てつりう美術随想録

美術に寄せる思いを随想で綴ります。「てつりう」は「テツ流」、ぼく自身の感受性に忠実に。

フェルメールと、その他の名品(18)

2013年02月01日 | 美術随想

ヤン・ステーン『牡蠣を食べる娘』(1658-1660年頃)

 ふたたびヤン・ステーンを取り上げたい。

 『牡蠣を食べる娘』に描かれている女は、フェルメールの『手紙を書く女』のように、ある行為の最中で手を止めてこちらを見ているという設定である。彼女が着ているものも、フェルメールと同じようにふかふかのあたたかそうなガウンで、しかも袖は短い。そしてそこからにょきりとのびている手は、若い娘のそれというよりも、まるで家事を何年もこなしてきた中年女みたいに、いかつく、ごつごつしているように思われる。

 彼女の顔も、ひと癖あるといわざるを得ない。フェルメールの絵みたいに、にこやかに笑いかけるわけではなく、人に隠れて何かをやり遂げようとしているような意味ありげな表情に見えるのだ。絶対に内緒だよ、と彼女は小声でいう。絵の前に立つ人々は、たちまち女の共犯者に仕立てられてしまうのである。

 そんな気がするのも、ここでは牡蠣が媚薬として扱われているかららしい。そして、彼女が今まさに振りかけようとしている塩もまた、媚薬とされていたそうだ。ぼくは牡蠣や塩をそんな目的で食べたことはないけれども、たしかに牡蠣エキスを配合したサプリメントは、今でもよく売られている。

 つまりわれわれは、こんな流し眼をつかうほどの女から、うんと精のつく食べ物を振る舞われようとしているわけで、そのあとの展開はいうだけ野暮というものであろう。彼女は、平たくいえば男を誘惑しようとしているのである。背後ではふたりの召使いが働いているが、彼らの顔がまるで木偶の坊みたいに単純化されているところは、娘の企みが誰にも露見せずに成功する可能性がかなり高いことを示しているようだ。

 こんな、秘めやかな火遊びが人知れず繰り広げられているのも、オランダの風俗画の奥深いところであろう。いささか下品な内容のわりには、絵の上部が丸く切り取られて、教会に掛けられている高貴な宗教画を思わせるようになっているあたりは、芸が細かい。

                    ***


ヘリット・ファン・ホントホルスト『ヴァイオリン弾き』(1626年)

 さて、この展覧会の記事もそろそろ長引いてきたので、いい加減に幕引きとしたいが、隠微な色気をたっぷり含んだ女の絵で終わらせるのはいかにも具合がわるい。

 そこで最後にご登場願ったのが、朗らかな『ヴァイオリン弾き』の女である。彼女もある意味ではかなり大胆なかっこうをしているが、底抜けに明るい表情には一点のやましいところもなく、ついこちらにも楽しさが伝染してしまいそうだ。二重顎になる寸前といってもいい女のはち切れそうな肉体美もまた、眼の保養になる。果たして彼女のヴァイオリンがうまいか、そうでないかは、絵画である以上あまり関係のないことだ。

 思うに、フェルメールはこういう露骨な肉体の描写は不得手だったのではあるまいか。彼は風俗画の名手とはいっても、構図を考え、衣装を選び、モチーフを精選したうえでようやく絵に取りかかった、慎重な画家であったような気がする。登場人物の感情が爆発し、それが観る者をも絡めとるような激しさは、フェルメールにはあまりない。

 その一種の距離感というか、いくら手を伸ばせども届きそうもない孤絶感が、フェルメールの絵に独特の陰影を付与していることはたしかなようである。あの『真珠の耳飾りの少女』にしたって、こちらを振り向いてくれてはいるけれども、それはわれわれの前から立ち去ろうとしている途中のようにも見えるわけで、決して少女との距離が縮まったわけではない。

 けれども、ホントホルストが描いた陽気なヴァイオリニスト ― もちろんシロウトにちがいない ― は、楽器を奏でながらずんずん迫ってきて、眼の前に立ちはだかるようだ。無遠慮に笑う口からは、ちょっと酒臭い息がもれてくるような気もするが、額縁の向こうの人とのあいだに束の間の交流をもつことができたみたいで、わるい気持ちはしなかった。それというのも、ぼくも昔ヘタクソなヴァイオリンをかき鳴らしていた経験があるからで、この女とならいろいろと会話も弾みそうな感じがしたのである。

(所蔵先の明記のない作品はマウリッツハイス美術館蔵)

(了)


DATA:
 「マウリッツハイス美術館展 オランダ・フランドル絵画の至宝」
 2012年9月29日~2013年1月6日
 神戸市立博物館

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