tetsudaブログ「どっぷり!奈良漬」

コロナも落ちつき、これからが観光シーズン、ぜひ奈良に足をお運びください!

テレワーク導入のためのセミナー、ツール体験や相談会、ミグランス(橿原市役所分庁舎)で10月25日(火)開催!(2022 Topic)

2022年10月19日 | お知らせ
「奈良県の中小企業のためのツール体験&納得フェア」が10月25日(火)、ミグランス(橿原市役所分庁舎:橿原市内膳町1丁目1番60号)コンベンションルームで開催される。会場へのリアル参加のほか、オンライン参加(動画視聴)もできる。参加費は無料だ。県雇用政策課(産業・観光・雇用振興部)の「報道発表資料」によると、

中小企業のためのツール体験フェアの開催
~テレワークで人材確保と生産性向上を~

奈良県では、県内中小企業を対象に、リモートワークを含むICTを活用した新しい働き方を推進できるよう、WEBツール体験フェアを開催し、業務効率化によるコスト削減、職場環境改善による従業員満足度の向上、生産性向上につなげます。奈良県内におつとめの方は、どなたでもご参加いただけます。

◆開催タイムテーブル
開催当日は、以下の90分のプログラムを4回実施します。
10時から11時30分/12時から13時30分/13時30分から15時/15時30分から17時
◆開催プログラム
挨拶・オリエンテーション(5分)/テレワーク導入セミナー(30分)/講演者との質疑応答(10分)/WEBツール実機体験・相談会(45分)
◆開催日 2022年10月25日(火曜日)
◆申込期限  10月24日(月曜日)15時(オンライン参加は当日申し込み可)
◆開催場所 ミグランス 橿原市役所分庁舎 コンベンションルーム


申込期限は、当初の10月21日から24日に延長されているので、ご注意を。詳しい情報は、同フェアの公式HPに出ていて、ここから申し込みもできる。チラシ(PDF)は、こちら。ぜひ、この機会にお申し込みください!



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田中利典師の『修験道という生き方』新潮選書(3)/父から子へ、修験者への道

2022年10月18日 | 田中利典師曰く
金峯山寺長臈(ちょうろう)田中利典師は、ご自身のFacebookに、新潮選書『修験道という生き方』(宮城泰年氏・ 内山節氏との共著)のうち、利典師の発言部分をご自身で加筆修正されたものを〈シリーズ『修験道という生き方』〉のタイトルで掲載されている。心に響くとてもいい文章なので、私はこれを追っかけて拙ブログで紹介している。
※トップ写真は、般若寺(奈良市般若寺町)のコスモス(2022.10.5 撮影)

第3回の今回のタイトルは「拝み屋の子ども」。拝み屋とは祈祷師のこと。利典師は、他のところで「拝み屋の子と呼ばれるのは嫌だった」と書いておられた。修験道とか修験者のことは、あまり理解されていなかったのだろう。

私の愛読書である司馬遼太郎著『城塞』に、こんなくだりがある。同書の狂言回しである小幡勘兵衛(おばたかんべえ)を紹介する場面だ。勘兵衛は〈齢のころは36、7であろう。赤土色の皮膚に毛穴があらく、鼻ばなふとく両眼大きく、まばたきするごとにぎょとぎょと鳴るかとおもわれるほどまぶたが厚く、みるからに異相であった〉という風貌である。

大坂城で淀殿が初めて勘兵衛と対峙する場面。〈(なるほど)相当な面魂である。この城内の侍どものなかで、これだけの顔をぶらさげた者はいない。あちこちの石組のかげからのぞきこんでいる侍女たちが口々に勝手な声をあげた。よい男、という者もあれば、金峰山寺の修験者のような、という者もいる〉と表現されていた。前置きが長くなった。利典師のFacebook(10/6付)から全文を抜粋する。

