てつりう美術随想録

美術に寄せる思いを随想で綴ります。「てつりう」は「テツ流」、ぼく自身の感受性に忠実に。

東京の“学べる”美術館巡り(27)

2012年09月05日 | 美術随想
ベルリン・人間の詩(うた) その10


ヨハネス・フェルメール『真珠の首飾りの少女』(1662-65年頃、ベルリン国立絵画館蔵)

 いよいよ『真珠の首飾りの少女』と対面することにしよう。

 この絵には、当時の慣例として、虚栄を戒める「ヴァニタス」の思想が込められているとされる。この絵でいえば、女性の美貌は永遠ではなく、人間はいずれ衰えそして消えていくもの、といった考え方だろう。

 だが、ぼくたちはフェルメールを観るとき、そんな図像解釈学に耳を貸すことが嫌になる。意味はどうあれ、この室内空間の前に立つと、非常に小さな絵にもかかわらず、絵のなかに描かれているものに手が届きそうに感じたり、この少女 ― と呼ぶほど若くはないような気もするが ― と同じ空気を呼吸したりしているような錯覚に陥ってしまう。

 絵のなかにイエスやマリアが登場し、全身を豪奢な宝石で飾り立てた王侯貴族が仁王立ちすると、たったそれだけでぼくたちのいる世界と描かれた世界とのあいだには、ある決定的な断絶が生じる。いわば、“描かれた絵”と“絵を鑑賞する人”というような、一対一の関係になるのである。

 けれども、ごく日常的な光景が描かれることの多いフェルメールの絵は、こちら側の世界とどこかでつながっているように感じる。実際には300年以上も前の、しかも遠く離れたオランダの部屋であるはずなのに、その世界にすっと入っていける。描かれている情景のスケールの小ささが、ぼくたちのちっぽけさと釣り合いがとれているのだ。まるで美術館の壁に小さな窓が穿たれ、その向こうで誰かが日常生活を送っているのをそっと覗き見るような楽しみがある。

                    ***

 『真珠の首飾りの少女』の構図は、前に取り上げた『天秤を持つ女』とよく似ている。画面左側の窓から射し込む優しい光、机の脇に立つひとりの女性、机上に置かれた織物など・・・。

 けれども、そこに描かれている女性の顔つきは、まったく対照的といっていい。『天秤を持つ女』の、思慮深く天地の動向を見据えるような知的な風貌に比べて、『真珠の首飾りの少女』のほうは、あえていえば“痴的”なのである。

 この少女は今、おしゃれに没頭しているところだ。彼女の目線は、窓の横に掛けられたごく小さな鏡に向けられている。いや、ほかには何も眼に入らないにちがいない。鏡のなかには、美しく輝く首飾りをあてがったおのれの姿が映し出されているからだ。彼女の表情は眼がとろんとし、ほとんど陶酔しきっているようにも思われる。

 こういう光景は、現代日本の家庭のなかとか、あちこちの服飾店などでも無数に展開されているはずだ。フェルメールの絵に時代を超えた親近感を覚えるのは、いつの世にも変わらぬ女性の普遍的なありようを精密に、ありのままに描写しているからでもあろう。

 そして、小さい鏡にじっと見入っている少し間の抜けた少女の顔は、同じぐらい小さいフェルメールの絵画に見入っているぼくたち日本の有象無象の顔とあまりちがわないのかもしれないな、という気もするのだった。

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