面白い本を読んだ。株式会社タカコの会長・石崎義公(いしざき・よしとも)氏が書かれた『まぁいっぺん聞いとくなはれ』(産経新聞出版刊 1400円)という本である。
(株)タカコは、油圧ポンプ部品(超精密高圧ポンプのピストン)の量産化に成功し、国内シェア80%、世界シェア50%を占めるという「ものづくり」企業で、精華町祝園(京都府相楽郡)の本社・研究開発センターのほか、国内に滋賀工場、海外では米国のカンザス州とベトナムのホーチミン市に製造子会社を持っている。
石崎氏は1944(昭和19)年、滋賀県甲賀市信楽町多羅尾(最寄りのJR島ヶ原駅まで徒歩3時間という山村)生まれ。地元の中学を卒業後、大阪の町工場に集団就職し、働きながら府立布施工業高校夜間部に通う。その後、大学の理工学部金属工学科へ(専門科目のみ履修して中退)。社名のタカコは、故郷の高香山(たかこやま)に由来するという。
版元の同書紹介文には《中学を出て、集団就職で大阪へ、夜間高校から夜間大学へ、そして29歳で独立。たった一人で始めた会社を、アメリカやベトナムに工場を設立するなど、やがて油圧ポンプの分野で世界一の企業に育てた著者が薀蓄に富んだ発想を披瀝する。面白くてためになる本!》とある。全体は4部構成で“「BOOK」データベース”には以下の通り概要が紹介されている。
第1部 ビジネス・ものづくりなど
(ドイツの国際見本市で京人形を飾る/ベトナムで1000人を雇用 ほか)
第2部 苦言・雑感
(肌触りの柔らかい下着買ったのに/「こんなん食べたことない!!」って言ってるでぇ ほか)
第3部 提言
(日本の人口2700万人の時代に/なぜ野党は核議論に反対するのか ほか)
第4部 自伝編
(高価な壷/月池に飛び込む ほか)
つまり第1部はビジネスのヒント集、第2部はエッセイ、第3部は政府への注文、そして第4部は半生記、という盛りだくさんな内容である。石崎氏の発案で、同書のあちこちにほのぼのとした漫画が描かれ、飽きずに読める工夫もされている。
印象に残った部分を紹介する。第1部では「ドイツの国際見本市で京人形を飾る」の章が面白い。29歳のとき「超精密高圧ポンプ部品メーカー」で独立したものの、資金が底をつきかけた。そこで起死回生の策として、工業製品の国際見本市として世界一のドイツ「ハノーバー国際見本市」に出展した。大手企業同士のすき間の5mほどの狭いスペースを借りたものの、超精密な高圧ポンプユニットは複雑すぎて分かりにくい。
そこで石崎氏は、ブースの中央に京人形を載せ、モーターで回転させた。人形を見て足を止めたエンジニアらしき人に片っ端から声をかけ、その結果ボルボ社などとの取引が決まり、おかげでトントン拍子に世界的な大企業と取引ができるようになったという。
第2部では「『こんなん食べたことない!!』って言ってるでぇ」(中国で野菜に高濃度の農薬をかけて栽培していたがそれは輸出用で、現地の人は決して食べない)や、「アメリカで車に追突された…」(アメリカでは踏切前で一旦停止の規則はない。「日本の鉄道は、止まらなければ見えないほど早いのか」と逆襲された)など、目からウロコの話が登場する。第3部では、カジノや国民総背番号制などの問題に、石崎氏独自の提言・苦言を述べておられる。
やはり胸を打ったのが、第4部の自伝だ。「月池に飛び込む」の章に登場するのは、中風(脳卒中)で闘病中の父親と、家計を土方仕事と夜の製茶工場勤務で支える母親、中一の石崎氏と小三の弟である。
ある日、疲れて帰ってきた母親が晩ごはんを作って4人で食べていると、寝たきりの父親がささいなことで怒り始めた。それまでも病気によるストレスで暴君的に振る舞っていたが、この日は特に荒れ、ちゃぶ台をひっくり返すだけでなく、12月の冷水を首筋から母親に浴びせかけた。
父親が寝床に入り、夜の9時を過ぎた頃、母親は2人の子供の手をひいて「これから行こう」と外へ出た。《「きれいなところに行くんやなあ。もうこれからは楽しい楽しい毎日を過ごせるんやで」と、笑いながらふたりに話しかけた》。母親は山の向こうにある月池という池に向かっていた。あまりにつらい暮らしと父親の状況に悲観して、身を投げようとしているのだ。
母親の足を止めたのは小さな弟のひと言だった。《「おかさん。楽しいところへ行くのはええけど、ちいちゃん(一番下の姉)が帰ってきて家に誰もいてへんだら可哀相やんか」と言った。(中略) その言葉を聞いて母親の足がピタリと止まった。そしてほどなくして、「そらそやな。ちいちゃんが帰ってきたら可哀相やなぁ」。(中略) もしあのとき、弟の言葉がなかったら、母はそのまま池まで行っていたかもしれない》。
現在石崎氏は仕事の傍ら、大学の非常勤講師や講演会の講師など、多方面で活躍されている。
※参考:石崎氏の講演「我が社のオンリーワンへの道」
http://www.mtc.pref.kyoto.jp/ce_press/no_018/club.htm
辛酸をなめながらも、常にポジティブ思考で取り組む石崎氏の姿勢は、素晴らしい。「日本のものづくりは、こういう人たちが頑張って支えて来られたのか」と素直に感動できる本である。学生や若いビジネスマンにとっては、ビジネスチャンスのヒントが見つかるだろうし、またそれ以上に、立派な経営者は何をバックボーンにして難局を乗り越えてきたのか、という「生き方」を知ることができる。一読をお薦めする。
