きらく堂日記

鍼灸師の喜楽堂が日々の出来事、過去の思い出、趣味にまつわる話などを綴った日記帳(=雑記帳)です

思い出探し(40)・めぐりあい

2010年10月08日 | 思い出探し
 少し前にもどるが、私が腰椎カリエスで国立西多賀療養所のベッドスクールに入院していた昭和38年の冬だったと記憶しているが、その日宮城県立第一女子高等学校(一女高)合唱部のみなさんの慰問を受けた。

 東北学院大学グリークラブも一緒だったと思うが、ときどきこんな慰問があり、仙台でプロレスの興行があったりすると外人プロレスラー達が慰問に来たり、向いの病棟の壁をスクリーンにして映画会が開かれたり、寝たままバスに乗っての七夕見物があったり、時には東北放送の公開生中継(確か、「昼のリクエスト」とかなんとかいう番組だったと思う)があったりと、年間を通して様々な行事があり、病室で寝たきりの子供たちの慰めになっていた。

 さて、一女高合唱部の演奏はとてもすばらしかったのだが、一生懸命に歌うかわいいお姉さん達の中に、ちょっと周りから浮いた感じで大人びて、綺麗な生徒がいて、恥ずかしながら私の目は演奏の間中ずうっとその生徒にくぎづけになっていたのでした。

 翌年の夏に退院、もとの気仙沼中学3年生に復帰、受験勉強、仙台一高入学なとと忙しい日々が続いて、そんなことがあった事も忘れていたのだが、一高合唱部に所属して毎年定例の一女高との合同演奏会に向けて混声合唱の練習が始ってすぐに、な、な、な、なんと・・・メンバーの中にあの時の美少女を発見したのでした。

 その時、彼女は3年生で、いかにも最上級生という貫禄で、ますます大人びて、思えば病院で見たときは1年生だったのですが、すっかり忘れていたし、勿論当時はもっと年上と思っていたので、とても驚きましたが、中学2年生の眼に映る高校1年生といったら、すごいお姉さんに見えるのも当然だったかも知れません。

 一年生の新入部員には目を向ける事もないし、まして病院慰問のときの患者の中に私がいたことなど知らないだろうし、こちらからそんなことで話しかけることもできないままに、合同演奏会が終わり、彼女は卒業してしまいました。

 ときどき当時を振り返って、なんで声を掛けられなかったのかなあ・・・と、この歳になっても残念に思われるのですが、 一方で、実は当時の一女高合唱部の1年生、つまり私と同学年にはかわいい子が多くて、私の関心はすでにそちらの方にあったといった方が良いのかも知れません・・・と強がりを言ってみたりして。

思い出探し(39)・合唱は楽し!!

2010年10月08日 | 思い出探し
一高一女合同演奏会の記念写真、昭和42年。


高校に入った私は、前年入学していた気仙沼中学校体操部の先輩から、体操部に入るように誘われた。

腰椎カリエスで退院してから1年も経っていない身体では運動はとても無理で、体力的に不安があったため、「マネジャーでも良いから是非入部してくれ」という誘いを涙を呑んでお断りした。

小学校でコーラス部にいたこともあり、音楽が好きだったので、男声合唱なら部活ができるかもしれないと入部した。

楽かなと思っていた合唱部ではあるが、全国合唱コンクールや一高一女合同演奏会、吹奏楽部と合同の定期演奏会、仙塩(仙台市と塩釜市)地区高校合同演奏会などの年中行事が沢山あって、練習は思っていた以上にハードであった。

私の音域はもともとバリトンなのだが、ベースができる生徒が少ないため最初からベースを受け持たされてしまった。

必死で低音域で声を出していたおかげで、当時はやった所謂「低音の魅力」といわれる声になってしまったが、残念ながら青年期以降は小田和正のようなハイトーンの声が人気となってしまい、今の歌謡曲も全体的にキーが上がってしまっていて、気持ちよく歌える曲が無くなってしまったのが残念である。

