周南市安田、三丘徳修(みつおとくしゅう)公園の一画に建つ「徳修館(とくしゅうかん)」。
徳修館(とくしゅうかん)は、三丘領主宍戸氏(毛利一門筆頭)第8代宍戸就年(ししど なりとし)が、士民教育振興のため文化6年(1809年)10月に郷校として創立したものです。その後、弘化3年(1846)4月、第10代宍戸元礼(もとよし)のとき、萩の明倫館に模して本堂(聖廟)が新築されました。この聖廟が現在残っている徳修館です。
2009年に山東省から贈られた「孔子像」
建物前の案内によれば「創立当初の徳修館は、中央に聖廟、左に講堂、右に習礼場(道場)など、その建物は大小10棟を数え、別に槍術場、乗馬調教練兵場などがあり、総敷地面積は1町5反歩(15,000㎡)におよんだといいます。また、維新前には、生徒数402名(内寄宿生48名)、教員数30名の記録があり、その盛況ぶりがうかがえます。しかし、維新の大改革により徳修館も閉鎖される運命となり、明治3年(1870)10月1日、領主、家臣、生徒一同が徳修館に集い、解散の式が挙げられ、その役目を終えました。」
「贈従四位宍戸親基(ししど ちかもと)公碑」市指定有形文化財
「禁門の変では藩内の鎮静に努め、馬関戦争の講和使節として活躍し俗論の鎮撫に奔走。四境戦争では芸州口の指揮官として幕府軍を撃破。その後徳修館で後進の育成に尽力。大正四年(1915年)に従四位の官位を贈られた事を記念して旧臣達が建立」と言った趣旨が案内に記されています。
公園内の一画に何やら小難しそうな😓「島田川中流域遺跡群と高地性集落研究」。ざっくり抜き出すと「高地からは比高差がある山や丘陵の上で、弥生時代を中心に営まれた集落を高地性集落と言います。昭和20年代に天王遺跡・岡山遺蹟を始めとする島田川中流域遺跡群の調査を~略~昭和60年代の山陽自動車道建設に伴って山口県教育委員会によりこれらの遺跡の発掘調査が行われました。それによって~弥生中期から後期にかけて営まれた集落跡~」
徳修館の裏手に「弁慶穴古墳」の案内があり「元は熊毛北高校にありましたが山陽自動車道建設に伴い昭和62年に発掘調査し、その後この公園内に移築復元しました。石室は片袖の横穴式、石材は付近の花崗岩を使用。排水溝は側室を立てた部分と、素掘りの部分からつくられています~略」
大型の横穴式石室で全長約7m。石室の玄室と外部を結ぶトンネル状の部分にあたる羨道(えんどう)は、ほぼ上部が失なわれており、羨道床面には排水溝が設けられています。
玄室部の様子。下部には大型石材、上部の石材は小型。移築の証拠に石材に番号がふられており、まるでプラモデルかジグソーパズルみたい😅 しかも間違えないように、左は四角 右は三角 奥は丸と分けてあるし。
敷地の一画に見かけた句碑【 ふるさとに おちつく日ざし 返り花 早々子】
紅葉に染まる三丘の山
ゆったりと流れてゆく時間、広い公園内には私たち以外に人の姿はなく、久しぶりにのんびりと寛いだ訪問でした。
訪問日:2015年11月16日
「領主、家臣、生徒一同が徳修館に集い、解散の式が挙げられ、その役目を終えました。」
こういうところは、日本ならではの光景ですね。
領主宍戸氏のことも初めて知りましたが、立派な人物ですね。徳修感を作り、人材を育成しました。宍戸氏だけでなく、足利学校を作った足利氏や、全国各地に残る藩校を想いますと、教育に力を入れたご先祖の姿が偲ばれます。
古墳までも移築し、過去を大切にした山口県人についても、敬意の念と共に読ませて頂きました。
公碑の前に立つ人物は藩校に学んだ武士の子孫でしょうか、風格があります。
tibineko先生と武士のご子孫に、味わい深い句と共に有意義なことを教えて頂きました。有難うございます。
二人とも言葉少なく、神妙な気持ちになりました。
日本の各地には地域の数(藩の数)だけ
こうした施設が残されているのだろうと思います
それが単に碑だけなのか、
建物と共になのかは別にして・・
このような場所に立たせて頂くとき、
過去を大切にすることで、現在を大切に。
そして未来をより良いものにという気持ちが伝わってくるようで気持ちが引き締まります。
いつも励みになるコメント、有難うございます🙏