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日々の思い、記憶のゴミ箱に行く前に。

ものの言い方

2012年03月17日 | 雑感日記

 「そういう言い方されると」と言われると、「問題は言い方じゃなくて中身だろ」と言い返したくなる。友人同士の無駄話ならともかく、仕事での議論や社会生活上の会話では、情緒ではなく筋の通った論理が大切、というか本質のはずだ--これまではそう思ってきたし、今も基本的な考え方自体は変わらない。

 しかし最近、ちょっと思うのだ。「言い方」に違和感を感じるとき、そこに何らかの問題が潜んでいる場合もあるのではないかと。たとえば僕は、ある人の電話でのやりとり(なので相手は自分ではない)に、いつも苛々するものを感じていた。まあ仕事上のリクエストというかディレクションというか注文といった内容なのだけど、あまり気持ちのよい印象がない。

 話の筋は通っている。口調が多少強いのも、まあいいだろう。僕だって場合によっては、意識してそういうトーンでしゃべることもある。では何が引っかかるのか?引っかかるからには、何らかの意味合いがあるのではないだろうか。そんなことを口の中で飴玉を転がすように、しばし考えたりしていた。

 ふと思ったのは、こんなことだ。誰かが過去について話すとき、同じような内容であっても興味深く思えることもあれば、食傷気味の自慢話に感じることもある。その違いは話される内容自体よりも、そこに付随する感情や思惑からくるのではないだろうか。
 たとえば昔、何か賞を獲った仕事のことだとして、語ろうとしているのが時代背景や関係者のエピソードなどの事実そのものなのか、あるいはその物語の主役としての自己の存在をアピールしたいのかで、ずいぶんと印象が変わると思う。

 ときどき感じる違和感は、これに近いのかもしれない。自分の不愉快さやストレスを話の内容に紛れ込ませて相手に投げかけるとき(無意識的に、だと思うけれど)、その会話は主題とは別の印象を生んでいく。仕事の話はともかく、あなたの気分の面倒まで見るつもりはないよ。そんな苛立ちが沸き起こってくる。違和感を生んでいるのは、「言い方」ではなく、会話の中に紛れ込んだ夾雑物的な感情なのかもしれない。


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