シリーズ『修験道という生き方』③「拝み屋の子ども」
私は山伏だった父に連れて行かれて、五歳のときに初めて大峯山上(山上ヶ岳)に登りました。なぜ五歳のときに山上ヶ岳に登ったかというと、二歳のときにひどい肺炎になり、お医者さんから「もうこの子はあかん」と言われたそうです。親父はもともと国鉄の職員だったのですが、その頃は辞めて、祈祷師専職になっていました。

当時、祈祷師は「拝み屋」ともいわれていました。私が死にかけたとき、母が父に言った言葉が振るってました。「あんた、拝み屋のくせして、他人の祈祷をするのに、自分の子どもの命を救えんのか」と。ひどいことを言ったもんですよねえ。

そこで、父は一念発起、大峯山山上のご本尊蔵王権現様と役行者さまに願をかけて、「この子が五歳になったら必ず連れて登るから、どうかこの子の命を救ってくれ」と拝んだそうです。その力をいただいたのか、医者も驚くほど、奇跡的に回復をしました。そういう宿縁があって、私は五歳になったとき山上に連れていかれます。

正直いうと、私は今でも山行はそんなに好きではない。宮城猊下のようにチベットやヒマラヤのような、よその国の山にまで行くような気持ちは毛頭ありませんし、日本の山でも滅多に行かない。ただ、修行だから、大峯奥駈修行を中心に石鎚山や富士山など、縁があったところは、いわば、しょうがないから行っているような、そんなへなちょこな山伏なんですよね。

ただ、五十五歳を過ぎても未だに奥駈に行ったりしてたわけで、考えてみると、やっぱり深い縁があったのでしょう。大峯山との縁というか、役行者様との仏縁というか。

父は大正五年に京都府下の綾部という、片田舎の寒村の次男坊として生まれました。実家は普通の家だったのですが、国鉄に入ったこともあって全国いろんなところを巡った。当時は国鉄職員は汽車にただで乗れたらしく、人助けが好きだったようで、全国を回りながら人助けをやっているいろんな先生を尋ねて学んだそうです。

そのとき、一番ご縁があったのが、家からそう遠くないところにあった金峯山寺末の行者さんでした。父はその行者さんとの縁で弟子になり、自分でもいろいろ勉強した。

そうやって勉強していたとき、数に神が宿るという考え方を応用した占術でもあり、除霊術でもある数霊学に出会った。数霊学というのは気学(日本で生まれたともいわれる占術。方位などから吉凶を占い厄除をすることが多い)の一種なのですが、父の中で、数霊学と山伏の道が一本になっていきました。

そして、だんだんと人助けの道一本でやっていこうという気持ちになっていったようですが、祈祷師ってそう簡単にご飯が食べられるわけでもない。そんなときに、師匠から、自分がやっている金峯山寺末の教会の跡を継いでくれと言われ、師僧が亡くなって、その跡を継ぐことになります。その時に国鉄を辞めたようです。

その後、二十五年くらいたったとき、師匠の息子がサラリーマンを定年退職して、実家の教会に戻ってきたので、預かっていた教会は息子に返して、父は自分の生家を取り壊し、信者さんの助けも借りて、新しい寺を建立することになりました。父が五十五歳の頃です。

その新寺建立は、ちょうど私が高校に進学する頃だったのですが、父から「天台宗立の比叡山高校に進み、宗内生制度の寮に入れ」と言われた。私自身は山伏になろうとかお坊さんになろうとか全く思っていなかったわけですが、親の言うことをよく聞く子どもでしたから、素直に比叡山高校に進学しました。

その私の進学がきっかけで、父の信者さんや地元の人たちが、跡継ぎもいるんだから、本格的な寺をつくろうという話になったらしいのです。で、気がつくと、すでに私自身の身も抜き差しならないことになっていた(笑)。

比叡山高校の宗内生制度(通常の授業に追加して天台宗の教義などを学ぶ生徒)は、得度受戒を終えて僧籍を取得していないと入れてもらえません。そこで、慌てて、中学三年生の卒業直前の三月に得度を受けて、金峯山寺僧籍の宗内生として入学させてもらった。

