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TRASHBOX

日々の思い、記憶のゴミ箱に行く前に。

表層生活/大岡玲

2018年01月28日 | 読書とか
表層生活
大岡玲
文藝春秋

1990年、第102回芥川賞受賞作。VRやAIの存在を示唆するようなモチーフが出てきて、しかもその描写が根本的なところでかなり的確で驚いた。軽快なテンポをもちつつ読後感のしっかりした一作だった(ワインの話みたいだけど)。ところで登場人物の“計算機”が、村上春樹の『ダンス・ダンス・ダンス』の五反田君のデジャブに思えるのは僕だけでしょうか。

百年の夢/村上由見子

2017年09月18日 | 読書とか
20世紀の初頭、ある日本人がニューヨークの不動産ビジネスで財を成し、「日本のカーネギー」とまで呼ばれるようになった。しかしその男は、一方で「日米を股にかけたペテン師」とも噂されていた。この本は、著者がその人物岡本米蔵の前妻岡村品子(離婚後旧姓に)との出会いをきっかけとして、その波乱万丈な記録をまとめあげたものだ。根気よく丁寧な取材と検証は、ファミリーの歴史にとどまらず、この時代の日本とアメリカの関わり方を個人のレベルから描き出している。文献として、そしてノンフィクションドラマとして、貴重で完成度の高い一冊だ。

それにしても、この物語は濃い。当時の日米関係の始まりがここに凝縮されているのではないかと思うほどだ。津田梅子など歴史上の人物はもちろん、史上初の米国大統領専任フォトグラファーとなった長男の岡本陽一や日本の広告会社でも働いた次男の岡本王堂のことなど、ページをめくる手が止まらなかった。

読後あらためて思ったのは、歴史を知ることは今を知ることなのだなぁと。日米の仲は相変わらず少し斜めな友好関係が続いているけれど、この先に待つ変化のためにも貴重な知見がある。残念ながら絶版となっているようだけど、久しぶりにお勧めしたい一冊。
百年の夢―岡本ファミリーのアメリカ
村上由見子
新潮社

『デジタル・ナルシス』―その深淵もまた、あまりに人間的

2017年06月28日 | 読書とか

情報時代(というのも大雑把な括りだが)、その礎を創りあげた6人について書かれた一冊。各項とも初出はかつて岩波書店から発行されていた学術誌「へるめす」に1988から1990年に掲載されたものだが(7番目の「デジタル・ナルシス」のみ書き下ろし)、その内容は今も新鮮だ。

その彼らをどう呼ぶか。天才、偉人、パイオニアなど、どれも合っているようだが、しっくりこない。いずれの人物も「クセのある」キャラクターであることは間違いないが、それを「天才ゆえの極端さ」といったステレオタイプで見ることに、著者はびしっと釘を刺して回る。

フォン・ノイマン、チューリング、バベッジ、シャノン、ベイトソン、ウィーナーの6人。その全員が並外れた知力の持ち主であることは疑いがないが、著者の視線は、それ故に描き出される人間としての紆余曲折を見逃さない。ある意味、常人離れすることでより人間的である、といったパラドックスが見えてくる。

そしてそれは、単に人間描写として興味深いだけではなく、人間が科学技術という代物と向かい合うときの注意書きとしても機能してくれる。サイエンスは、決して行儀のいいものではないのだ。

今、再びAI/人工知能に注目が集まっている。しかしそこには何度落とし穴に嵌っても学習の兆しがない我々お得意の、目出度い期待や、あるいはマネーの匂いへの過敏さがないだろうか。発行から時間は経っているが、逆に今こそ読まれるべき一冊と言ってもよいだろう。

ところで最終章の7は、上記の6人の姿を通じた「デジタル・ナルシス」への総集編。実は個人的には、ここがいちばんのエッセンスではないかと思っている。まるで鍋の最後に食べる、具から染み出した旨味が凝縮されたオジヤのような(うどんで頂くのも好きですが)。この締めの技こそ、書き手としての西垣氏の真骨頂かもしれない。


