

      ついでのついでのことながら 、小学唱歌集の第十七に

     「 蝶々 」が載っており 、筆者にとっては 、この

     一番を 現代風にア レンジした歌詞に馴染み

     あります 。さすがに 、二番は知らないなあ 。

     「 一 てふ/\てふ/\。菜の葉にとまれ。 「 ちょうちょ ちょうちょ 」
        なのはにあいたら。桜にとまれ。
        さくらの花の。さかゆる御代に。 「 はなからはなへ ] でしたっけ。
        とまれよあそべ。あそべよとまれ。

      二 おきよ/\。ねぐらのすゞめ。
        朝日のひかりの。さしこぬさきに。
        ねぐらをいでゝ。こずゑにとまり。
        あそべよすゞめ。うたへよすゞめ。」

      以上ウィキ情報 ほか 。

 

 

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