てつりう美術随想録

美術に寄せる思いを随想で綴ります。「てつりう」は「テツ流」、ぼく自身の感受性に忠実に。

20世紀版画おぼえがき(3)

2007年02月18日 | 美術随想
コルヴィッツ『子どもの死』


 以前、「コルヴィッツとバルラハ」という随想の中で、ケーテ・コルヴィッツについて触れたことがある。コルヴィッツは版画だけではなく、彫刻の分野でも重要な仕事をしていて、その随想でも彼女の彫刻作品について述べたのだったが、ぼくが実際に観たことがあるのはたった数枚の版画にすぎない。それもかなり前の話で、今ではすっかり記憶が薄らいでしまっている。

 このままコルヴィッツのことを忘却してしまうのも心残りなので、彼女の日記や手紙を集めた本を手に取ってみた。巻頭に何枚かのモノクロ図版が掲載されていて、ぼくの知っている絵もそうでない絵もあったが、特に強烈な印象を受けたのが、この『子どもの死』という木版画だった。

 ぼくはこれまで、コルヴィッツのことをリトグラフかエッチングの作家だと認識していた部分がある。おそらく、今までその手の作品しか観たことがなかったからだろう。実際、幾とおりもある版画の技法の中で、ものごとを写実的に表現するにはリトグラフやエッチングが適しているのかもしれないし、虐げられた人々や下層社会の労働者の生活ぶりなどをリアルに表現する彼女の作風には、よりふさわしいものだったにちがいない。

 だがこの『子どもの死』は、そういった社会的な意味を離れ、人間が時として立ち向かわなければならない普遍的な悲劇へと、観るものを引き寄せるのである。

                    ***

 ケーテ・コルヴィッツは24歳で結婚し、ハンスとペーターというふたりの男の子に恵まれる。ペーターが14歳を迎えたころ、彼女は日記にこう書いている。

 《わたしの生涯のうちで、この時期がわたしには非常に好ましく思われる。大きな、身を切られるような苦しみに、まだわたしはぶつかったことはない。わたしの愛する息子たちは、一人前になるだろう。すでにわたしにはあの子たちが一本立ちする時が見えている。そしてわたしは今のところ心の痛みなしに、それを眺めている。なぜならあの子たちは完全に自分自身の生活を立ててゆけるまでに成長しているし、わたしは自身の生活を学んでゆけるまでにまだ十分に若いから。》

 成長しつつある息子たちを見守る母親の、率直な喜びに満ちあふれた文章である。しかしそれからわずか4年後、第一次大戦に出征した次男ペーターは、18歳の若さで、フランス前線で戦死する。ケーテは文字どおり“身を切られるような苦しみ”に直面することになったのだった。

 だがケーテは、息子の死から4か月も経たないうちに、次のように記すのである。

 《わたしはまだ死なないだろう。ハンスやカール(引用者注・ケーテの夫の名)が死ぬことがあっても。わたしの才能を最後まで伸ばし切らぬうちは、わたしの中にある種子(たね)が定められてある通りに、最後の小さい枝までも茂らせてしまわぬうちは、わたしは退場しないだろう。このことはもしわたしがどちらかを選ばせられたら、ペーターやハンスの身代わりになって ― ほほえみながら ― 死んだであろうこととは矛盾しない。どんなに喜んで、どんなに喜んで死をえらんだことだろう。ペーターは臼でひいてはならない種子の実であった。(略)しかしわたしは種子播き人であるからには、誠実に仕えよう。》

 ケーテの中にある種子は、芸術という枝を茂らせずにはおかなかったのだろう。それをやりきるまでは決して死なないという、涙ぐましい宣言は、彼女の人間的な強靭さの証明のようだ。悲しみを創作意欲に転換させるのは、芸術家だけに許された処世術なのかもしれない。

                    ***

 ところが、さらにその3年ほどのちに、ケーテはこんなふうに書きつけている。

 《戦争で打撃をうけた人たちが、みなかれらの生活から喜びを失ってしまったとしたら、かれらはほとんど死んだにひとしい。喜びのない人間は屍と同じである。(略)

 わたしの胸はだまされたという感じでいっぱいだ。この怖ろしい欺瞞にひっかからなかったら、おそらくペーターはいまも生きていたことだろう。ペーターとそして幾百万の他の若ものたち。みんなが欺かれたのだ。

