てつりう美術随想録

美術に寄せる思いを随想で綴ります。「てつりう」は「テツ流」、ぼく自身の感受性に忠実に。

傷跡を癒やす歌 ― 新垣勉のこと ― (2)

2007年02月02日 | 雑想


 2週間に一度、仕事帰りに大阪の図書館に立ち寄る。美術に関する資料や画集、小説、何枚かのCDを、鞄に目いっぱい詰め込んで帰るのが習慣になっている。

 この間、ふと思いついてコートの肩のあたりを見てみたら、そこだけ古着のようにすりきれてしまっていた。京都までのおよそ一時間半の間、重い鞄を肩にかけているからだろう。ただし借りた本の全部は読み切れないことがほとんどだし、CDは一度も聴かずに返すことも珍しくない。まったく無駄な労苦というものだが、やめられないのだ。

 先日も図書館に足を運んだ。新垣勉のCDがあったら是非とも借りようと考えていたが、ことごとく貸し出し中であった。仕方なく書籍の棚をあちこちのぞいているうち、音楽書のコーナーに、思いがけず新垣の著書があるのを見つけた。ぼくはためらわず、その本を借りることにした。

 『ひとつのいのち、ささえることば』(マガジンハウス)。どうやら新垣の語った言葉を集めたもののようである。その本だけは鞄に入れずに、コートのポケットにつっこんで帰路についたが、家に帰り着くまで待ちきれず、電車の中ではもちろん、プラットホームを歩きながらでも読みふけった。電車が京都の駅に滑り込むころには、もうすっかり読み終えてしまい、ぼくは呆然と窓の外の暗い景色を眺めていた。

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 その本にはひとつのストーリーがあるわけではなく、新垣勉の断片的な言葉を集めたアフォリズム集というか、新垣語録のようなものである。読むのは決して難しくない。しかしそれらのモザイクのような言葉のかずかずを通じて、彼の波瀾に満ちた“いのち”と、いやでも向き合わざるを得ないのである。

 それを受け止めるだけの強さが、はたしてこのぼくに備わっているのだろうか? そんな気にさせられるのは、たとえば次のような文章を読んだときだ。

 《母を殺したい。
 父も捜し出して殺したい。
 そして自分も死ぬ。
 自分の生い立ちを知ったときから、
 恨みと憎しみが強くなっていったのです。》


 しかしその次のページには、こう書かれているのである。

 《憎しみからは何も生まれない。
 それまでの自分をすべて受け入れたとき、初めて道は開けるんです。》


 ぼく自身、自分を誰かに受け入れてもらおうという努力はした覚えがある(今でもしているかもしれない)。だが、自分を自分で受け入れるための努力をしたことなど、一度だってありはしない。ぼくはいつだってぼく自身であり、それが“当たり前”のことであった。しかし、人によっては、自分の存在が“当たり前”のものになるまでに、大変な苦しみを通り抜けなければならないこともあるのである。

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 《私は戦争が残した傷跡です。》

 新垣勉は、率直にこう言い放つ。彼がアメリカ人の血を受け継いでいるのは、父親が米軍の兵士だったからだ。失明したことも、両親とはなればなれになったことも、すべてはそこに起因しているのだという。

 しかし彼は力強く、こうつづける。

 《選ぶことのできない宿命を、そのまま受け入れていくことから、
 人生というものは始まっていくのです。》


 かなり特殊であるはずの彼の人生経験は、やがて普遍的なものとなって、ぼくたちに投げ返される。

 《人を受け入れられないということは、
 自分自身すら受け入れてはいないということなのです。》


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 新垣勉にとって、歌とは人生を歩むための“杖”であり、かけがえのない同行者であったのかもしれない。光の閉ざされた世界の中でも、彼はひとりぼっちではないのだ。

 《父に逢えたら、「アメイジング・グレイス」を歌いたい。
 この歌にある「ものが見えていなかった私が、今は見える」というフレーズが、
 私の人生を歌っているようだからです。》


 ぼくは歌が下手だから、「アメイジング・グレイス」を歌うことはできないが、新垣勉の歌声から ― そして本田美奈子からも、ほかの歌手からも ― そのメッセージは確かに届く。この曲を聴くたびに胸がふるえ、心が落ち着くのを覚える。

 そんなとき、ぼくは確かに一本の“杖”を与えられたような気持ちになるのである。

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