きらく堂日記

鍼灸師の喜楽堂が日々の出来事、過去の思い出、趣味にまつわる話などを綴った日記帳(=雑記帳)です

思い出探し(41)私の事件簿

2010年10月09日 | 思い出探し
最近、世界のあちこちで大災害(人災もあるが)が起きていて、アイスランドでは火山も噴火して、天候も不順で、こないだまで温暖化を問題にしていたのに、火山に絡んで寒冷化、飢饉、氷河期の到来なども言われて、日本も猛暑・酷暑が続いたり、なにがなんだか分からない状況になっています。
日本でもあちこちでちょこちょこと大雨、土砂崩れ、地震などが起きていて何か気になります。

 地震、雷、火事、おやじといいますが、私もやっぱり地震が怖くて、一番恐ろしかったのは仙台市の西多賀ベッドスクールのベッドに寝たきりの状況で経験した新潟地震だが、チリ地震による津波も50年前の小学生の時に被災地の気仙沼で経験している。
一生のうちに2度の大地震に見舞われたチリの人たちには心よりお悔やみ申し上げます。

さて、今回あらためてこれまで私の身の回りで起きた、あるいは関係があって記憶に強く残っている災害や事故について整理してみました。
昨年還暦を迎えた歳にもなると、結構いろいろなことがあったんだな~というのが実感です。

1954年9月26日(私5歳);台風15号による青函連絡船「洞爺丸」の海難事故

秋田市の親戚の家でこの台風を経験しました。
1954年9月26日22時43分、青森と函館を結ぶ青函連絡船・洞爺丸(3800トン)が台風によって沈没し、1200名ほどの乗客・乗員が亡くなりました。

 当時私は5歳で、仙台に住んでいましたが、当日は脳卒中で倒れた祖父の見舞いのため母と兄(7歳)の3人で秋田市新屋(祖父は王子製紙の社員で当時は新屋の社宅に住んでいました)に行っていました。
当日は台風15号が四国から関西を横断して日本海に抜け、北海道へ向かっていました。
秋田市も夕方から夜半にかけてものすごい嵐となり、風がふくたびに雨戸が内側に反り返ってくるのを皆で必死になって押し戻したり、停電の暗闇のなかで瓦が飛んできて外壁にドンドンぶつかってきたりで、けして頑丈な造りとはいえない2階建ての家が吹き飛ばされて、死んでしまうのではないかと真に思ったものでした。翌日は台風一過の快晴で、道には飛ばされてきた雨戸や瓦やもろもろの残骸が散乱しており、そんな中で「生きてて良かった」という感じで、いとこ達と楽しく遊んだのを覚えています。
5歳だった私が今でも当日のことを鮮明に覚えているのは、この台風の恐ろしさのためで、大分後になって、この台風15号で洞爺丸が沈んだのだということを知りました。怖がりとは思えない私が、台風、特にゴー、ビューといった風音に結構神経質になるのは、その経験がトラウマとなっているからかもしれません。この時洞爺丸以外にも北見丸(70名死亡)、日高丸(56名死亡)、十勝丸(57名死亡)の3隻の貨物船が沈没しています。

1960年5月23日(私11歳);三陸海岸を襲ったチリ地震津波

 宮城県気仙沼市に住んでいてこの津波を経験しました。当日は小学校も休みになり、一日中港の近くの高台から、津波を見物していました。ゴロゴロという海鳴りが不気味でした。自転車であちこち走り回って、翌日海水のため自転車が真っ赤に錆びていて父親に怒られたのを覚えています。

1964年6月16日(私15歳);新潟地震

 宮城県仙台市の国立療養所「西多賀ベッドスクール」に入院して腰椎カリエスの治療を受けていました。寝たきりの状態で震度5を経験しました。ベッドも移動するぼどの激しい揺れで、起きて逃げるわけにもいかず、とても恐ろしかった記憶があります。このときは新潟で起きた地震だとは思われないほど、仙台でも強い揺れを感じました。

1981年10月13日(私32歳);米軍小柴貯油施設の燃料タンク爆発炎上事故

 横須賀市追浜の日産自動車電子研究所に勤務していて、この事故を目撃しました。丁度昼休みに入って、社員食堂に行く途中、ドーンという音がし、食堂の建物のガラス窓が一斉にガチャガチャ音を立てました。向いの岡の裏からすごい炎と真っ黒な煙が、天高く上がりものすごかったのですが、まさかこんな近くに(横浜市金沢区)米軍の燃料貯蔵タンクがあるなんてまったく思っていませんでした。

1988年7月23日(私39歳);潜水艦「なだしお」と釣り船「第一富士丸」の衝突事故

 TVニュースで事故を知り、勤務中でしたが、すぐに勤務していた日産自動車中央研究所の屋上にあがり事故後の状況を目撃しました。遠くに鯨みたいな潜水艦が浮かんでおり、周りに多くの船がうかんでいました。横須賀港北防波堤灯台の3キロのところでの衝突事故で、30名の方が亡くなりました。

1995年1月17日(私46歳);阪神淡路大震災

 当時、日産自動車は日本テレコムとのベンチャーで携帯電話ビジネスを展開しており(ツーカー・デジタルツーカー→現ソフトバンク)、私も研究所から日産本社の支援部隊に転籍したばかりでした。関西は大阪にあるツーカーホン関西のサービスエリアで、当日は社員の安否確認と通信網の被害確認で大変でした。

1995年2月28日(私46歳);オウム真理教・地下鉄サリン事件

 当日は、いつもの通勤と同じで、地下鉄浅草線の東銀座駅で下車してホームに出たときから大騒動で、地上に出ると、沢山のパトカーや救急車が走り回り、空にはヘリコプターが旋回していて、なんなんだ!とびっくりしました。この事件では日産の社員も多く被害を受けました。

これ以降、幸いなことに10年以上、身の回りに大きな災害・事件は起きていません。
これから起きるとすれば、地震でしょうが・・・、あと何回かは、何か経験するでしょうね。

<鍼灸マッサージサロン・セラピット>