 だから心の安静がない。腹の立つことばかりであり、うらめしいことばかりである。
(略)

 すべては滅茶滅茶である。》

 同じころに描かれた、『母たち』というリトグラフがある(下図)。我が子を抱きしめ、観念したように目をつぶる母親。呆然と前を見据える母親。顔を両手で覆っている母親・・・。“怖ろしい欺瞞”への必死の抵抗である。しかしそれは同時に、無力な抵抗でもある。“すべては滅茶滅茶”だったのだ。



                    ***

 『子どもの死』という木版画が作られたのは、ペーターが死んでから10年余りものちのことである。死児の齢を数えるという言葉があるが、ケーテは何年経っても、息子の戦死を忘れ去ることができなかった。

 しかしここに描き出されたのは、かつての生々しい記憶ではない。棺を両手に抱いた母親の顔は、悲しみというよりも、祈りで満たされているように思える。背景は黒く塗りつぶされ、聖なる光が、この小さな棺の上にふりそそぐようである。

 ケーテはこのとき、つかの間の“心の安静”を得ることができたのだろうか。この絵を観ていると、そんなふうにも思われてくる。いや、そうあってほしい、と思いたくもある。なぜなら彼女は、間もなくやってくる第二次大戦の中で、またも時代の荒波に翻弄されるからである。


参考図書:
 『ケーテ・コルヴィッツの日記 種子を粉にひくな』(鈴木東民訳)
 アートダイジェスト

つづきを読む
この随想を最初から読む

北海道から来たエトランゼ(4)

2007年02月15日 | 美術随想
藤田嗣治『二人の女』


 昨年、藤田嗣治の大規模な展覧会が全国3か所で開かれ、大きな話題になった。京都に巡回してきたときには、ぼくも興味津々で観に出かけたものだ。

 実は10年ほど前に、藤田の画集を借りようとして図書館を漁ったことがある。しかしその知名度に反して、藤田に関するまとまった著作がほとんど見当たらないのに愕然としたものだ。それ以来、藤田へのアプローチはあきらめていたけれど、時代が徐々に変わってきたのか、藤田の評伝などが少しずつ出版されはじめた。そうやって機運が盛り上がってきたあげくの、大展覧会であった。

 ぼくはそのときようやく、藤田嗣治の全貌ともいえるものに ― 戦争画を含めて ― 接することができたわけだが、結果的に藤田に対するぼくのイメージは、極端に混乱してしまった。ぼくはこの異色の日本人画家について、ほとんど何も知らなかったということを、今さらのように痛感したのである。もちろん、それまで藤田の絵をまったく観たことがないというわけではなかったが、これだけ一度に並べられてみると、藤田はただ乳白色の裸婦ばかりを描いていたわけではないということが、改めてよくわかってきたのだ。

 一貫しているのは、彼の絵の主役はつねに人物だということである(猫などの動物もよく登場するけれど)。しかしその人物の表現が、ひととおりでない。ひたすら息をのむほど美しい美女がいるかと思えば、おませな子供たちも大勢あらわれてくるし、肉筆浮世絵を連想させるものもあれば、敬虔な宗教画もある、といった具合である。もちろんそれらは同時進行で描かれたわけではなく、藤田の人生のページをめくるごとに、次々と出現してきたものなのだろう。

 これはまったく個人的な見解だが、画風が変転する画家というのは、多かれ少なかれ、作品の中に個人的な事情が反映しているのではないかと思う(もっとも極端なのがピカソだろう)。絵画と人生とが、画家自身の存在の、いわば両輪だからである。何年経っても同じような絵を描きつづけている人は、絵画は仕事だ、と割り切っている人ではなかろうか。その点、藤田の絵画は、そう簡単に割り切って考えられるものではなさそうだった。

                    ***

 このたびの展覧会で、『二人の女』という絵を観た。どこかで観たような絵だと思ったら、昨年の藤田の展覧会にも出品されていたものだった。2年つづけて京都に出張とは、なかなか忙しいことである(もちろんこのあともどこかに巡回するのだろう)。

 それはさておき、藤田嗣治の絵の中では、こういった絵がいちばん理解に苦しむ。なぜなら人物が非常に醜く誇張され、あるいは変形されているからだ。この女たちがいったいどういう関係で、今どういう状況におかれているのかはわからないけれど、とにもかくにも顔色が悪すぎるし、表情も暗すぎる。病み上がりの二人の女、といった感じなのである。

