てつりう美術随想録

美術に寄せる思いを随想で綴ります。「てつりう」は「テツ流」、ぼく自身の感受性に忠実に。

「日展」の“点と線”(3)

2007年04月04日 | 美術随想
〈日本画〉その1


 高山辰雄は1912年の生まれというから、今年で95歳を迎えることになる。今や押しも押されもせぬ日本画の重鎮であり、長老である。10年ほど前までは、テレビでその姿を見かけることも多かったが、近年はそんなこともなくなった。しかし毎年の「日展」には欠かさず出品をつづけていて、その健在ぶりを知ることができるのはうれしいことだ。

 とはいっても、作品の中にその年齢が刻々とにじみ出てくるのはやむを得ない。絵のサイズは徐々に小さくなり、使われる色の数は少なくなり、ここ数年はほとんどモノクロームの画面になっている。しかしそこには、観る者の襟を正させる毅然とした何かが、確かに存在しているのだ。

 生涯にわたり絵を描きつづけ、ついには老年に至った画家が、人生のしめくくりに向かって何を描いていこうとするかは人それぞれだろう。後ろを振り向かずに、ひたすら突っ走っていく人もいるかもしれない。だが高山の近作を観ていると、彼はみずからの画業を静かに振り返っているのではないかと思えてくる。それこそが年を取ったことの証しだといわれれば、まあそうなのかもしれないが・・・。

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 そんなふうに彼の最近の作品を理解していたぼくにとって、今回の出品作は小さな衝撃であった。『自冩像二○○六年』という絵は(上図)、過去ではなく、老境に達した現在の自分自身を見据えている。「自画像」ではなく「自冩(写)像」と題されているのは、おそらく理由のないことではないだろう。「自画像」というのは、画家の決意表明のような、多分に主観的な性質のものであるのに対して、高山はありのままの自分の姿というものを、客観的に見つめていたにちがいない。

 そこに描かれているのは、栄光に包まれた巨匠画家ではなく、杖を突いたひとりの老人である。月光を浴びて立つその姿は、かつてテレビで見たダンディーな紳士とはまるで別人のように感じられる。顔の表情はかすんで、はっきりと見極めることができないが、それだけにぼくは、これが高山の姿であるとは信じられないほどだ。

 だが、その表情のない顔からは、何か非常に厳しいものが伝わってくる気もするのである。それはいわば、老いたることの厳しさであろうか。彼は、老いて自由のきかなくなった体をもてあましながらも、決然たる意志をもって絵画と向き合おうとしているようだ。この「自冩像」には何か、非常に涙ぐましいものがあるのである。

※高山辰雄氏は、2007年9月14日、95歳で逝去された。

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 西田幸一郎は、比較的若い日本画家であろう。今回の出品作『空』は、彼にとって2度目の特選に選ばれた(上図)。この画家は京都在住ということもあり、ぼくはこれまで毎年のように彼の作品に接してきた。

 正直なことをいうと、ぼくはこの絵のように、人物が他の画面と二重写しになっているような絵はあまり好きではないのである。しかし「日展」をはじめとしたさまざまな公募展の、特に日本画部門の中に、そのような作品がかなり多く含まれていることが前から気になっていた。

 ぼくはそんな絵を眼にするたびに、現代を生きることの宿命といったものを感じないわけにいかない。画家といえども、美しい女や花々だけを描いて安閑としているわけにはいかないのだ。だが下手をすると、まるで映画の看板のように、バラバラのイメージを同じ画面に詰め込んだだけのしろものになりかねない。また、必要以上にメッセージ性の強いものになってしまう危惧もある。いわば、意図が見え透いてしまうのである。

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 この『空』という絵でも、可憐な女性の姿とカラスの群れとがオーバーラップする。いかにも当世風の衣服を身に着けた若い女と、飽食時代の落とし子ともいうべきカラスがひとつの画面に描かれることによって、現代の断面が鋭く提示されているといっていいだろう。

 しかし、それだけではない。不安げに空を見上げる彼女は、少女から大人の女へと移り変わる、微妙な年代にさしかかっているらしく見える。彼女がかかえる不安は、生きることそのものへの不安へと昇華されているように思えるのだ。そしてその不安は、われわれすべてに共通のものではあるまいか?

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