天心宅跡からさらに南下すると、東側に開けた広場が現れた。
まだ造成した間近のようで、枯れた芝生が根付いていない。
この広場の奥にパトロールの区の公用車(一見パトカーのよう)
が駐車していた。まだ9時前である。怪しいオッさんが町内を
ウロウロしているのだから、私はマークされたようだ。やまし
いことは一切無いので、根津方面に向けて歩き出した。
すると、まだ新しいプチ公園が目についた。その中に、地蔵
さんを祀った小さな祠がある。これが、「三四真地蔵尊」。
太平洋戦争末期の昭和20年3月4日、午前8時40分頃、小雪が
舞う谷中地区は、アメリカの戦闘爆撃機・B29の空襲放火を受
け、死傷者500名、全半壊家屋200戸の被害を受けた。
その悲惨な戦争が終わり、昭和23年、当時の三崎町、初音
4丁目、真島町の有志により、戦災死者の霊を供養するため、
この地蔵尊が建立されている。そんな悲しい物語を背負ってい
るお地蔵さんだ。
ところで「三四真」“み・し・ま”とは、先ほどの3つの町
名から、それぞれ一字ずつ取られてつけられた名前である。
(台東区谷中3丁目7番地1番)
まだ造成した間近のようで、枯れた芝生が根付いていない。
この広場の奥にパトロールの区の公用車(一見パトカーのよう)
が駐車していた。まだ9時前である。怪しいオッさんが町内を
ウロウロしているのだから、私はマークされたようだ。やまし
いことは一切無いので、根津方面に向けて歩き出した。
すると、まだ新しいプチ公園が目についた。その中に、地蔵
さんを祀った小さな祠がある。これが、「三四真地蔵尊」。
太平洋戦争末期の昭和20年3月4日、午前8時40分頃、小雪が
舞う谷中地区は、アメリカの戦闘爆撃機・B29の空襲放火を受
け、死傷者500名、全半壊家屋200戸の被害を受けた。
その悲惨な戦争が終わり、昭和23年、当時の三崎町、初音
4丁目、真島町の有志により、戦災死者の霊を供養するため、
この地蔵尊が建立されている。そんな悲しい物語を背負ってい
るお地蔵さんだ。
ところで「三四真」“み・し・ま”とは、先ほどの3つの町
名から、それぞれ一字ずつ取られてつけられた名前である。
(台東区谷中3丁目7番地1番)