タバコ屋さんが謎の連休。
危うし、GITANES嗜好者・SGC存亡の危機。
それとは無関係に・・・。
休みの日、街中を車でウロウロ走ったり、短い距離だが高速道路を走ったり
したが、今目に付くのは「桜」である。
雨のせいでそろそろ散り始めてはいるのだが、
残った花だけでも立派に「桜」である。
5、6歳の子どもが桜に感激するのも稀だろうし、私も例外ではなく
子どもの頃は桜に対して特別な感慨も持つこともなかった。
大体、桜なんてどちらかと言うと憂鬱なアイテムに過ぎなかった気がする。
入学などの行事のように、それを境に環境が劇的に変化する局面に
胸躍らせた記憶があり、その感情の高ぶりに桜が花を添えた
なんてことは、私にとっては皆無な体験である。
それこそ入学や春の新学期なんて「ああ、鬱陶しい・・・。」以外の何の感情もな
かった。
「イヤな先生だったら困るなあ」とか
「先輩や級友がいやな奴ばかりだったら憂鬱だ・・・」
「新しい勉強って、理解できるんだろうか?」
という類の
負のイメージしか記憶に残っていない。
※実際には私のほうこそ「イヤな生徒」「いやな後輩」でした。スンマセン。
そんなイヤな局面には、いつも視線のどこかに桜が割り込んでいたのである。
周囲の者がきれいだキレイだ綺麗だ というから
それに感化されただけなのか、
自分の中の何かがそれこそ開花したせいなのか
よく分からないが、少なくとも子どもの頃よりは多少、興味を持って桜を見るように
なってしまっている。
働くようになってから一時的に「桜なんて早く散ってしまえ」と
憎悪剥き出しで敵視していたのは、「会社の花見」の存在のせいである。
下らぬ上司と、飲まない酒に挟まれて 桜の下で我慢大会。
こんな花など無くなればいいのだ、と働き始めた頃は思っていた。
幸い、桜が絶滅するよりも下らぬ上司達が絶滅する方が早かったので
今は桜とは和解した。
色々な呪縛から解放されて、ここ数年は やっとマイナスな感情抜きで
桜を見るようになり、春は桜とヤマザキ春のパン祭りのおかげで
快適に過ごしている。
3年ほど前のこと。
当時住んでいた家と会社を結ぶルート上には桜並木がある。
朝は一刻を争うので信号と交通環境以外に視線をくれる余裕などない。
夜帰宅する時、それも深夜の帰宅途中でその並木にさしかかった。
田舎道を走っているのは私一人なのに、桜は満開。
ほぼ見る人がいないのに、これ以上無いほどの満開だった。
無人の部屋で照明が明々と点されているような
無駄なような贅沢なような、見てはいけないもモノを見てしまった奇妙な
感覚にとらわれた。
車の幌を開けてゆっくり走り、並木の真ん中で信号待ち。
桜がゆらゆらと散って、車内にドットを作っていく。
いますぐ誰かに見せたいような、そうではないような・・・。
目下の問題は、今乗っている車には屋根があることである。
あの晩のような通りすがりの花見をしたいから。
それだけの理由で、何年か先にまた車を買い換える時には
是非オープンカーに乗るつもりでいる。
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