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股間若衆: 男の裸は芸術か

2012-09-11 | 読書
股間若衆: 男の裸は芸術か
木下 直之
新潮社

 

 どこかの本屋さんで棚に置いてある本は見たことがあったんやけど、昨日のラジオで著者へのインタビューがありました。

ギリシャ・ローマ時代の具象的な彫刻から始まって、キリスト教の影響で前を隠すようになったこと、そして日本でこういった彫刻が街頭へ進出してきたのは戦後、国土の再建へ向けて…の時代であった、戦前は軍人などの彫刻が多く裸では「エラそう」に見えなかったんだろう…。

 こんな話を聞いていて、一つ 街の中の歴史を 知ることが出来ました。読んでみようか

研究テーマ

私の研究テーマの変遷をたどり直してみると、学生だった1970年代後半は西洋美術史、美術館学芸員だった1980年代は近代日本美術史を学び、美術館から大学へと移行する1990年代には、美術史を越えて、幕末期から明治期にかけてのさまざまな文化現象を追い掛けてきた。

転機はいくつもあったが、現在の研究の起源は、1990年に企画した展覧会「日本美術の19世紀」(兵庫県立近代美術館)へとさかのぼる。江戸時代や明治時代の代わりに用いた19世紀という枠組みは便宜的なものに過ぎなかったが、そのことで、時代間や分野間に自明のごとく引かれている境界線を疑い、いったん無効にする作業に着手できたように思う。祭礼のつくりもの、見世物、博覧会、写真、銅像、記念碑、文化財保護、博物館などが視野に入ってきた。

文化資源学研究室に関わるようになってからの6年間、私をとらえ続けてきたものは「お城」だった。それは城郭研究の対象としての城ではなく、思わず「お」を付けて呼んでしまう現代人の通念の中に存在している城である。

城は明治維新と廃藩置県によって無用の長物と化したにもかかわらず、今なお、それを実現・復元させようとする試みが続いている。1931年築城の鉄筋コンクリート造の大阪城はその嚆矢であり、内部がミュージアムとして公開された点でも、戦後の城のモデルとなった。1950年代後半に、雨後のたけのこのように城が建つ。この場合の「雨」とは、B29が投下した焼夷弾にほかならない。1989年には、今度は竹下内閣が全国の市町村に1億円の「ふるさと創生」資金をばらまいた。それがお城の建設に弾みをつけ、1990年代には新たな築城ブームが出現した。

文化経営学という専門分野を抱える研究室に所属する以上、こうした近年の地方自治体による築城や、城とミュージアムの関係にも関心を持たざるをえないが、主要な関心は、どうしても幕末期から明治期にかけての、さまざまな事物の価値の変遷に向かう。そこで何が断絶し、何が継承され、そして何が現代にまでつながっているのかを考えてみたいのだ。つぎに示す著作リストは、その成果の一端である。

なぜ、われわれは城に「お」を付けてしまうのか。これだって、大切な研究テーマになりうる。明治半ばになって、旧幕府関係者にその制度や役職の実態を聞き取りした『旧事諮問録』(岩波文庫)に、こんな興味深い話がある。外国奉行のほか、御小姓や御側御用取次などを務めた経験を有する竹本要斎が、質問をさえぎり、「御の字が付かぬと情合が移らぬ」から昔の言葉遣いで答えさせてほしいと断っている。竹本の生きた世界が、まさしく「お城」だった。

日本社会はそれからすっかり様変わりしたはずなのに、「お城」はなお存在を続けている。これから先は、『わたしの城下町~天守閣から見える戦後の日本』(筑摩書房、近刊)をご覧いただきたい。「お城」から派生したテーマとして、大名墓、銅像、記念碑、戦争博物館などが、午歳の私の目の前に、まるで人参のようにぶらさがっている。

広島ブログ

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