京都御苑の桜(2010年4月4日撮影)
あれよあれよという間に、桜の季節も過ぎ去った。ぼくの故郷の福井市には足羽(あすわ)川という大河が蛇行しながら流れているが、毎年春になると堤防を桜並木が埋めつくす。今年はその時季に合わせて妻と帰省しようかと思っていたが、何だかんだでお流れになってしまった。
近くには足羽山という小高い山もある。全体が公園になっていて(かつてはリフトに腰掛けてのぼることもできたものだが)博物館があったり動物園があったり、福井を代表するオアシスのような存在だ。ぼくも子供のころから家族とのドライブや遠足などで何度訪れたかわからないほどだが、そこも桜の名所となっている。
そういえば福井にはこんな笑い話があった。県外に住む人が福井の大学を受験し、やがて大学から「アスワヤマニサクラサク」という電報が届いたが、福井の地理に詳しくないので「アスワヤマ」の意味がわからない。たぶん受かったのだろうとは思うが、念を入れて周りの人にきいてみると、「明日は山に桜咲く」だから今年は駄目だったんだよと慰められる始末。その後、地元住民しか理解できぬ電文は自粛することとあいなったらしい。
***
関西に住むようになった今は、桜の季節ともなると京都に人が集中するのを実感せざるを得ない。もちろん大阪や兵庫、奈良や和歌山にも有名な桜はあるが、遠方からはるばる花見のために京都を訪れる人がとりわけ多いように思われる。ぼくも京都に住んでいた去年までは熱心にあちこち訪れたものだが、それでもすべてを網羅するまでには遠く及ばず、京都には何と桜の名所がいっぱいあるのだろうと呆れてしまった。これでは、観桜のためにわざわざ京都に出かけようとする人の気持ちもわからなくはない。
ただ、今年は少し異変があった。4月のはじめごろ、桜におおわれた姫路城が例年になく混雑を極めたという。大修理がはじまると天守閣に入ることができなくなるのと、花の見ごろが重なった相乗効果で入城制限がかけられるほどの賑わいだったそうだ。お城に入るために長蛇の列ができるなど聞いたこともないが、あの狭くて薄暗い城内に人がひしめき、急勾配の階段をぞろぞろとのぼっているのを想像するだけでも息がつまりそうになる。
『古今和歌集』のなかに、こんな歌があるそうだ。《春ごとに花のさかりはありなめど あひ見むことは命なりけり》(よみ人しらず)。毎年桜を眺めることができるのも、命あってのことである。逆にいえば、命が絶えるということは、すなわち桜が見られなくなるということでもある。
たとえ自分の命は来年の春まで生き延びても、姫路城の大天守は4年後まで見られない。そんな焦りが、人々を姫路の地へとかき集めたのではなかろうか。
***
それにしても、桜の季節になるとどこもかしこも人ごみであふれ返っているのはいかがなものか、と思う。4月の週末ともなると、京阪の特急電車は平日のラッシュアワー並みに(あるいはそれ以上に)混んでいた。なかには野暮用をこなすために、あるいは休日出勤などのためにやむなく電車に乗っている人もいるはずなのに、車両全体が何となく華やいでいて賑やかなのである。駅には各地の開花状況が貼り出され、沿線住民を否が応でも花見に駆り立てようとする。どうやら、桜を愛でることは日本人の義務になってしまったかのようだ。
ところで、ぼくは花見の場所を選ぶ際に必ず避けるようにしていることがひとつある。あちこちで大勢の男女が車座となって、奇声を上げながら宴会を繰り広げているようなところは御免こうむりたいのだ。彼らは、桜をどんちゃん騒ぎの口実にしているだけだろう。親睦をはかるためとか、ストレス解消のためとか、さまざまな理由づけをしながら、結局は自分たちが楽しむことばかりを考えている。エコとかロハスとかいった言葉が浸透しているようだが、こういった醜態を眼にするたびに、単なるお題目にすぎないだろうと思えてくる。
先日、満開の桜に彩られた東京をヘリコプターから眺めるという番組を見たが、カメラが上野公園の上空へとさしかかると、目立つのは薄桃色の花々よりも地面に敷かれたブルーシートの色であった。関西に住むぼくにとって、あれは大震災の被災地を思い出させる光景でしかない。新入社員に場所取りをさせる会社もあると聞くが、愚かな悪弊というべきだ。桜の生命にとってもよくないことは周知の事実であると思うのだが・・・。
《春ごとに花のさかりはありなめど あひ見むことは命なりけり》。この“命”を、桜の“命”にも読み替えることのできる想像力が、現代の日本人には決定的に欠けているようである。
つづきを読む