そこからは、気づくと、もう坊さんになる以外ないような道筋で……。 高校を出ると、一年間本山の金峯山寺で、管長様のそばでの随身生活(神仏にしたがう行)をして、その後、京都の龍谷大学で四年、そして叡山学院に二年間、仏教や天台学を勉強させてもらって帰ってきました。

その帰ってきた寺が、天台宗とか、禅宗の寺とか浄土真宗の寺であれば、山伏にはなっていなかったと思うのですけれど、帰るべき寺が私にとっては山伏の寺だった。それで、山を本格的に歩いてないのに山伏とは言わへんやろ!…ということで、山での修行をすることになったわけです。もちろん五歳で連れていかれた大峯には毎年、父に連れられて登ってはいましたが。

山の修行は、虫やダニやヒルはいるし、汗まみれで汚いし、なによりめちゃめちゃ歩かされて本当にしんどい。そんな山行はあまり好きではないのですけれど、それでも何度も何度も山に行くようになり、だんだんと日本人の信仰のあり方がわかってきたような気がしました。

大学で学ぶ仏教は、仏教原理とでもいうべきもの。いわばお釈迦さんの考え方はこうであった、四諦八正道十二因縁はこういう教義である、みたいなことは教わるのですが、日本人が仏教とともにどう生きてきたのかはほとんどお教えてもらえない。

ですから、普通のお寺の息子たちも、大学で学んだお釈迦さんの教えと、実際、自分のお寺に帰って活動することとの食い違いに、真面目な人ほど悩むことになります。たとえば、お葬式でも法事でも、お釈迦さん自身はおやりになっていないし、葬式仏教などは教えておられません。なので、みんななにかジレンマをかかえながら、お坊さんをしているようなことに陥りやすい。

私はその点、檀家のない、信者寺、祈祷寺、山伏の寺ですから、山の修行には強制的にでも行かなければいけないとはいえ、その山修行を通じて、日本人が何を大事にしながら生きてきたのかがだんだんわかるようになってきた。庶民の信仰心に触れる、神と仏を大事にする、そういう基層の部分がストンと心に落ちてきた。

さらにいえば神や仏と自分をつなぐ行を大事にする心構えみたいなことですね。いまでも、宮城猊下のように、山は行くだけで気持ちがいい、なんて境地はないのですが、いつの間にか自分は山伏ですと言えるようにしていただいた。思えば、五歳のときに父の願掛けで山上ヶ岳に連れて行かれてから、もう半世紀をはるかに過ぎています。

自坊の林南院は京都府北部・丹波地域にあるのですが、もともとこの辺一帯は山上信仰、大峯信仰の厚いところなんです。村落共同体のなかに大峯信仰があって、みんなで大峯をめざして行く習慣が育まれていた。「男に生まれたら一度は大峯参りをしてこないと男になれない」って習俗みたいなものもまだ私の子どもの頃は残っていました。

そんな地域で暮らしていた親父がより積極的に大峯と関わっていくようになり、その歴史が私も、そして九歳年下の弟もつながっていった。うちの弟は金峯山寺の管長に就任する前に、すでに大峯山寺の護持院・東南院の住職もしていましてね。役行者と綾部が結ばれて、綾部と父が結ばれて、私も弟も結ばれたことになります。ものすごい縁なのです。

ただ、子どもの頃はそういう父の活動は嫌でしたよ。確かに一方に大峯信仰の世界が綾部にはあったのですが、その一方で父の活動は近所の人たちからは「拝み屋」としかみられず、私は「拝み屋の子」とも言われていました。

同級生に禅宗の寺の娘がいたのですけれども、私が比叡山高校に進むときにも「拝み屋の学校ってあるのか」と言われた。普通の仏教教団の人たちにとっては、修験はその程度の認識だったんです。テレビに出たり本を出したりして、いまはずいぶん変わりましたけれども(笑)。

************

哲学者内山節先生、聖護院門跡宮城泰年猊下と、私との共著『修験道という生き方』(新潮選書)は3年前に上梓されました。ご好評いただいている?著作振り返りシリーズは、今回、本書で私がお話ししている、その一節の文章をもとに、加筆訂正して掲載しています。
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3年ぶりの御所まち「霜月祭(そうげつさい)」、11月13日(日)開催!(2022 Topic)