 ぼくは先ほど、画風の変化には画家の人生が反映されているといった。ではこの絵を描いたときの藤田は、彼女たちのように暗く思い悩んでいたのだろうか? これが描かれたのは第一次大戦 ― まさにヘミングウェイの『武器よさらば』の舞台である ― が終わる直前のことで、藤田が滞在するフランスももちろん参戦していたが、ある雑誌によると彼は当時、絵がよく売れたために羽振りはかなりよかったそうである。おまけに彼は結婚したばかりでもあって、私生活の上でも充実していたはずなのだ。

                    ***

 しかしこの『二人の女』は、そんな画家の境遇とは裏腹に、人生のどん底にいるようではないか? 彼女たちは悲嘆に暮れるあまり、視線も定まらず、口を開く気力もないといわんばかりである。

 一方で藤田はといえば、例の奇妙なおかっぱ頭を振りたて、仮装パーティーに繰り出し、乱痴気騒ぎをするような人間でもあった。そんな社交界の寵児の破天荒ぶりと、孤独で陰鬱な感じのする彼の絵画とが、なかなかひとつの焦点を結ばないのは、仕方のないことかもしれない。理解に苦しむ、といったのは、つまりこういうことである。

 だが、仲間たちの楽しい宴から離れ、ひとりアトリエにこもるときの藤田のことを考えると、何だか身につまされるような気もする。キャンバスの前で虚飾を脱ぎ去り、絵筆ひとつで異国の画壇に立ち向かうひとりの日本人。そのとき、底なしの孤独感が彼の心にしのびこんでこなかったとは、いったい誰がいえるだろう?

(取り上げた作品はすべて北海道立近代美術館蔵)


DATA:
 「ヘミングウェイが愛した街 1920年代巴里の画家たち展」
 2007年2月9日~3月25日
 美術館「えき」KYOTO

この随想を最初から読む
次の随想へ
目次を見る

北海道から来たエトランゼ(3)

2007年02月14日 | 美術随想
キスリング『オランダの娘』


 キスリングの女性像には、昔から魅了されつづけてきた。エコール・ド・パリの画家たちの中でぼくが最初に好きになったのは、シャガールでもなくモディリアーニでもなく、キスリングであったかもしれない。それはまあ、無理からぬことでもあったろう。

 エコール・ド・パリの絵画というのは ― 誤解をおそれずにいえば ― 必ずしも上手な絵とは限らない。パスキンやヴァン・ドンゲンに、構図やデッサンの点でやや不自然な部分があることはすでに述べたが、彼らの絵の魅力というのはまさにそこにあるのである。このことは、彼らがいわば“一匹狼の群れ”であって、ひとつの共通した美の基準を求めていたのではないということと、大いに関係がある。たとえば近代の日本画壇のように、カリスマ的な指導者のもとに集まった弟子たちというような、一種の派閥とはちがうのだ。

 エコール・ド・パリの画家たちは、自分の理想とする絵画像を、自分自身で発掘する義務を負っていたのである。いいかえれば、キャンバス上に何を表現するのか、どうやって描けばいいのかということを、他の流派に従うことなく、一から、いやゼロから探り出そうとした連中なのだ。正確な人体デッサン、厳密な構図法などは、彼らの辞書にはなかったのである。

 結果として彼らの描写はゆがみ、色彩は現実から離れ、いわゆる“うまい絵”からは遠ざかっていった。そのかわり、誰にも真似することのできない極めて個性的な絵画技法を、彼らは手に入れたのである。その点でとりわけ成功を収めたのが、シャガールやモディリアーニといった画家たちなのであろう(ただし、モディリアーニが名声を博したのは没後のことだったけれど)。

                    ***

 だが、例外的にキスリングの絵には、誰をも「うまい」といわせてしまう決定的な魅力があるように思う。それがもっともあらわれているのが、よくいわれるように“陶器のような肌”をもった女性像である。

 理屈は抜きにして、観る人が吸いつけられてしまう魔法を、その絵はもっている。いや、もっと正確にいえば“目をくらまされる”とでもいうべきだろうか。この『オランダの娘』も、例外ではない。むっちりとした腕の描写は、肉感的であると同時に、精巧な作りものめいた、冷ややかな印象を与える。まったく不思議な感覚である。

