下関市みもすそ川町、みもすそ公園のスタートは、関門海峡を背にたつ「馬関開港百年記念碑」。碑文要約「文久3年(1863)以来、長州藩は沿岸一帯に砲台を築き、外国艦船に砲撃を加えた。翌年17隻の艦船からなる四国連合艦隊が下関一帯を砲撃。「止戦講和」が結ばれ海峡通行の安全、馬関港出入の自由を約束。往時より一世紀、昭和40年にゆかりの地に記念碑を建立。」
さて、下関と言えば壇之浦、壇之浦と言えば平家滅亡・・三題噺のようですが、次の碑は「壇の浦古戦場址の碑」。寿永4年(1185)3月24日、平知盛を大将にした平家と、源義経ひきいる源氏がこの壇之浦を舞台に合戦をしました。合戦の地は「早鞆の瀬戸」とも言われ、関門海峡の幅が最も狭く潮の流れが激しい場所です。古戦場跡の碑には、赤間神社所蔵の安徳天皇縁起絵図第7巻(壇の浦合戦)と、第8巻(安徳天皇御入水)が描かれています。
「安徳天皇御入水之処」。平家の敗北を覚悟した二位の尼は、わずか八歳の安徳天皇を抱き壇之浦にて入水。【 今ぞ知る みもすそ川の御ながれ 波の下にも みやこありとは 】この辞世の歌から「みもすそ川」という地名が生じたとか。
かってこの地には「御裳(みもすそ)川」という小川があり壇ノ浦に注いでいました。「御裳川碑」と、往時を偲ばせる赤い欄干の「御裳川橋」。
源平合戦と言えば『源義経』の八艘跳び。己の非力を誰よりも承知していた義経は、敵将から身をかわす為に、船から船へひらり、ひらりと飛び移ったと言われています。
平家の優勢で始まった壇ノ浦の戦いは、潮の流れが西向きに変わり始めると共に源氏が勢いを盛り返し、平家は追い詰められていきます。最期を覚悟した平知盛が、その旨を一門に伝えると、二位の尼は安徳天皇を抱いて入水。知盛も後を追って大錨を担いで海峡に身を投じ、こうして平家一門は滅亡しました。
この戦いにおいて、義経は平教経の攻撃を船から船へと飛び移ってかわし、いわゆる「八艘飛び」を見せたといわれています。
時代が違えばこれほどの好敵手に巡り合うことも無かった二人・・その義経もまた兄:頼朝に疎まれ、奥州平泉で壮絶な最期を遂げます。
壇之浦古戦場を目の前に臨むロケーションのもと、壇之浦合戦の様子をリアルに分かりやすく語る「歴史体感紙芝居」が上演されます。私たちが見かけた時は休憩中だったのか、それとも観客待ちだったのか、いずれにしても名調子を聞く事は出来ませんでした。
時代は下がって風雲急を告げる激動の幕末。長州藩は攘夷戦争に備え、彦島から長府に至る沿岸の各所に砲台を築きました。
「壇ノ浦砲台跡」には、フランス政府了承の下、ロータリークラブから寄贈された「長州砲(八十斤加農砲)」のレプリカが、雁首揃えて馬関(下関)の海を見つめています。
また東屋の中には「天保製長州砲」が大切に保存展示されています。
長州砲はフランスが下関戦争の戦利品として持ち帰っていたもので、貸与という形で返還してもらったそうです。画像では見えませんが砲身部分には菊花:雲龍が美しく刻まれています。
本物にしかない迫力は流石・・・。
訪問日:2012年11月15日&2017年12月3日
色んなものが見られて
楽しそうですね!!
「壇ノ浦砲台跡」
これは見たいわぁ~
北海道から本州の最西端・・・
さすがに遠いですね
本物の砲台は流石に迫力ありますよ