2022年10月17日 | 奈良にこだわる
会社の先輩で御所市にお住まいの藤井謙昌(よしまさ)さんから、「3年ぶりに霜月祭が11月13日に開催されます。是非おいでください」との連絡をいただいた。昨年と一昨年は、開催されなかったのだ。昨年は柴燈(さいとう)大護摩大祭だけが単独開催され、これは見ものだった。3年ぶりなら、今年は霜月祭に行かなければ! Facebook「御所ガール」に情報が出ていた。

江戸時代初期に形成された陣屋町「御所まち」一帯で繰り広げられる「霜月祭」が11/13(日)に開催されます。歴史ある町家の特別公開や各家所蔵する歴史資料などが展示される「町家ミュージアム」、地元の人たちの個性あふれる趣味・芸術作品が披露される「町かどギャラリー」、町家カフェ・町家茶屋、演芸ライヴ、縁日、スタンプラリーなどに加え、今回は新しい趣向もアレコレと!

また、吉祥草寺(御所市茅原)では柴燈大護摩供が営まれます(近鉄御所駅から同寺に向かう山伏のお練りは中止)。御所まちをゆっくり散策しながら伝統的な建物が並ぶ風情といっしょに楽しみましょう。
※来場に際してはエチケット・マナー遵守のご協力をお願いします!
御所まち霜月祭 10:00~各催事(御所まち一帯)
問合せ先 霜月祭実行委員会(電話0745-65-1201)


「山伏お練り」がないのは残念だが、吉祥草寺へ行けば柴燈大護摩供(柴燈大護摩大祭)が見られるので、まあ良いだろう。皆さんも、11月13日(日)には、ぜひ御所まちと吉祥草寺へ!







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田原本の唐古・鍵遺跡で「流鏑馬(やぶさめ)まつり」、11月27日(日)開催!(2022 Topic)

2022年10月16日 | お知らせ
唐古・鍵遺跡 史跡公園(奈良県磯城郡田原本町唐古50-2)で11月27日(日)、「奈良田原本流鏑馬まつり」が開催される。2019年(令和元年)に初回が開催されて以来、コロナ禍で中断していたが、このたび3年ぶりに開催されることとなった。

主催は田原本町流鏑馬実行委員会(事務局=一般社団法人 田原本まちづくり観光振興機構)だ。イベントのニュースリリースは、こちらに出ている。

「なぜ田原本で流鏑馬?」と驚く人も多いだろうが、かつて田原本にいた武士団は、「春日若宮おん祭」に流鏑馬を奉納していたのだそうだ。それを小笠原流(弓馬術礼法小笠原教場)の助けを借りて復活する。

小笠原流とは、鎌倉時代から約800年の伝統を誇り、弓馬術礼法の道統を伝承する流派だ。初代の小笠原長清は弓馬術礼法師範として源頼朝に仕え、鎌倉時代の象徴である弓馬の道・故実に基づく武家儀式を制定し、武士達の指導にあたったという。

まさに「鎌倉殿の13人」を彷彿させる衣装をまとった武士団が、唐古・鍵遺跡史跡公園で流鏑馬を披露してくれるというのだから、これは見逃せない。当日のタイムスケジュールをイベントの公式HPから拾うと、

10:00 十六市ブース営業開始(飲食・物販・演奏会)※15:00終了予定
12:00 巡行開始(法貴寺の池神社→唐古・鍵遺跡史跡公園)
12:30 開会式
13:00 流鏑馬執行 ※14:30終了予定


田原本町流鏑馬実行委員会は、前日の設営や当日の運営をお手伝いいただけるボランティアを募集している。締め切り日(10/15)を過ぎているが、今も継続して募集しているとのことだ。公式HPには、