 ただ、この“うまさ”ゆえに、キスリングの絵は他のエコール・ド・パリの画家に比べて、あまり高く評価されていないようにも思う。彼らに特有のどろどろした情念、絵を描いて生きるということの切実さのようなものが、キスリングの絵からは感じられないからかもしれない。

 その点キスリングは、東郷青児とよく似ているような気がする。東郷の絵画は、通俗的だとの攻撃にさらされつづけた。しかしその一方で、広く大衆の心をつかんでいったのである。

                    ***

 荒々しい筆触を持ち味としたスーティンや、現実離れしたシャガールの絵もいい。だが、それらに混じってキスリングの凛とした女性像が目に入ると、心が落ち着く。そこには、何か非常に健全なものが描かれているという気がする。

 キスリングの絵は確かに、美しすぎるかもしれない。あるいはまた、俗っぽすぎるかもしれない。彼は、血しぶきをあげながら絵画と切り結んだわけではなかったかもしれない。だがそこには、遥か遠くのポーランドからやってきたキスリングが、異国の地で独力でつかんだ美のかたちがあるのである。

つづきを読む
この随想を最初から読む

北海道から来たエトランゼ(2)

2007年02月12日 | 美術随想
ヴァン・ドンゲン『ボドリ・ダッソン侯爵夫人』


 今からもう20年以上も前の話になると思うが、あるテレビ番組で ― それは美術番組ではなかったけれど ― ヴァン・ドンゲンの一枚の絵が紹介されていたのを偶然見たことがある。それは確か、都市の風景が描かれた絵だったように記憶するが、そこには一台の自動車が走っていた。史上初めて自動車が絵画に描かれたのが、ヴァン・ドンゲンのこの絵だというようなコメントを、とある学者が ― 今は亡き木村尚三郎氏だっただろうか ― 付け加えていた。

 その絵が何という絵だったか、あるいは「史上初めて自動車が描かれた絵」というのが真実なのかどうか、ぼくは何も知らないけれども、ヴァン・ドンゲンという聞き慣れない名前を記憶に刻んだのはそのときだった。

 彼の絵を実際に展覧会で観たのは、それから何年ものちのことである。それ以降、エコール・ド・パリの展覧会では必ずといっていいほどヴァン・ドンゲンの絵に接してきたが、意外なことに風景画はほとんどなく、大部分が女性を描いた人物画なのであった。そして彼女たちは、なぜかいつも緑色の影を宿して描かれているのである。

 ぼくは心の中でひそかに、この緑色を「ヴァン・ドンゲン・グリーン」などと名づけ、この画家のトレードマークとみなすようになった。展覧会の会場に入って、ぐるりと辺りを見回すと、かなり遠くからでも「ヴァン・ドンゲン・グリーン」は目に飛び込んでくるのである。それにしても、彼がこの独特の憂いを帯びた緑色を偏愛したのは、いったいなぜなのだろう?

                    ***

 『ボドリ・ダッソン侯爵夫人』にも、やはり「ヴァン・ドンゲン・グリーン」が使われているが、それよりも気になるのは、この人物が侯爵夫人にはとても見えないということだ。

 彼女はまるで女学生のように髪を短く切りそろえ、まことに簡素な、少女のようなワンピースを身に着けている。すらりと伸びた細い両足には ― これまた何と長い足であろう! ― 白いソックスをはいたりしている。表情もあどけなく、若々しい。

 年のころはせいぜい、20代のはじめくらいにしか見えないだろう。これがはたして、侯爵夫人なのだろうか? 普通、貴族の肖像画というものは、アクセサリーをごてごてと飾り立て、上質な毛皮などをまとい、ステータスを誇示するように描かれるのが通例なのだ。だがこの絵で位の高さを連想させるものは、胸もとの大きなペンダントと、彼女が腰掛けている椅子だけである。それすらも、とってつけたように見えないこともない。

                    ***

 しかしこんなチャーミングなモデルにも、「ヴァン・ドンゲン・グリーン」は容赦なくつきまとう。彼女の長い首のほとんどはグリーンで占められている。こめかみのところにも、グリーンがある。赤く塗られた唇のすぐ下にも、グリーンの小さい影がひっそりとうずくまっているのである。