デジタル・ナルシス―情報科学パイオニアたちの欲望 (岩波現代文庫)
西垣通
岩波書店

1492年のマリア/元祖AIとエロティシズム

2017年05月23日 | 読書とか
舞台は1490年のスペイン。セニョール・クリストバル・コロン、今は一般にはコロンブスの名で知られる男が新大陸を目指して策を巡らせていた時代だ。物語の重要なモチーフとして登場するライムンドゥス・ルルスや、その発明になる「円盤機械」の下りを読んでいて、これはAIのメタファーに違いない、と興奮していたら、あっさり後書きに記述があった……。ま、著者の背景を知る読者なら、皆んなそう感じても不思議はないよな、と最後は平熱に戻って本を閉じた。

でも、そんなことは関係なく、読ませてくれる一冊だ。著者の小説は、いわゆる文化人や知識人が試みとして書く「小説なるもの」とは全く違って、きちんと自分の足で立っている物語だ。西垣氏は、ある意味では「二刀流」なのかもしれない。ちょっと興味深かったのが、小説の本筋とはあまり関係ないけれど、時折スパイス的に描かれるセクシァルな描写。例えばルルスらの道中、廃墟となった街で出会った女や、ヒロインのマリアが意中の恋人アロンソを救うため、欲望の渦が巻いた男の視線を受ける様子など、なかなか「エロい」描写が文学的に成立している。これ、結構物書きとしては難しいことで、食と色をきちんと書ける力量のない作家は多い。例えば誰とは言わないが「ウルトラ・ダラー(って言ってるのと同じだ……)」の中のその手の描写は、いやー、読んでて赤面しちゃいました。

話を戻すと(何から?)、「普遍」という視点への考察や、冒頭で述べたAIが象徴する人間の知性に対する思いは、著者にとって重要なテーマのはずだ。それを小説というフォーマットに定着させる力は素晴らしい。ただ欲を言えば、もうひと膨らみがあれば……それはもしかしたら、脇役(といいつつ相当重要な位置にいるが)のロドリゴ・サンチェスや、周囲の人物の厚みと遊び(ハンドルの遊び、と同じニュアンスで)にかかってるのかもしれない。言ってみれば、計算式が向かう道筋とは異なる脇道が見せる世界観だろうか。こうなると「サイバーペット」も読んでおきたいなぁ。
1492年のマリア
西垣通
講談社

コズミック・マインド/最高の知性が持つセンチメンタリズム

2017年05月14日 | 読書とか

実はこの小説を読もうと思ったのは、著者の西垣通氏への関心からだった。西垣氏は、日本のコンピューターサイエンスの黎明期から第一線で活躍されている方だ。東京大学の教授等を経て現職は東京経済大学の教授。現在も、AIなど最新のテクノロジーについての鋭く、そして思索に富んだ論を発表されている。氏のシンギュラリティについての懐疑的な視点などに疑問を呈する見解もあるが、科学だけではなく哲学的な視点(フランスへの留学もされている)を併せ持ったその知性は、間違いなく日本の高みに立つひとりと言っていいはずだ。

主人公の朽木庸三は優秀なエンジニアで、出向先の地銀でシステム構築のプロジェクトリーダーとして活躍していたが、その大手銀行との合併によるシステム見直しのあおりを受け、別の小さな事業所に配置転換された。実質、左遷に近い待遇だ。そしてその理由は、文脈上社内政治的なものであると言えるだろう。

ちょっと地味に驚いたのだが、主人公の寂しげな日常の描写は、切々としていてリアルだ。子供は独立し、妻に先立たれた定年間際の男が、夕食にいつも近所のコンビニ弁当を食べる姿など、著者自身の華々しいキャリアとの落差が大きい。もちろん作家として筆をとる、あるいはキーボードに向かう以上、そこは驚くポイントではないのだが。全体を通じ、タッチとしては硬質だが、同時に必要な情感を併せ持った氏の文章は、著者の背景を必要としない自立した「文学」にほかならない。

ちなみに氏のご尊父は俳人で明治大学教授でもあった西垣脩氏で、どこかで通氏本人も書かれていたと思うが、「文系の家系の出身」でもある。

ストーリー自体は、このシステム見直しに関する不可解な出来事を軸とする、ある種のミステリー構造。「技術者の覚悟と矜持」という言葉が心に残った。著者は、ややもすると技術の進展が忘れがちな、人間性という価値を問うているのではないか。


コズミック・マインド
西垣通
岩波書店