TRASHBOX

日々の思い、記憶のゴミ箱に行く前に。

小説対話/小島信夫と保坂和志

2006年03月29日 | 読書とか
えーっと、これは一種の対談イベントであって読書ではないのだけれどまあいいか。保坂和志の小島信夫に対する一種の愛情―その類稀な小説の書き手として―は誠実で明晰だ。説明が難しいので、ちょっと引用を。

「『寓話』は(中略)森の中で道に迷ったら、そこから抜け出そうと考えずに、いま自分がいる場所を取り囲んでいる木を眺めて楽しめばいい。そういう小説だと思いますし、そういう風に楽しんでいるうちに全体の流れというよりも、“うねり”がきっと体の中に感じられてきて、それこそが『寓話』になるのだと思います」
「小島信夫作品は作品を読んでいる最中にその作品から離れて、自分自身の実人生の経験や他の読書の記憶に自由に連想を広げていく不定形な形を内包させていると私は思います」(個人出版の『寓話』挨拶文から)

両氏とも「小説は読んでいる時間の中にしか存在しない」ということを述べているが、これは小説が「物語という情報」ではなく、「体験」だということではないだろうか。以前も速読についてちょこっと書いたけど、こと文学作品に関しては観光地の写真を見て「これで行ったのと同じ」と満足しているようなバカバカしさを感じていた俺には納得感強し。

しかしそれほど彼らの良い読者ではない俺(もちろん何作か読んでるけど)、ちょっとおさらいしようかと思ったのだが、小島氏の小説には絶版のものが多い。(保坂氏が有志とともに『寓話』の個人出版を決心したのもそういう理由)で、地元の図書館の蔵書をネット調べると結構あるのだ、これが。こういうときは便利だなと、あらためて実感。会場となった世田谷文学館も感じのいい場所だったけど、公立の施設ってなかなかあなどれませんわ。
コメント
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