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TRASHBOX

日々の思い、記憶のゴミ箱に行く前に。

やわらかい生活(2005)

2008年04月28日 | 映画とか
原作は絲山秋子氏の文學界新人賞受賞作「イッツ・オンリー・トーク」。この小説は大好きで映画化されたと聞いて喜んだのだか、主演が寺島しのぶ、脚本は荒井晴彦(古くは「探偵物語」、最近は「ヴァイブレーター」。ベテランです)と聞いてちょっと不安になった。で、微妙な予感は見事(?)あたっていた…だめだこりゃ!

なんといっても「男が見た女のやさぐれぶり」になっちゃってる。どこか男の夢を盛り込んじゃったようなキャラクターは絲山氏の世界とまったく違うものだ。面白くもない豊川悦司とのシーンがえんえん続くのは興行的な配慮なのか(役者としての存在感自体はなかなかでしたよ、さすがに)。どういう配慮かわからないけれど、主人公の躁鬱の捉え方もおかしい。原作にはない両親の死の話が盛り込まれているのは、メンタルな病気へのわかりやすい理由が欲しかったのだろうか。そしてエンディングはメロドラマっぽい都合のよさ。ちなみに原題はキング・クリムゾンの曲名だということ、荒井氏はご存じなのだろうか。小説の最後「ロバート・フリップがつべこべとギターを弾き、イッツ・オンリー・トーク、全てはムダ話だとエイドリアン・ブリューが歌う」ってのが最高なのに。

言っておくが原作どおりでないから駄目なのではなく、そのよさがわかっていない、もしくは新しいものを提示できてないのが嫌なのだ。つーことでなんとも中途半端な仕上がりのこの映画、原作が不憫で久しぶりに本棚から出して開いてみた。まあ再読の機会をくれたというのがこの2時間の収穫だろうか。なんだかなぁ。

ちなみにあるサイトでの記述を読んでさらにゲンナリ。「リアルな新しい女性像」「がんばらないでいいよ、という女性へのメッセージ(監督の廣木隆一氏、「ヴァイブレーター」は脚本、主演も同じメンバー)」…絲山氏が書きたかったのはそんなもんじゃないよ、と断言しておこう。

殯の森(2007)

2008年04月27日 | 映画とか
なんていうか、エロスなんですよエロス。「萠の朱雀」(漢字が難しいんだよね、この人の映画)のときにも感じたのだが、いわゆる男と女の間のセクシュアリティではなく、「生≒性」としてのエロス。これが一見地道なテーマに不思議な熱を吹き込む河瀬マジックなのだろうか(ところで本人、昔は結構やんちゃでいらっしゃったようで…)。この辺がフランス人にも受けるポイントなのかも。

軽度の痴呆症のしげきさん(うだしげき)と新人の介護福祉士真千子(尾野真千子)は共に愛する人間を亡くしたという過去があった。墓参りに出かけた途中での車のトラブルから彷徨いこんだ森の中で、この二人は過去から一歩踏み出していく…そんな話だけど、主役はやはり「森」なのでは。この映画にはいつも風が吹いている。森の木々を揺らす風音(ちょっとSEっぽさが気になるけど…)はその言葉のようで、台詞は寡黙だが常に何かが聴こえてくる映像だった。

ミーン・ストリート(Mean Streets, 73)

2008年04月24日 | 映画とか
73年の作品ということはマーチン・スコセッシ35歳。若すぎず落ち着きすぎず、という感じなのだろうか危うい空気感と映画としてのまとまりがいい感じだ。やくざな高利貸しの叔父を持つチャーリー(ハーペイ・カイテル)と20代後半になってもいかれた無軌道ぶりのジョニー(ロバート・デ・ニーロ)の痛々しい友情を軸に物語は進んでいく。特に仕掛けのあるストーリーではないが、青春の終わりといった時期に差しかかったぴりぴりした空気がズコンと伝わってくる。面白い。

よくある分析だが、きっとこのふたりの若者は裏表なのだろう。チャーリーはジョニーの無茶苦茶さを、ジョニーはチャーリーの堅実さが気になっていながらその思いは消化できていない。そんな彼らの姿を熱さと冷静さを持って描いたスコセッシの演出に、ぐいぐい引っ張られた。

IMDBの記事など読んでいると予算がなくて手持ちカメラを多用するはめになったとか(結果的には良かったのかも)本人や母親もちょっと出ているとかジョニーは最初ジョン・ボイトが候補に挙がっていたとか裏話もいろいろ面白い。大手スタジオではなく手作りな感じがこの熱気につながったのだろうか。あー、なんか映画撮りたくってきたなぁ(そうくるか!?)。

BOBBY (DVD)

