産経新聞の社会面に社会部記者が書くコラム「Re:社会部」が連載されている。30日の同コラムは、「法廷ドラマも様変わり」という内容だ。
「法廷ドラマ」って聞いて皆さんは、何を頭に浮かべますか?
刑事裁判で、法的な手段、判例、事前の調査などを駆使して、有罪か無罪かを争う丁々発止のやりとり…ではないですか?
でも、「Re:社会部」の筆者のいう法廷ドラマとはどうもそうではないようなのです。
「刑事裁判の魅力、それは目の前で明らかにされる人間模様だと考えています。さまざまな証拠や証人の発言、被告人質問などによって明らかにされていく事件の過程や背景には、人間ドラマが詰まっています」…この書き出しから感じるのは、いわゆる「法廷ドラマ」に対する興味ではなく、「のぞき見趣味」だ。
この筆者のタッチからは、刑事裁判で明らかになる事実はそれがプライバシーに関わることでも書いてもかまわないというニュアンスを感じる。そして、それが多くの記者に共通されている認識なのだと思う。
しかし、考えてみれば、刑事事件の被告人や被害者にはそのプライバシーを侵害されなければならない理由はない。
もちろん、裁判は公開の法廷で行われるべきであるし、そこでのやりとりは傍聴者に明らかにされなければならない。その過程で、被告人や被害者のプライバシーに触れることもある。それが興味深いこともあるだろう。
しかし、考えてみれば、裁判が公開の法廷で行われるのは、プライバシーを公開するためではなく、裁判が公正に行われているかどうかを確認するためだ。裁判官が一方的に強者の味方になっていないか。偏った裁判が行われていないか。警察官の言うことを鵜呑みにはしていないか。警察の捜査のありように問題はないのか…。
裁判がもし非公開で行われたら、そういう問題が明らかにされず、無実の人が有罪になったり、強者に有利な判決が下されたりするだろう。
プライバシーに関する情報などが暴露されてでも、裁判を公開することとされているのは、手続きの公正さ、裁判官の判断の公正さを担保するためだ。
ということは、マスメディアもそういう視点で裁判に臨むべきなのはいうまでもない。裁判官が一方的に審理を打ち切っていないか?警察官の証拠の採取手続きに問題はなかったか?自白は強要されていないのか?
司法記者の役割は本来は、このような視点から裁判を監視することにある。
それなのに、本来は、法廷での丁々発止のやりとりを指す「法廷ドラマ」という言葉を、「法廷で明かされる人間ドラマ」ととらえて、それを報道することに満足するのでは、いわば、記者はプライバシー侵害という裁判公開の副作用しか利用していないことになる。手続きの公正さなどの担保という裁判公開の目的からはかけ離れた記事になってしまうわけだ。
もちろん、理想だけ述べるわけにもいかないが、少なくとも、記者が自らの取材の目的が「のぞき趣味」を満足させることだと公言するのはいかがなものか。
やせ我慢をしてでも、裁判手続きの公正さを監視する役割を担うんだという気概を見せなければ、市民はメディアがプライバシー侵害をすることを許容しなくなるだろう。単に興味本位の記事を商売のために書くために「特権」を振りかざすな…ということになるからだ。そして、それは、結局、手続きの公正さを監視する力をも失わせることになる。
市民一人ひとりの「知る権利」を実現するために、マスメディアの「表現の自由」はあるわけだが、「知る権利」は自らの政治的選択を行うための材料を得ることを最大の目的としているのであり、「のぞき見をする権利」ではないことを市民の側もきちんと自覚しなければならないと思う。知る権利を実現する記事を書けと叫ばなければならない。
「Re:社会部」の「法廷ドラマも様変わり」というコラムは、公判前手続きが公開されないことに疑問を投げかけるものであり、そのこと自体は大切なことだろう。しかし、なぜ、公開されないことに問題があるかと言えば、それは、人間ドラマが見られなくなるため「物足りなさを感じる」という程度のことではなく、「適正な手続きを監視できなくなる」という重大なことなのだ。
このコラムは、現在の記者の「知る権利」、「表現の自由」への認識を象徴するものだと思うが、その認識だけでは不十分であることをひとりでも多くの記者に気づいてほしいと思う。
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★「憎しみはダークサイドへの道、苦しみと痛みへの道なのじゃ」(マスター・ヨーダ)
★「政策を決めるのはその国の指導者です。そして,国民は,つねにその指導者のいいなりになるように仕向けられます。方法は簡単です。一般的な国民に向かっては,われわれは攻撃されかかっているのだと伝え,戦意を煽ります。平和主義者に対しては,愛国心が欠けていると非難すればいいのです。このやりかたはどんな国でも有効です」(ヒトラーの側近ヘルマン・ゲーリング。ナチスドイツを裁いたニュルンベルグ裁判にて)
★「News for the People in Japanを広めることこそ日本の民主化実現への有効な手段だ(笑)」(ヤメ蚊)
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「法廷ドラマ」って聞いて皆さんは、何を頭に浮かべますか?
刑事裁判で、法的な手段、判例、事前の調査などを駆使して、有罪か無罪かを争う丁々発止のやりとり…ではないですか?
