goo blog サービス終了のお知らせ 

TRASHBOX

日々の思い、記憶のゴミ箱に行く前に。

サンキュー・スモーキング

2006年11月05日 | 映画とか
あんなにメディアの表舞台に登場するロビイストって、実際そんなにいるのだろうか。タバコによる健康被害の問題はまだまだ現在進行形ではあるが社会的には「悪者」としてある程度カタがつきつつあるわけで、ここはディベートという技術がどう世の中に影響してくるのか気にして見るのが乙だろう。意思決定やコミュニケーションの手段や道具である言葉がいつしかゲームの主役に躍りでるような感覚に、「言論の自由」という概念の危うさや矛盾みたいなものも感じたりした。

ところでこの映画、見ているうちに「スミス都へ行く」(Mr.Smith Goes to Washington)との裏表のように思えてきた。純朴なスミス氏とタバコ業界のロビイスト、ニック・ネイラーは対称的なキャラクターではあるが、言葉を通して社会に関るという点ではどこか重なってくる(実際「ジェームス・スチュワートのようにしゃべりたい」というような台詞もあるし)。

たとえばネイラーがしゃべる映像にあわせて銃の連射音をのせていくようなギャグっぽい話法は結構好きなのだけど、物語後半からの描き方は割とオーソドックス。表現としてもうちょっと遊んで欲しくもあるけれど、言論という行為を素材としてアメリカの一面を描いたナイスな1本だ。


Thank You For Smoking


太陽

2006年10月17日 | 映画とか
終戦前後の昭和天皇を主人公としたアレクサンドル・ソクーロフ監督(撮影も)のこの作品、しばらく混んでいたのだがようやく落ち着いたようでやっと観劇に。何かで「天皇を題材とした、一種のおとぎ話」というようなコメントを読んだが、確かにそんな感じだ。重々しいトーンと、イッセイ尾形演じる「お上」のある意味子供のようなキャラクターが織りなす世界は、ふしぎふしぎな歴史のお話。

題材が題材だけに最初は入りづらかったが、ストーリーが進むにつれて軽やかな気分になってきた。そこには「神」であることを引き受けた「人間」の姿が確かに描かれていた。そして最後のちょっとした衝撃(書かないけど)。ふだん見ているものとはまったく違うタイプだったが、映画の語り方としてはとてもオーソドックスな印象も受けた。ちょっと他の作品も見てみたいなぁ。

雨月物語

2006年10月09日 | 映画とか
原作は上田秋成。9編からなる物語のうち「浅茅が宿」と「蛇性の淫」を題材に映画化されたもの。いわゆる邦画の古典的名作だが、その小気味良い語り口(やや説明調の部分もあるが)はモダンに思えた。そして金儲けや出世が幸せにつながるのか、というテーマはいつの時代にも通じるもの。実は「溝口作品とかも行っとかないと」という感じではあったのだが、普通に映画を見るように楽しむことができた。

焼き物商売を拡大してひと儲けを目論む源十郎は、なんだかいまの起業ブームを思わせる。侍になれば出世できると信じこむ弟の籐兵衛は、大企業や名門校に入りさえすればという人々と重なってくる。それに対して身の程の幸せを唱える女性たちという構図はやや前時代的類型ではあるが、わかりやすさは充分だ。

仮に最近の映画と異なる点を揚げるとすると、登場人物の描き方だろうか。キャラクターはくっきりしているが、それは個としての存在というよりも、大きな意志の中で生かされているという印象だ。だから観客が物語に入っていきやすいのかもしれない。

見終わって残ったのは、感動とか共感とかいう濃い感情ではなくひとつの人生を垣間見たような印象。名画というより単純に面白い(誉め言葉です)一本だ。下町のオヤジの話しっぷりみたいなテンポ間は、ちょっと癖になりそうだ(溝口健二も下町育ちだとか)。

それから海外での評価(第14回ヴェネチア映画祭 銀獅子賞、イタリア批評家賞、第28回アカデミー賞白黒衣装デザイン賞など)も高いこの一本。エキゾチックだがストーリーは普遍的。そして演技のニュアンスよりも言葉を軸にした組み立て。こういった要素が受賞につながったのだと思う。賞がすべてではないが、日本映画を作るときの指針としてちょっと参考になるんじゃないだろうか。

※詳しいストーリーはこちらなど(ネタバレしてます)

カポーティ (その後の感想)

2006年10月07日 | 映画とか
この映画についてうちのつれあいと話していたら、興味深いコメントが。「ノンフィクション・ノベルの小説『冷血』と、カポーティという人物を丹念に描いたこの映画は、どこか重なって見える」というもの。

確かにその重なりは、作品の構造におけるデジャ・ヴュのようでもある。小説になじみの深いアメリカ観客には、そういう面白さもあるのかもしれない。

そういう風に見ていくと、カポーティと犯人の1人ペリー・スミスもどこか重なり合う。それを当人が意識していたことは「同じ家を私は表から出て彼は裏から出た」というような台詞からも明らかだ。

時代の寵児と言われながらある種の物珍しさをもって受け入れられていたカポーティは、高い感受性を持ちながら劣悪な環境で育った彼に「一歩間違っていたら自分もこうだった」と感じたのかもしれない。

なお「この後カポーティは一作も書けなかった」ことになっているのだが、「叶えられた祈り」という未完の作品は残されている。(私も読みました)知り合いのスキャンダルを書いたことで社交界の爪弾きになった彼は、やはり自分が本当に受け入れられているわけではないことを思い知ったのだろうか。閉鎖社会において外部の醜聞は歓迎されるが、身内のネタには神経質なのものなのだ。

カポーティ

2006年10月05日 | 映画とか
主演のフィリップ・シーモア・ホフマンと監督のベネット・ミラー、そして脚本のダン・ファターマンはお互い16の頃からのつきあいだとか。一緒に仕事することで友情にひびが入るのではという懸念もあったらしいが、どうやらそれはなかったようだ。そのことが良かったのか悪かったのか、ぼくは世間の評判ほど感じ入ることができなかった。もちろんレベルは高いし欠点など見当らない。それでも満員のシャンテシネ(場内が暑かった)を出るとき、なぜか「困ったな…」と感じていた。

生真面目なことを言えば、カポーティは結局のところ犯人の2人(特にペリー・スミス)を利用したわけで、それは最後の「助けられなかった」という彼に対して「助けたくなかったんでしょ」と反駁するネルの言葉でもあきらかだ。しかしそれを言えば犯人側にも「こいつと組めば助かるかもしれない」というかすかな期待がなかったわけではないだろう。この関係の面白さは、両者がそういった思惑を持ちながらも、ふと友情のような感情を交し合ったことにあるのではないか。その気持の渦みたいなものは、ぼくには感じられなかった。

まあ、あくまで個人的な印象ではあるけれど。小説「冷血」自体の緊張感を楽しんで読んだだけに、その舞台裏を見せられて戸惑っているのかもしれない。この映画評の中には「カポーティという人物を見事に再現している」というものが多いが、それは正しい。しかし映画の醍醐味は、こんな奇異なキャラクターの中に自分と通じる人としての公約数を描く、見出すことだと思う。そこがぼくには物足りないのかもしれない。でも処刑前の面会で、「自分にできることはやった」と泣くカポーティの姿は強く印象に残った。さすがホフマン(どっちなんだよ…)。

そのほかネル・ハーバー・リー役のキャサリン・キーナー、お見事。ペリー・スミスのクリフトン・コリンズJrも素晴らしい。(でもエドワード・ノートンがやったらまた凄かったかも)なんだかんだで渾身の一作です。