練習の合間には校庭でソフトボールをして遊んだり、厳しい中にも和気藹々の雰囲気をもった良いクラブだった。

他校の合唱部との交流も盛んだったが、特に宮城第一女子高等学校(一女高)合唱部との交流が盛んで、秋に行われる合同演奏会での混声合唱の練習のため夏休み中もお互いの学校の音楽室を訪問しあって練習を行った。

普段は「エテコウセイ」を自他共にゆるす、ムサクルシイ男子生徒ばかりの生活の中で、女子高生と学校公認で触れ合える貴重な場であるこの合同練習は楽しくて、この時ばかりは先輩たちも「ばんから学生」からにこにこ顔の紳士になってしまうのだった。

一女高合唱部とは年に1~2度「コンパ」を開いた。
いまの「合コン」などというものとは違って、仙台市の野草園の広い芝生の上で、鬼ごっこをしたり、歌を歌ったり、フォークダンスをしたりというもので・・・まさに「青い山脈」の世界だった。

昔のことでもあり、外出は制服着用が当たり前だったが、初夏の日差しの中、緑の芝生の上で、はしゃぐ乙女達の、膝までの長さの紺のスカートがヒラヒラ翻るときや、白いブラウスの胸のふくらみがやたら眩しく感じられる、そんな年頃だった。

昭和40年代初頭のことである。

<鍼灸マッサージサロン・セラピット>

思い出探し(38)・下宿屋

2010年10月08日 | 思い出探し
昭和40年代初頭の高校生の(ちょっとお洒落をした時の)一般的スタイル。
学生帽、学生服にトレンチコート。季節は秋。前列が私。


昭和40年4月から気仙沼の両親と別れて仙台での下宿生活が始った。

両親がどのようにして探したのか分からないが、一高のすぐ側に下宿屋を見つけてきて、あまりに近すぎてこれでは学校と下宿屋との往復だけの毎日になってしまうと、口には出せなかったが少し気に入らなかった。

取りあえずという気持ちでここに落ち着いたのだが、結局卒業までの3年間をここで暮らすことになった。

下宿屋とはいっても、本業は化粧品と手芸用品の店で、子供が生まれたばかりの若夫婦がお店を切り盛りし、実質的な一家のリーダーであるおばあさんが手芸教室の先生、晩酌でウイスキーを舐めるのが大好きなおじいさんは奥の部屋で編み機を使って商品のニットをいつも編んでいた。

下宿人は私とお店で働いている小太りのお姉さんの2人きりだった。
3畳1間で朝夜食付きで下宿代は確か9,500円だったと思う。特別奨学生として8,000円の奨学金を受けていたので、親からの仕送りは15,000円ほどだっただろうか。

当時のサラリーマンにとっては大金であり、おまけに翌年には兄も仙台の大学に入ったため、子供2人分の学費と生活費の仕送りは大変だったと思う。子供の教育に熱心だった親にはいくら感謝しても感謝しきれない。

3畳の部屋は大家さんの家の裏に建てられたバラック建ての家(小屋?)で、外便所、外風呂、で不便ではあったが、大家さん一家と普段顔を合わすことが少ないのがかえって気に入っていた。
ただし、トイレの臭いと、エアコンも無い時代での夏の暑さには閉口させられたものだ。

「窓に腰掛、あの人は、暮れてゆく空見つめつつ、白い横顔くもらせて、今日は別れに来たという・・・」、「しけたタバコを回しのみ、欠けた茶碗で酒を飲み、金は無いのに楽しくて、いつも誰かに惚れていた・・・」と森田公一が歌った下宿屋の生活は、あくまで大学生のそれで、高校生の下宿生活は至って謹厳実直で、加えて校訓の「自重以って己を律し、献身以って公に奉ず」を座右の銘とする当時の私は、思ったとおりに下宿屋と学校を往復する毎日となり、一番町や国分町など繁華街にもほとんど出ることが無かった・・・と言ってしまうと嘘になるので、まあ、ほとんど行くことが無かったとしておこう。

勉強とクラブ活動で忙しく毎日を暮らしているうちに、季節はどんどん巡って、高校3年間は駆け足で過ぎていったのだった。