ボランティア募集
専用の参加申込書(PDF形式は、こちら。Word形式は、こちら)に必要事項をご記入の上、事務局に郵送、もしくはFAXしてください。また、記載いただいた申込用紙を添付し、メール(info@tawaramoton.com)で応募いただくことも可能です。
募集人数
2022年11月26日(土)9:00~15:00 予定数 約15名(設営補助)
2022年11月27日(日)8:00~16:00 予定数 約80名(設営・運営補助・清掃など)


巡行ルートや駐車場などの情報も、公式HPに出ている。なお現在、田原本町流鏑馬実行委員会はクラウドファンディングでイベントの開催資金を募っている。

11月27日(日)には、ぜひ田原本町をお訪ねください!あわせてクラウドファンディングにもご協力を!

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田中利典師の『修験道という生き方』新潮選書(2)/光に包まれて、最期を迎えたい

2022年10月15日 | 田中利典師曰く
金峯山寺長臈(ちょうろう)田中利典師は、ご自身のFacebookに、新潮選書『修験道という生き方』(宮城泰年氏・ 内山節氏との共著)のうち、利典師の発言部分をご自身で加筆修正されたものを〈シリーズ『修験道という生き方』〉のタイトルで掲載されている。心に響くとてもいい文章なので、私はこれを追っかけて拙ブログで紹介している。
※トップ写真は明日香村稲渕のススキ(2022.9.25 撮影)

第2回の今回のタイトルは「光に包まれて…」。師は大峯奥駈修行のとき、光が上から降りてきて、光に包まれるというイメージを体験をされた。そこで「死ぬときっていうのは、こういうものなんやな」と感じられたという。なるほど、私も光に包まれて最期を迎えたいものだ。そのためには、もっと善行を積まなければ…。では師のFacebook(10/4付)から、全文を紹介する。

シリーズ『修験道という生き方』②「光に包まれて…」
私が死を怖れなくなったのは、やはり大峯の奥駈修行のときにきっかけがありました。奥駈峯中での勤行中に、光に包まれていくイメージを体験しました。光が上から降りてくる感じですね。もしかすると、山で行中勤行をしているとき、けっこう多くの人が同じような経験をしているのではないかと思うのですが、何か非常に明るい光に包まれる感じをもつときがあるんですよね。

そのとき私は、「あっ、死ぬときっていうのは、こういうものなんやな」と感じた。また、自分が死ぬときは、光に包まれるようにしてそのときを迎えたいとも…。そういう死が迎えられるようにするためには、何をしなければいけないのか。この体験で、いっぱい宿題があるような気になりました。

奥駈修行でくたくたになって行じ、峯中で拝んでいて、なんかしらんけれど光がワーッと包んでくれている。そういうなかにいると、死ぬときはこういうふうに死にたいなという気持ちになったわけですが、それを言葉にすると、蔵王権現にお任せする、不動明王にお任せする、阿弥陀如来にお任せする、そういう風に言い換えれるかと思います。そういうことを教えてくれたのが、私の奥駈行の体験なのです。

それからは、光に包まれて死ねるような最後が迎えられる生き方をしておかなければいけない、と思うようになった。もっともいま死んだら、光やなくて、灰色の煙か何かにつかまりそうな気がしますけどね(笑)。

私の母が死んだときは、亡骸のそばで、ああ母は光に包まれて逝ったんだ、という感じ持ちました。私は子どもの頃、死ぬのがとても怖かった人なのです。宇宙のどこかから地球をみているイメージが、私の死へのイメージとしてあって怖かった。

それは、地球はずっと生きつづけているのに、死んだら自分だけ、その地球上の生活から疎外されているみたいな感じなのですが、奥駈での体験をして以来、死を考えてもそういうイメージは湧いてこなくなりました。格好良く言えば、死は終わりではないという感覚が少しずつ私のなかで生まれて来たようなのです…。

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哲学者内山節先生、聖護院門跡宮城泰年猊下と、私との共著『修験道という生き方』(新潮選書)は3年前に上梓されました。ご好評いただいている?著作振り返りシリーズは、今回、本書で私がお話ししている、その一節の文章をもとに、加筆訂正して掲載しています。
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