今日は、友人たちと
映画「母べぇ」の鑑賞とランチをした。
私たちは、「母」であるので、
映画に感動しないはずはなかった。
でも、周りのもっと年配の方たちからは、
すすり泣くこえがあったほどである。
昭和15年に私たちより、少し若い母親の設定だろうか。
周りで、泣いていた方たちが、
映画だと、子供の立場であり、
吉永 さゆりさんの「母べぇ」は、
自分の母親を彷彿したに違いない。
この前は、同じ、山田洋次監督の
「武士の一分」をみて、
日本人の身分は、そんなに高くないけれども、
誇りある生き様に感動した。
それと同じく、市井に生きる人の
凛とした生活。誇り高い日本人の姿に
打たれたのだった。
さてさて、現代に生きる私は、ちゃぶ台を囲む
家庭に憧れながらも、そういうわけにいかない。
妻子を思う父、
慈愛にあふれた母、
親を尊敬する子供に
よけい、憧れるのである。
「ああ、あんな、おかあさんになりたい。
ああ、あんな旦那さまが欲しい。
ああ、あんな子供が欲しい。」
自分が母べぇにほど遠いのは棚にあげて、
願望だけが、広がっていく。
そうだ、日本人のアナログな暮らしは大事だ、
と思うのであるが、
一軒の家の中にも、
家族の人数分だけ、携帯があったり、
パソコンがあったり、
違う価値観が存在する。
小さなちゃぶ台を囲み、
小さな鉢に盛られたおかずをみんなで、
分け合う暮らし。
やっぱり、いいな・・。と思った。
最近、ちゃぶ台を物色してしまうのである。
価値観が近いということは、
とても、快適である。
今日のお友達は、話題も豊富で
いろんなことを話して、楽しい時間だった。
映画「母べぇ」の鑑賞とランチをした。
私たちは、「母」であるので、
映画に感動しないはずはなかった。
でも、周りのもっと年配の方たちからは、
すすり泣くこえがあったほどである。
昭和15年に私たちより、少し若い母親の設定だろうか。
周りで、泣いていた方たちが、
映画だと、子供の立場であり、
吉永 さゆりさんの「母べぇ」は、
自分の母親を彷彿したに違いない。
この前は、同じ、山田洋次監督の
「武士の一分」をみて、
日本人の身分は、そんなに高くないけれども、
誇りある生き様に感動した。
それと同じく、市井に生きる人の
凛とした生活。誇り高い日本人の姿に
打たれたのだった。
さてさて、現代に生きる私は、ちゃぶ台を囲む
家庭に憧れながらも、そういうわけにいかない。
妻子を思う父、
慈愛にあふれた母、
親を尊敬する子供に
よけい、憧れるのである。
「ああ、あんな、おかあさんになりたい。
ああ、あんな旦那さまが欲しい。
ああ、あんな子供が欲しい。」
自分が母べぇにほど遠いのは棚にあげて、
願望だけが、広がっていく。
そうだ、日本人のアナログな暮らしは大事だ、
と思うのであるが、
一軒の家の中にも、
家族の人数分だけ、携帯があったり、
パソコンがあったり、
違う価値観が存在する。
小さなちゃぶ台を囲み、
小さな鉢に盛られたおかずをみんなで、
分け合う暮らし。
やっぱり、いいな・・。と思った。
最近、ちゃぶ台を物色してしまうのである。
価値観が近いということは、
とても、快適である。
今日のお友達は、話題も豊富で
いろんなことを話して、楽しい時間だった。