tontonjyoのブログ

yahooから引っ越して来ました。思ったことを適当に書いています

動的防衛力

2010-12-17 23:59:55 | 日記



平和主義を前提にする以上、紛争の解決は非暴力であるべき。そう、それが日本人の選択なんでしょう。

平和主義とは、つまり平和的手段・非暴力で紛争を解決することですよね。でも、非暴力は暴力に対して必ずしも有効とは言えない。暴力も厭わない相手に対してはやはり暴力の前提が必要ですよ。でも、それは拒否力と、それに伴なう抑止力と言う形であれば良い訳ですよね。実際の解決は非暴力で行うと言う建前なのだから。



日本と中国・・・。例えばガス田とか、領有権とか、日本には中国の主張に反する主張がある以上、やっぱり中国は脅威になりますよ。その脅威を阻む方策があるからこそ、そこから他のファクターである、例えば経済的不当行為とか人権に関する不当行為とか内政干渉と一蹴されるようのものに関しても確りとした要求ができるんでしょう。

いや・・・。あれだよね。【動的防衛力】ね。まぁ、妥当なんじゃないですか。簡単な話。中国はやり過ぎたんでしょう。だってさ。13億人とか言う人口と広大な土地がある国だよ。自国にはもっと開発の余地はある訳だからね。

多くの国が、明確な自国の領土で頑張っている訳さ。そんな中で大砲付き付け「言うこと聞けよ。」じゃ反発されて当たり前だよ。

当然、日本は防衛です。相手が来れば、それを阻むだけのもので中国の相手の脅威にはならん。つまり抑止力を越える武力的強制力は得られないんです。それでも、その相手の侵攻を阻む力、つまり拒否力は抑止力になり得る力です。だから十分に確保することで対等な要求ができるようになる。それでも中国は正当性を主張して行動するんじゃないですか。

まぁ、そもそも今現在の如何な大国でも一国では中国に対して抑止力を超える武力的強制力は持ってはいないですよね。それでも、そんな国々が連携すれば懲罰力であったり、抑止力を越える武力的強制力を持つことができる。

力を得れば国際法上、容認・黙認されるような中国の不当な動きを国際社会として抑えることができるでしょう。多国家間の連携は国際社会において極めて厳密に近い正当性を構築しますよね。

自国では必要最低限の防衛力を持ち均衡を成す防衛的現実主義。日本はこれを越えることはできない。更に言えば必要最低限度の防衛力しか持てない上に、国際紛争を解決する手段となり得る報復力・懲罰力を一切持たないとしている。従って国際協力を楽観視して信じなければならない。

まぁ、動的防衛力と言う概念は重要だが、国際協力において大方の国々の理解の元に【不当】を明確にし、それを阻むべく法典化と、それを担保する体制作りは今後の日本にとって必要不可欠になって行くんじゃないですか。


悪いけど日本は大国ですよ。大国には責任が伴うでしょう。当然、憲法9条の範囲と言う縛りと日本の国益が前提になるでしょうけど、例えば小国を守り自由な活動を保証するとかも視野に入れる必要があるでしょうね。

日本には憲法9条と言う特殊な事情がある。従って国際的な連携は信じざるを得ない。ただ、それには法典化は不可欠。単なる楽観論では大国の力に脆くも崩れ去ることにもなり兼ねない。だから日本は「守る、守られる。」と言う重要性を説明して条約を締結し、自国の安全保障をなして行かなければならないんです。

既存の体制とは別のファクターで自国の安全保証を確保して行けば、あの米国に対してさえ、日米の関係を崩すことなく確りとした要求ができるようになりますよ。

日本にも特性はあるでしょう。非暴力を前提としながらも対暴力的暴力を認め、確りとした体制を構築すれば日本は世界で平和主義を体現できるようになるのだと俺は思いますけどね。





まぁ、日本は防衛に関して新たな方針を打ち出し、中国を牽制するに至ったけれども、例えば海上保安庁に至っても、やっぱりインドネシアのナトナ諸島での出来事などを教訓にして今後も能力の確保と意志の表明、更に国民の理解を深めて行く作業は必要でしょうね。







歩みを阻む壁・・・でも

2010-12-17 03:27:36 | 日記

「チラシの裏に書いとけっ。」って言われそう。政治的な主張っぽいけど俺は単に便所の落書きチックな愚痴を書いているに過ぎなくてさ。まぁ、テレビと話すよりは参加している感が強いからね。ん・・・確かにブロガーの一人ではあるだろうが、その志は極めて低い。義憤だとか、世界を変えたいとか、一切思っちゃいない。気楽なもんです。

でも、世の中には世界を変えたいと本気で思う人もいる。そしてブログやら、ネットを介して思いを発信する訳だ。志が高いよね。本気で尊敬しちゃいますよ。

まぁ、誰だったか言ってたなぁ。「世界を変えたいと思う人の多くは自分の無力さを知ることになる。」・・・。そんなもんでしょうかね。確かに無力感はあるのかもしれないが、でも、自分の意見を発信している人って必ずしも無力とは言えないかも。



ネット議論やらやって来た俺の経験から言わせてもらうとさ。ブログの良い点は、コメントなどによってコミュニケーションが取れることだろうけど、そのコメント蘭は悪い意味でコメンターと揶揄される反論者達が迷惑を顧みず正義顔して住まう世界になってしまうこともあるようです。

コメンターは前提が正義だから性質が悪くて少々の迷惑など意に返さない。そうなってしまうとブログ記事に対する同意者が発言し辛い環境になってしまうみたいね。

同意者が発言し辛い環境になれば、そうね。コメンターに対してブログ主を庇う側に立つと言うか、そう言った人は必然として弁が立つ、論じることに自信がある人が多く発言するようになるもんですよ。それは必ずしも良いことではない。

論じることに自信がある人の多くは自らに酔いながら長文を書く傾向があるでしょう。酔うかのような感情を前提に長文を書けば感情表現などミスる可能性も高くなる。従って長文どうしで論じ合うと本当の意図とは別の方向に行きがちになるもんです。

あくまでも冷静に淡々と主張するのなら別だが、人様のブログで反論コメントする人の多くは感情の高ぶりから行為するものじゃないですか。その感情の高まりは反反論者にも伝播してしまうものだよね。

一度ミスをして言い合いになれば、互いに対する論者の印象は決まってしまう。次の話題で論じるのでも、以前の主張を蒸し返され突付かれる様をよく見かけます。そんなことを繰り返すコメント蘭に同意者が気軽にコメントするなんて難しい話でしょう。これは特定に言えることじゃなくて一般的にそうなんだよなぁ。

でも、ブログ主は悲観する必要はない。自分の思うことを書けば良いだけの話ですよ。何故なら、影響力が強いものほど、その反響も大きくなる訳で、それが例え反論であっても反響があると言うことは間違いなく影響力があると言うことです。

確かに義憤であっても怒りって言うものは、それを向けると相手から怒りが返って来る。そう反論めいた言葉が返って来るものでしょうね。誰だって自己正当化したい、それをしないと負けた気になるからね。

でも、人の価値基準は千差万別で、反感を抱く人がいるなら必ず同意する人もいるもんです。コメントを見て「なんか反論ばっかりだなぁ。」と感じるとするなら、それは簡単な話で、同意者よりも反論者の方が感情の高まりがあり、コメントを書くことの動機が強いってだけの話ですよ。

反響が大きいブログ主は自らに自信を持つべきなんだ。表明はしなくてとも必ず同意者がいるのだから、同意者がいると言うことは世界を変えられると言うことです。