2008年01月05日 | 映画とか
1968年6月、JFKの弟ロバート・ケネディもまた凶弾に倒れた。兄の暗殺は大統領就任後のことだったが、この時点でのロバート(英語のニックネームでボビー)は、選挙戦で優位な位置につけている「次期大統領候補」。もし彼が大統領になっていたらアメリカはどういう道を歩んでいたのだろうかと、ジョンの場合とはまた別の感慨が沸き起こる。

映画は、事件の場所となった「アンバサダー・ホテル」での一日を散文的に描いていく。厨房で働くヒスパニック系の労働者や黒人のコック。人種差別的な傾向のあるリーダーや、反対に人間の平等を強く唱えるマネージャー。さらに上司と不倫関係にある電話交換手や少しやつれ気味のホテル専属ヘアメイク、そして男友達の徴兵を免れるために結婚を決意した若い女性。スタートしての人気の凋落しはじめた歌手と、元バンドマンのその夫……そしてその先にある歴史的悲劇。群像劇のお手本のような、完成度の高い作品だ。

と、思ったらなんと脚本、監督ともエミリオ・エステベス(気づけよ、最初から…)。本人も父親のマーティン・シーンも出演(弟は出てません)しているのだが、この出来栄えにはちょっと参った。手馴れたベテランの風味じゃございませんか。

DVDの付録にあったプロダクション・ノートでは、子どもの頃から縁のあったこの事件に興味を抱き続けていて、いざ脚本を書こうとこもったモーテルの受付が当時ホテルに居合わせた女性だったとのこと(彼女は、男友達の徴兵を軽いものにするために彼と結婚する女性のモデルとなった)。もしかしたら「映画の神様が微笑んだ」作品だったのかもしれない。

おりしも今は、アメリカ大統領選の立ち上がり。アイオワでヒラリー・クリントンがオバマやエドワーズの後塵を拝したり、共和党の中では華のあるジュリアーニの出足が全然ふるわなかったりと先の読みにくい展開となっている。良くも悪くもドラマチック、よくわからないまま首相の決まる日本との違い(優劣ということではなく)やっばり大きいなぁ、とあらためて。日本から、きちんとした、でも映画として面白い政治ものが生まれてくるのはいつになるのだろう(既にあったとしたらご免なさい。是非教えて欲しいです)。

再会の街で

2007年12月26日 | 映画とか
原題は"Reign Over Me"?劇中で印象的に使われるザ・フーの"Love, Reign O'er Me"からつけられたのだろう。最近あまり聴いてないけれど、ザ・フーの曲の激しさと切なさ(なんか歌謡ポップスのタイトルみたいだけど)には、ぎゅっと喉元あたりをつかまれる感じがする。この映画を見終わった感想も、それとどこか似ていた。

アダム・サンドラー演じるチャーリー・ファインマンは、911のテロで妻と娘、そして愛犬まで亡くしてしまう。そのショックで歯科医の仕事を辞め、ぶらぶらと暮らすチャーリー。そんな彼を偶然見かけたアラン・ジョンソン(ドン・チードル)は、かつてのルームメイトを放っておけずなんとか救おうとするのだが……「あらすじ」を書けばそんな風になるのだろうか。

日本版の宣伝コピーは「話すことで、癒されていく傷がある」。ちょっとネタバレになるかもしれないけれど、ここには含みがあって、ただ傷ついたチャーリーを旧友が癒す、というだけの話ではない。人を救おうする者は、その行為において自らを救おうとしている?-そんないい方があるけれど、この場合にもあてはまるだろう。

よくよく考えると、ストーリー自体はきわめてオーソドックス。下手すると平板なお涙ちょうだい劇になってしまうかもしれないところを監督、脚本のマイク・バインダーが巧みに物語を織りあげている。結果、すーっと引き込まれ、ちょっとホロリとしてしまう。すれ違う人間(そして犬まで)すべてが失った家族に見えてしまう、というアダム・サンドラーのセリフは忘れられない。

考えてみれば、あの事件で愛する者を亡くした人たちは、あくまで個人的なものであるべき「悲しむ」という行為さえ奪われてしまったのではないだろうか。もちろん周囲の人間が示す哀悼と同情が心のこもったものであっても、家族や恋人、友人を「大国アメリカの犠牲者」という枠の中にもっていかれることのジレンマはなかったのだろうか。

それから随所に出てくるマンハッタンの風景には、なんとも言えない懐かしさを覚えた。チャーリーが警官を挑発して死のうとするレストランはイーストビレッジのトンプキン・スクェア・パークの前。大学とアパートのちょうど間にあった場所だ。911関連の映像を見るたびに、なんでこの素敵な街で(人によるだろうけれど)でこんなことが起こったのかと思って気分が沈む。あの事件で破壊されたものの深さは、まだ掘り起こされていないんじゃないだろうか。