(株)タカコは、油圧ポンプ部品(超精密高圧ポンプのピストン)の量産化に成功し、国内シェア80%、世界シェア50%を占めるという「ものづくり」企業で、精華町祝園(京都府相楽郡)の本社・研究開発センターのほか、国内に滋賀工場、海外では米国のカンザス州とベトナムのホーチミン市に製造子会社を持っている。
石崎氏は1944(昭和19)年、滋賀県甲賀市信楽町多羅尾(最寄りのJR島ヶ原駅まで徒歩3時間という山村)生まれ。地元の中学を卒業後、大阪の町工場に集団就職し、働きながら府立布施工業高校夜間部に通う。その後、大学の理工学部金属工学科へ(専門科目のみ履修して中退)。社名のタカコは、故郷の高香山(たかこやま)に由来するという。
版元の同書紹介文には《中学を出て、集団就職で大阪へ、夜間高校から夜間大学へ、そして29歳で独立。たった一人で始めた会社を、アメリカやベトナムに工場を設立するなど、やがて油圧ポンプの分野で世界一の企業に育てた著者が薀蓄に富んだ発想を披瀝する。面白くてためになる本!》とある。全体は4部構成で“「BOOK」データベース”には以下の通り概要が紹介されている。
第1部 ビジネス・ものづくりなど
(ドイツの国際見本市で京人形を飾る/ベトナムで1000人を雇用 ほか)
第2部 苦言・雑感
(肌触りの柔らかい下着買ったのに/「こんなん食べたことない!!」って言ってるでぇ ほか)
第3部 提言
(日本の人口2700万人の時代に/なぜ野党は核議論に反対するのか ほか)
第4部 自伝編
(高価な壷/月池に飛び込む ほか)
つまり第1部はビジネスのヒント集、第2部はエッセイ、第3部は政府への注文、そして第4部は半生記、という盛りだくさんな内容である。石崎氏の発案で、同書のあちこちにほのぼのとした漫画が描かれ、飽きずに読める工夫もされている。
印象に残った部分を紹介する。第1部では「ドイツの国際見本市で京人形を飾る」の章が面白い。29歳のとき「超精密高圧ポンプ部品メーカー」で独立したものの、資金が底をつきかけた。そこで起死回生の策として、工業製品の国際見本市として世界一のドイツ「ハノーバー国際見本市」に出展した。大手企業同士のすき間の5mほどの狭いスペースを借りたものの、超精密な高圧ポンプユニットは複雑すぎて分かりにくい。
そこで石崎氏は、ブースの中央に京人形を載せ、モーターで回転させた。人形を見て足を止めたエンジニアらしき人に片っ端から声をかけ、その結果ボルボ社などとの取引が決まり、おかげでトントン拍子に世界的な大企業と取引ができるようになったという。
第2部では「『こんなん食べたことない!!』って言ってるでぇ」(中国で野菜に高濃度の農薬をかけて栽培していたがそれは輸出用で、現地の人は決して食べない)や、「アメリカで車に追突された…」(アメリカでは踏切前で一旦停止の規則はない。「日本の鉄道は、止まらなければ見えないほど早いのか」と逆襲された)など、目からウロコの話が登場する。第3部では、カジノや国民総背番号制などの問題に、石崎氏独自の提言・苦言を述べておられる。
やはり胸を打ったのが、第4部の自伝だ。「月池に飛び込む」の章に登場するのは、中風(脳卒中)で闘病中の父親と、家計を土方仕事と夜の製茶工場勤務で支える母親、中一の石崎氏と小三の弟である。
ある日、疲れて帰ってきた母親が晩ごはんを作って4人で食べていると、寝たきりの父親がささいなことで怒り始めた。それまでも病気によるストレスで暴君的に振る舞っていたが、この日は特に荒れ、ちゃぶ台をひっくり返すだけでなく、12月の冷水を首筋から母親に浴びせかけた。
父親が寝床に入り、夜の9時を過ぎた頃、母親は2人の子供の手をひいて「これから行こう」と外へ出た。《「きれいなところに行くんやなあ。もうこれからは楽しい楽しい毎日を過ごせるんやで」と、笑いながらふたりに話しかけた》。母親は山の向こうにある月池という池に向かっていた。あまりにつらい暮らしと父親の状況に悲観して、身を投げようとしているのだ。
母親の足を止めたのは小さな弟のひと言だった。《「おかさん。楽しいところへ行くのはええけど、ちいちゃん(一番下の姉)が帰ってきて家に誰もいてへんだら可哀相やんか」と言った。(中略) その言葉を聞いて母親の足がピタリと止まった。そしてほどなくして、「そらそやな。ちいちゃんが帰ってきたら可哀相やなぁ」。(中略) もしあのとき、弟の言葉がなかったら、母はそのまま池まで行っていたかもしれない》。
現在石崎氏は仕事の傍ら、大学の非常勤講師や講演会の講師など、多方面で活躍されている。
※参考:石崎氏の講演「我が社のオンリーワンへの道」
http://www.mtc.pref.kyoto.jp/ce_press/no_018/club.htm
辛酸をなめながらも、常にポジティブ思考で取り組む石崎氏の姿勢は、素晴らしい。「日本のものづくりは、こういう人たちが頑張って支えて来られたのか」と素直に感動できる本である。学生や若いビジネスマンにとっては、ビジネスチャンスのヒントが見つかるだろうし、またそれ以上に、立派な経営者は何をバックボーンにして難局を乗り越えてきたのか、という「生き方」を知ることができる。一読をお薦めする。
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