 その不気味な影は、彼女の充足した表情と、鋭いコントラストを作り上げる。いわんや、彼女が侯爵夫人であればなおさらのことだ。

 社交界に生息する人物の肖像を描いて、時代の寵児となったヴァン・ドンゲン。『ボドリ・ダッソン侯爵夫人』の無防備なポーズは、画家への信頼がいかに厚かったかの証明でもあるだろう。しかし画家は、あやしげな「ヴァン・ドンゲン・グリーン」を添えることを忘れなかった。

 彼は、ひょっとしたら退廃のにおいをたきしめようとしたのかもしれない。芸術の都パリの全盛期も、社交界の華美な宴も、侯爵夫人という肩書きも、永遠につづくものではないからである。右側に描きこまれた花のように、それはいつか枯れはててしまうものだからである。

つづきを読む
この随想を最初から読む

北海道から来たエトランゼ(1)

2007年02月11日 | 美術随想
パスキン『花束を持つ少女』


 京都で、いわゆるエコール・ド・パリの絵を観る機会があった。同時代にパリで暮らした作家のヘミングウェイと関連づけた展覧会だったが、ヘミングウェイと直接かかわる作品はわずかで、ほとんどはフランスやスイス、あるいは日本各地の美術館から集められた、多彩な作品群が陳列されていた。

 風景画があり、静物画があり、バレエの衣装や舞台装置のデザインなどもあったが、人物画に印象的なものが目立った。そのいくつかは、なぜか北海道立近代美術館から貸し出されたものが多かった。

 なかでもパスキンのこの少女像は、同美術館の顔のような作品だといっていいだろう。と同時に、パスキンの代表的な一枚だといっても決していいすぎではあるまい。ぼくにとっても、昔からさまざまな画集などですっかり観なれた絵であった。このたびの展覧会より以前に、この絵の実物と対面したことがあったかどうか、あまりにも親しい絵であるがゆえに、はっきりとは思い出せないほどだ(おそらく、何かの展覧会で観ているだろうと思う)。

                    ***

 パスキンは、エコール・ド・パリの展覧会に欠かすことのできないメンバーであるから、ほかにも彼の絵をたくさん観てきたことは事実である。そんなときに出品されるのは、ほとんどが女性や少女を描いた人物画であって、作風もよく似ているため、慣れてくるとパスキンの絵を観わけるのは造作もないことだ。だが、そんな中でもこの『花束を持つ少女』が強く印象に残るのはなぜだろう?

 彼の絵を特徴づけるのは、その繊細な色づかいである。下書きの線が透けて見えるほど淡く、微妙に移ろう色彩は、揺れ動く空気感をそのままキャンバスに定着させたようだ。特にモデルが裸体であるときなど、その肌は夢見るようなきらめきを放つ。まるで、シャボン玉の内側から見た世界のようである。

 しかし『花束を持つ少女』では、使われている色が濃い。いいかえれば、この少女は他の絵のモデルに比べて、おのれの存在を強く主張している。紫のワンピースという、あまり似つかわしいとはいえない服に身を包んだ少女は、白いタイツをはいた足を投げ出してソファーに座っているが、よく見ると膝から下が不自然に長い気がする。もしこのソファーが描かれていなかったら、彼女は立っているようにも座っているようにも見えるだろう。

 だが人物造形の不自然さは、パスキンの絵にはよく見られることだ。特にモデルが幼い場合に、この傾向は顕著である。少女と女のあわいにある人物像と立ち向かいながら、おそらくパスキンは迷っている。子供として描くべきか、大人の女として描くべきか、はたまたその両方を描くべきか・・・。

                    ***

 パスキンの絵画のもろさ、ある種の曖昧さは、彼の私生活と無関係ではないだろう。酒を浴びるように飲み、友人の妻を愛し、最後にはみずからの手首を切るのである。自死というのは決然たる行為のようにも思えるが、彼は未練たっぷりに、自分の血で愛人の名前を書き残して死んだのだった。

 『花束を持つ少女』は、まるでその血が固まって咲いたかのような、毒々しいほど鮮烈な赤色の花を手にしている。しかし少女自身は、何を見るでもなく、むっつりとふさぎ込んだような表情で、力なくソファーに座っているだけである。

 いたいけな少女と、男を翻弄する女と・・・。この一枚の絵には、パスキンの深刻な心の闇が、人知れず影を落としているような気がしてならない。

つづきを読む