第12章 子供は学ぶ。
心の私的な心象風景を思い出した文章。
「子供が不断の、かつ最も根強い宗教的経験をするのは、常に、自分の家の仏壇と
神棚とを中心にして行われる家庭礼拝である。」(P332)
自分の実家にはなかったが、幼少期に3ヵ月に1回帰省する「八幡浜」の両方の祖父母の
家を思い出した。
いろり、とか、五右衛門風呂とか、縁側でカブトムシにマッチ箱を引かせたりとか、
お餅を大量に杵でついて、木箱にきれいに並べて、薄暗い部屋に置いていたりとか・・・。
生(性?)や死について、いかに子供に、親として伝えるのか?、ということについて
かなり曖昧なままにしており、少し無自覚な面もあることに気づく。
そして、「親として伝える」際に、伝える根拠としては、自分のルーツに沿っているし、
沿ってしまう。かなり主観的であるが、では客観的に伝えることが出来るのか?と
考えても、難しい気がする。
習慣、ならわし、規則、風習など、自分の親から、至極当然のものとして受け継いだものが
あるが、一世代を生きる自分としては、未来に向けて「社会経済的背景」の変化に応じて
いかに、それらのものを伝えていくのか?ということに向き合ってしまった・・・。(まあ、寝たら忘れそうであるが、
忘れられない気もするし、いつの間にか、私たちの背中から学んでいるかもしれないし・・・)
さて、・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・。