でも、「Re:社会部」の筆者のいう法廷ドラマとはどうもそうではないようなのです。
「刑事裁判の魅力、それは目の前で明らかにされる人間模様だと考えています。さまざまな証拠や証人の発言、被告人質問などによって明らかにされていく事件の過程や背景には、人間ドラマが詰まっています」…この書き出しから感じるのは、いわゆる「法廷ドラマ」に対する興味ではなく、「のぞき見趣味」だ。
この筆者のタッチからは、刑事裁判で明らかになる事実はそれがプライバシーに関わることでも書いてもかまわないというニュアンスを感じる。そして、それが多くの記者に共通されている認識なのだと思う。
しかし、考えてみれば、刑事事件の被告人や被害者にはそのプライバシーを侵害されなければならない理由はない。
もちろん、裁判は公開の法廷で行われるべきであるし、そこでのやりとりは傍聴者に明らかにされなければならない。その過程で、被告人や被害者のプライバシーに触れることもある。それが興味深いこともあるだろう。
しかし、考えてみれば、裁判が公開の法廷で行われるのは、プライバシーを公開するためではなく、裁判が公正に行われているかどうかを確認するためだ。裁判官が一方的に強者の味方になっていないか。偏った裁判が行われていないか。警察官の言うことを鵜呑みにはしていないか。警察の捜査のありように問題はないのか…。
裁判がもし非公開で行われたら、そういう問題が明らかにされず、無実の人が有罪になったり、強者に有利な判決が下されたりするだろう。
プライバシーに関する情報などが暴露されてでも、裁判を公開することとされているのは、手続きの公正さ、裁判官の判断の公正さを担保するためだ。
ということは、マスメディアもそういう視点で裁判に臨むべきなのはいうまでもない。裁判官が一方的に審理を打ち切っていないか?警察官の証拠の採取手続きに問題はなかったか?自白は強要されていないのか?
司法記者の役割は本来は、このような視点から裁判を監視することにある。
それなのに、本来は、法廷での丁々発止のやりとりを指す「法廷ドラマ」という言葉を、「法廷で明かされる人間ドラマ」ととらえて、それを報道することに満足するのでは、いわば、記者はプライバシー侵害という裁判公開の副作用しか利用していないことになる。手続きの公正さなどの担保という裁判公開の目的からはかけ離れた記事になってしまうわけだ。
もちろん、理想だけ述べるわけにもいかないが、少なくとも、記者が自らの取材の目的が「のぞき趣味」を満足させることだと公言するのはいかがなものか。
やせ我慢をしてでも、裁判手続きの公正さを監視する役割を担うんだという気概を見せなければ、市民はメディアがプライバシー侵害をすることを許容しなくなるだろう。単に興味本位の記事を商売のために書くために「特権」を振りかざすな…ということになるからだ。そして、それは、結局、手続きの公正さを監視する力をも失わせることになる。
市民一人ひとりの「知る権利」を実現するために、マスメディアの「表現の自由」はあるわけだが、「知る権利」は自らの政治的選択を行うための材料を得ることを最大の目的としているのであり、「のぞき見をする権利」ではないことを市民の側もきちんと自覚しなければならないと思う。知る権利を実現する記事を書けと叫ばなければならない。
「Re:社会部」の「法廷ドラマも様変わり」というコラムは、公判前手続きが公開されないことに疑問を投げかけるものであり、そのこと自体は大切なことだろう。しかし、なぜ、公開されないことに問題があるかと言えば、それは、人間ドラマが見られなくなるため「物足りなさを感じる」という程度のことではなく、「適正な手続きを監視できなくなる」という重大なことなのだ。
このコラムは、現在の記者の「知る権利」、「表現の自由」への認識を象徴するものだと思うが、その認識だけでは不十分であることをひとりでも多くの記者に気づいてほしいと思う。
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「裁判が公開の法廷で行われるのは、プライバシーを公開するためではなく、裁判が公正に行われているかどうかを確認するためだ。裁判官が一方的に強者の味方になっていないか。偏った裁判が行われていないか。警察官の言うことを鵜呑みにはしていないか。警察の捜査のありように問題はないのか…。裁判がもし非公開で行われたら、そういう問題が明らかにされず、無実の人が有罪になったり、強者に有利な判決が下されたりするだろう。」
「市民一人ひとりの「知る権利」を実現するために、マスメディアの「表現の自由」はあるわけだが、「知る権利」は自らの政治的選択を行うための材料を得ることを最大の目的としているのであり、「のぞき見をする権利」ではないことを市民の側もきちんと自覚しなければならないと思う。知る権利を実現する記事を書けと叫ばなければならない。」
「やせ我慢をしてでも、裁判手続きの公正さを監視する役割を担うんだという気概を見せなければ、市民はメディアがプライバシー侵害をすることを許容しなくなるだろう。単に興味本位の記事を商売のために書くために「特権」を振りかざすな…ということになるからだ。そして、それは、結局、手続きの公正さを監視する力をも失わせることになる。」
「司法記者の役割は本来は、このような視点から裁判を監視することにある。」
2:被告人のプライバシーは被告人のもの。
被告人のプライバシーは被告人のものであるから、刑事裁判が公開原則といっても、そのプライバシーを開示するかしないかは被告人が決定することであって、裁判所や、報道機関が決めることではない。被告人のプライバシーを公開するのでああれば、被告人の許可を得て公開する必要がある。被告人には推定無罪原則が適用されるのであって、被告人は普通の市民と同じである。被告人が公開で刑事裁判を行うか否か?報道機関にプライバシーを掲載するか否かは、弁護人と相談して被告人が決定する権利を持つということが自然だと思う。
だから未だに金融危機にもお上のお情け待ちで、11月にもあろうかと言うブレトンウッズⅡにも米国のイエスマンを送るしか能が無く、庶民は紙切れになり得る貯蓄で精々政府保証の薄さに抵抗しようとする程度。
結局、(記者を含め)自分達が一番不利な目に遭うのに、ね!