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田中利典師の「自分らしく生きる」

2023年06月26日 | 田中利典師曰く
今日の「田中利典師曰く」は、「あおによし奈良の青空の下で」(師のブログ 2012.4.28)。前回、師は少し道に迷っているようなことを書いておられた。その理由がここで明らかにされた。〈数ヶ月前、友人から「君はなんのために頑張っているのか」と聞かれてから、ずっと考え続けてきたことだった。私はなんのために生きているのか…という問いでもあった〉。
※トップ写真は、吉野山の桜(3/31撮影)

こないだはボブ・ディランの「風に吹かれて」が聞こえてきたが、今日は吉田拓郎の「ガンバラないけどいいでしょう」が聞こえてきた。「がんばらないけどいいでしょう/私なりって事でいいでしょう/がんばらなくてもいいでしょう/私なりのペースでもいいでしょう」と。では、師のブログ記事の全文を以下に紹介する。

あおによし奈良の青空の下で
今日からは街はゴールデンウィーク。人は日常を離れて、非日常の中で自分を取り戻すために旅に出るのだろう。昨日、抜けるような青空の下、南都薬師寺の玄奘三蔵院の前に佇(たたず)み、私はしばらく深い想いにふけっていた。

数ヶ月前、友人から「君はなんのために頑張っているのか」と聞かれてから、ずっと考え続けてきたことだった。私はなんのために生きているのか…という問いでもあった。

そんな中、20年前に上梓した処女随筆集を読み返し、そこにいた自分が一生懸命、なんのために生きているのかについて、ホントに正面から書き続けていた姿を久しぶりに思い出した。そしてその内容は、今の私から見ればとても恥ずかしいものがあった。一生懸命さ自体がとても恥ずかしいものに感じた。

でもあのときの自分が今の自分を繋げてくれている。あの本を出してから、私は世の中に発信をしていく決意をして、そういう人生をはじめたような気がする。そのこと自体がとても恥ずかしいということも、そのときは知るよしもなかった。

処女作『吉野薫風抄』には、人は修行のために生きている、魂を高めるために生きている、人のために生きているという、むせかえるばかりのことを書き続けている若い自分がいた。そういう自分は今の私にはとても恥ずかしいように思えたのだが、そういう自分を実現するために、この20年生きてきて、そして、本当はそういうことではない、ということにそろそろ気づきはじめているのかも知れない。

私はなんのために生きているのか。私は何のために頑張っているのか…ようやく今なりの答えに、改めて向き合える時にきたようだ。なんのために生きるのか、なんのために頑張るのか、それはただ自分らしく生きるためだ、と思えてならない。

魂を高めるためと思うのなら、そう生きればいい。人のためになりたいと生きるのなら、そう生きればいい。お金持ちになるために生きるのなら、そう生きればいいんだ。それが自分らしい生き方だと思うのであれば…。

いやなら、変えればいいし、やめればいい。我慢したければ我慢する自分らしさを発揮すればいい。自分らしく生きることが、一番いい。その自分らしさを見極めるために生きていると言ってもいいんじゃないか。そう思ったとき、少し心のオリがおちたような気がした。

多くの人の前で話をするようになって、その都度、どこかで自分が傷ついていたような気がする。そう、いつのまにか、深く傷ついていた。でも、それも自分らしさだとしたら、それを貫いて行くしかない。そして、もうひとつ、気づいたことがあった。

私は自分らしく生きることで、多くの人を傷つけたり、悲しませたり、しているのではないか。自分らしく生きることが、なにが悪いのだと思い続けてきたが、自分らしく生きることは悪いことではないが、その分、自分が苦しんだり、人を傷つけることはたくさんある。それは家族であったり、仲間であったり、友だちであったり、見知らぬ他人であったり…。申し訳ない気持ちでいっぱいである。

私にはまぶしすぎる真っ青なあおによし奈良の都で、そういう自分に私は出会ったのである。なんのために頑張るのか…と問うてきた非日常から、ようやく日常に戻れるような気がする。感謝したい人がいる。みんなに優しくしていただいた。ほんとにありがとう。ありがとうございました。

私は、少し若返った…かも。
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