スイーツとワンコたち・・・駄菓子屋ともちんへようこそ!

現在 アトリエさくらは活動休止中です。次のステップに向けて準備しております。

別れ

2011年03月23日 | Ma Famille (家族)

いつも暖かい励ましを

コメントやメールで寄せて下さるみなさま

ありがとうございます

 

最愛の母が

3月22日 23:45 永眠しました

 

元気なお母さんに会いたかったら

早く来て…と言われて

急きょ上京したのは 1月31日でした

あと余命2週間と言われた母は

でも、とてもそんなに弱っているとは

思えないほど しっかりしていました

ただ

食欲が極端に落ちて

口に合うものが限られていたので

母の望むものを調達するために

あちこち奔走した 2週間でした

食べたいものであれば

少しは食べられるようになったので

私は 一時 旭川に戻りました

が、戻ったその日から

母は嘔吐に苦しむようになりました

一人では心細い…と妹からメール

結局 家には5日しかおらず

また東京へ…

 

二度目の東京では

いかにしたら母が気分良く過ごせるか

それを模索する日々でした

モルヒネと症状緩和の薬を

あれこれ試して

効果があるのは 3~4日

また薬を変えて…

その繰り返しでした

3週間が過ぎ

家を長期にわたって空けている

私の心の負い目と

滞在先の妹夫婦への遠慮と…

誰も何も言わないのに

私は一人で苦しくなってきて

いつまで続くか分からない闘いに

どうしたら良いのか分からなくなり…

 

東北関東大震災があった頃は

母は驚くほど 食べられるようになっていて

今から思うと

あれは神様が最後に残してくれた

楽しみだったのでしょう…

 

元気になれたから

一度 旭川に帰るね…

辛くなったり会いたくなったら

すぐに連絡してね

そう言って東京を後にしたのは10日前

 

ところが私が去って間もなく

母は転んでしまい

寝たきりになってしまいました

 

二度までも私を呼び寄せた

東京の家族は

今回は早く来て…とは言えなかった

歯切れの悪い電話の応答に

状態が見えない私は焦り

兄や妹の様子から

三度目の上京を決めたばかりでした

既に母は昏睡状態でした

 

結局 私は自分の全ての

肉親の死に目に会えずに終わりました…

遠方に嫁ぐと言うことは

こういうことなのでしょうか…

 

けれど

今回は夫や両親の暖かい励ましがあり

母の最期の時間の殆どを

同じ部屋で過ごすことができました

母が一番 私を必要としているときに

ずっと居てあげることができました

母のベッドの傍で

母の好きな軽音楽を聴きながら

ハワイアンキルトを一針一針

他愛ないおしゃべりをして

こんなに長い時間を母と過ごしたことは

かつてなかった気がします

 

幼いころから 私は

母の希望通りの人生を歩んできました

結婚に破れ 心配や迷惑を

いっぱいかけてしまったけれど

母は私の生き方を応援し続けてくれました

私の夢は母の夢でもあり

私が作るお菓子の一番最初のファンでした

 

父がいないと何もできないような母は

父の死後

どこでどう開き直ったのか

一人で生きる晩年を選び

自分で終の棲家を探し

がんに冒されてからも

果敢に闘い

遂に治療の道が断たれてからも

ターミナルケアの施設を自ら探し

明るく生きていました

子供の負担になったり

子供の芽を摘むことだけはしたくない

いつもそういって

少しは甘えればいいのに

いつの間にか

戒名や葬儀の段取りまで済ませて

そして

子供のころから一番派手な喧嘩をしてきた

妹にみとられて

父のもとに旅立ちました

結局 母が弱い部分を見せられるのは

妹だったのでしょう…

 

今日 また上京します

母を送ってきます

きっと 相当めげてしまうだろうと

何もする意欲がなくなっちゃうだろうと

本当は そう思うのだけど

私に夢を託した母のために

苦しくても前向きに

人に喜ばれる仕事を始めなくてはって

そう思って

とても眠れそうにない長い夜

ブログの更新をすることにしました

 

長々と読んでくださって

ありがとうございました…

 


ありがとう… Thank you... Merci

2011年03月16日 | a la carte (アラカルト)

ご無沙汰してしまいました

東京におりました

母の余命は あと2週間…

そう言われての上京でした

 

あれから 6週間

3回の危機を乗り越えて

母は奇跡的に持ち直しました

試しに使った薬が うまく症状を緩和し

先週 中頃には 笑顔を見るまでになりました

 

  3月11日 昼  湯島

 

東京では季節は冬から春へ

母が小康状態でいてくれるうちに

一度 旭川へ戻ろうと

家族で相談していたところに

地震が起こったのです

 

上野のマンション 6階にいました

帰旭について夫と電話していて

母の所に出かけるのが遅れたのです

そうでなかったら きっと地下鉄の中…

東京でも かなり揺れました

釧路沖地震の震度6を経験していましたが

首都圏で体験する地震は

別の怖さをもっています

余震のたびに 6階から駆け降りる

外では近隣のマンションやオフィスから飛び出した

大勢の人たちが群がり携帯を使っていました、

繋がらないとイライラしながら…

上野駅が封鎖され

周辺は どんどん人が増えてごった返し

緊急車両が走り…

やけに寒い日で

恐怖とで震えていました

3月11日 夜の上野駅です

奥の電車はホームから出た所で止まったままでした

地震で止まった交通網は

18時間近く 止まったままでした

 

帰宅できなくなった兄、妹、娘、娘の夫

その晩の昭和通りは 動かない車の列と

歩道いっぱいに埋め尽くした人々の

遅々とした帰宅行列

異様な光景でした

 

 翌朝の 上野のカンザクラ

 

翌日 出来る限り家族は固まっていようと

大塚に向けて歩き始めた時に見た寒桜です

 

私たちより怖ろしい思いをしたのは

義父母と義妹夫婦でした

仙台での被災でした

けれど運よく善意の人々に助けられ

三日かけて無事に帰宅できました

当たり前に使っている携帯が役に立たない

繋がれない不安が何より大きかった気がします

 

私自身も 14日 

無事に旭川に戻ってきました

すでに東京では人々は殺気立って

水や食料を求めていました

そして羽田はかつてないだけ

閑散としていました

 

今のところ平安な旭川ですが

当分の間

ブログの更新は自粛いたします

いつまた母の体調が変わるかわからず

再び 上京する時には

東京も落ち着いていてほしいと願います

 

被災地については

気が遠くなる有様で 言葉もありません…

一日も早く 普通の生活を取り戻せますように…

 

今日 久しぶりにパソコンを開くと

フランス、 カナダ、 アメリカ、 オーストラリアの

沢山の友達から私を心配するメールが届いており

被害の大きさに驚愕する言葉で埋め尽くされていました。

一様に 私たちにできることがあったら

知らせて下さいと…

国境を越えた沢山の友人に感謝します

ありがとう…