車泊で「ご当地マンホール」

北は山形から南は大分まで、10年間の車泊旅はマンホールに名所・旧跡・寺社・狛犬・・思い出の旅、ご一緒しませんか。

吉備津神社~其の四 in 岡山県岡山市北区

2021年08月08日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・岡山県

吉備津作りの御社殿は、夏の空を背景に清らかな姿でそこに在ります。この美しい姿が見たくて、私たちは4年の歳月を経て再びこの地を訪れました。

下の画像は2007年の参拝時のもの、すっぽりとシートに覆われた社殿の前で呆然とする御亭主殿。下調べをしないで参拝した自分たちが迂闊だったのですが、それにしてもあまりにも残念すぎて言葉を失いました。

二度目の参拝の後は御朱印に嵌ってしまい、そんなこんなで三度の参拝。画像はおのずと増えていくのですが、境内から見る廻廊もこうして改めて見るとその直線的な美しさに思わずため息。

廻廊の途中、左手の土手に建立されていた句碑【糸凪三尺 五尺の滝に 入れぬ浮世の砂埃り】・・多分・・だと思う😓

廻廊を望む境内の片隅に【我らここに学ぶ 岡山一中吉備津教場跡】と刻まれた碑。添碑には「昭和20年6月29日の岡山大空襲により旧制岡山一中の校舎は岡山城と共に全焼した。当時の1、2年生は各地に分散して学ぶことになり、足守・高松・吉備津一宮・庭瀬地区の者が、ここ吉備津神社の回廊の石段を教室に、約2ヵ月間勉強を続けたのである。」

西参道から境内を出てむかったのは、道路を挟んだ向かいの神池の中に鎮座される「宇賀神社」。赤い欄干の橋を渡った鳥居の奥には華やかな朱に彩られた社殿が鎮座されています。

鳥居の内より神域を守護されるのは天保12年(1841)9月吉日建立の浪花狛犬さん一対。年代からはちょっと想像しがたい美しい状態で参拝者を迎えてくれます。

朱塗りの社殿に鎮座されるのは、商売の神であり吉備国最古とされる『吉備神

棟の中央には、皇室の紋とされる菊と、豊臣政権の紋とされた桐がそれぞれ半分ずつ組み合わされた飾瓦があります。調べてみましたがその由来等はわかりませんでした。

向背には逆巻く緑の波を蹴立て、真っ赤な目を爛々と光らせる「白龍」の彫刻。

神池に映る朱塗りの社殿の影、その後方には御神体である吉備の中山がまるでこの神域の全てを見守るように美しい姿を見せています。

「宇賀神社」の隣、神池に架かる小さな石橋を挟んで立地する「普賢院」。創建年は不明ですが、奈良時代の天平勝宝年間(749~757)に奈良の僧・行基により金剛寺として建立されたと伝えられます。神仏習合の時代、古代吉備国の総氏神「吉備津神社」のもと別当寺(神宮寺)でしたが、明治維新の神仏分離令により、今は独立した寺院となりました。

入母屋造桟瓦葺の「歓喜天堂」。唐破風にはまるで悟りを開いた仙人を思わせる容貌の鬼が参拝者を見下ろします。

華やかな色彩の格天井、唐破風向拝の水引虹梁の蟇股には、丁子紋の彫刻。ある時「これは大根の紋だ」と、どこかのおじさんが鼻息荒く説明している場面に出くわしたことがありますが・・大根ではありません😅。丁子はとても強い香気がある植物で、香辛料の材料としても有名。その香の力を用いて邪を払うと考えられています。

おそらくは鐘楼の屋根であったと思うのですが・・「桜紋」が刻まれた軒丸瓦の上に「兜」を象った飾瓦があります。この桜紋が寺紋なのか、また兜の立物に添えられた三つ葉が何を表しているのか・・全く謎のまま(^^;)

吉備津神社の境外一画に建立された「犬養木堂」の銅像。「犬養 毅(いぬかい つよし)」と言った方が分かりやすいでしょうか? 1932年の五・一五事件で統帥権独立を呼号する軍部によって、その生命を絶たれた事件はあまりにも有名です。

吉備津神社駐車場脇に建立されていた「殉国烈士之碑」。大東亜戦争後、勝者によって戦犯として処刑された、日本国軍人の方々の慰霊碑です。

同じく駐車場脇に、江戸時代前期の俳諧師で 蕉門十哲の一人『向井去来』の句碑。【秋風や  鬼とりひしぐ  吉備の山】

吉備津神社に縁のある境内社・末社。かって縁のあった寺院。吉備津神社に参拝しなければ出会えなかった銅像、記念碑、文学碑等々・・明日はもう一つの一宮「吉備津彦神社」の紹介です。

参拝日:2007年9月22日&2011年8月16日&2015年4月27日


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