いつも暖かい励ましを
コメントやメールで寄せて下さるみなさま
ありがとうございます
最愛の母が
3月22日 23:45 永眠しました
元気なお母さんに会いたかったら
早く来て…と言われて
急きょ上京したのは 1月31日でした
あと余命2週間と言われた母は
でも、とてもそんなに弱っているとは
思えないほど しっかりしていました
ただ
食欲が極端に落ちて
口に合うものが限られていたので
母の望むものを調達するために
あちこち奔走した 2週間でした
食べたいものであれば
少しは食べられるようになったので
私は 一時 旭川に戻りました
が、戻ったその日から
母は嘔吐に苦しむようになりました
一人では心細い…と妹からメール
結局 家には5日しかおらず
また東京へ…
二度目の東京では
いかにしたら母が気分良く過ごせるか
それを模索する日々でした
モルヒネと症状緩和の薬を
あれこれ試して
効果があるのは 3~4日
また薬を変えて…
その繰り返しでした
3週間が過ぎ
家を長期にわたって空けている
私の心の負い目と
滞在先の妹夫婦への遠慮と…
誰も何も言わないのに
私は一人で苦しくなってきて
いつまで続くか分からない闘いに
どうしたら良いのか分からなくなり…
東北関東大震災があった頃は
母は驚くほど 食べられるようになっていて
今から思うと
あれは神様が最後に残してくれた
楽しみだったのでしょう…
元気になれたから
一度 旭川に帰るね…
辛くなったり会いたくなったら
すぐに連絡してね
そう言って東京を後にしたのは10日前
ところが私が去って間もなく
母は転んでしまい
寝たきりになってしまいました
二度までも私を呼び寄せた
東京の家族は
今回は早く来て…とは言えなかった
歯切れの悪い電話の応答に
状態が見えない私は焦り
兄や妹の様子から
三度目の上京を決めたばかりでした
既に母は昏睡状態でした
結局 私は自分の全ての
肉親の死に目に会えずに終わりました…
遠方に嫁ぐと言うことは
こういうことなのでしょうか…
けれど
今回は夫や両親の暖かい励ましがあり
母の最期の時間の殆どを
同じ部屋で過ごすことができました
母が一番 私を必要としているときに
ずっと居てあげることができました
母のベッドの傍で
母の好きな軽音楽を聴きながら
ハワイアンキルトを一針一針
他愛ないおしゃべりをして
こんなに長い時間を母と過ごしたことは
かつてなかった気がします
幼いころから 私は
母の希望通りの人生を歩んできました
結婚に破れ 心配や迷惑を
いっぱいかけてしまったけれど
母は私の生き方を応援し続けてくれました
私の夢は母の夢でもあり
私が作るお菓子の一番最初のファンでした
父がいないと何もできないような母は
父の死後
どこでどう開き直ったのか
一人で生きる晩年を選び
自分で終の棲家を探し
がんに冒されてからも
果敢に闘い
遂に治療の道が断たれてからも
ターミナルケアの施設を自ら探し
明るく生きていました
子供の負担になったり
子供の芽を摘むことだけはしたくない
いつもそういって
少しは甘えればいいのに
いつの間にか
戒名や葬儀の段取りまで済ませて
そして
子供のころから一番派手な喧嘩をしてきた
妹にみとられて
父のもとに旅立ちました
結局 母が弱い部分を見せられるのは
妹だったのでしょう…
今日 また上京します
母を送ってきます
きっと 相当めげてしまうだろうと
何もする意欲がなくなっちゃうだろうと
本当は そう思うのだけど
私に夢を託した母のために
苦しくても前向きに
人に喜ばれる仕事を始めなくてはって
そう思って
とても眠れそうにない長い夜
ブログの更新をすることにしました
長々と読んでくださって
ありがとうございました…