コルヴィッツ『子どもの死』
以前、「コルヴィッツとバルラハ」という随想の中で、ケーテ・コルヴィッツについて触れたことがある。コルヴィッツは版画だけではなく、彫刻の分野でも重要な仕事をしていて、その随想でも彼女の彫刻作品について述べたのだったが、ぼくが実際に観たことがあるのはたった数枚の版画にすぎない。それもかなり前の話で、今ではすっかり記憶が薄らいでしまっている。
このままコルヴィッツのことを忘却してしまうのも心残りなので、彼女の日記や手紙を集めた本を手に取ってみた。巻頭に何枚かのモノクロ図版が掲載されていて、ぼくの知っている絵もそうでない絵もあったが、特に強烈な印象を受けたのが、この『子どもの死』という木版画だった。
ぼくはこれまで、コルヴィッツのことをリトグラフかエッチングの作家だと認識していた部分がある。おそらく、今までその手の作品しか観たことがなかったからだろう。実際、幾とおりもある版画の技法の中で、ものごとを写実的に表現するにはリトグラフやエッチングが適しているのかもしれないし、虐げられた人々や下層社会の労働者の生活ぶりなどをリアルに表現する彼女の作風には、よりふさわしいものだったにちがいない。
だがこの『子どもの死』は、そういった社会的な意味を離れ、人間が時として立ち向かわなければならない普遍的な悲劇へと、観るものを引き寄せるのである。
***
ケーテ・コルヴィッツは24歳で結婚し、ハンスとペーターというふたりの男の子に恵まれる。ペーターが14歳を迎えたころ、彼女は日記にこう書いている。
《わたしの生涯のうちで、この時期がわたしには非常に好ましく思われる。大きな、身を切られるような苦しみに、まだわたしはぶつかったことはない。わたしの愛する息子たちは、一人前になるだろう。すでにわたしにはあの子たちが一本立ちする時が見えている。そしてわたしは今のところ心の痛みなしに、それを眺めている。なぜならあの子たちは完全に自分自身の生活を立ててゆけるまでに成長しているし、わたしは自身の生活を学んでゆけるまでにまだ十分に若いから。》
成長しつつある息子たちを見守る母親の、率直な喜びに満ちあふれた文章である。しかしそれからわずか4年後、第一次大戦に出征した次男ペーターは、18歳の若さで、フランス前線で戦死する。ケーテは文字どおり“身を切られるような苦しみ”に直面することになったのだった。
だがケーテは、息子の死から4か月も経たないうちに、次のように記すのである。
《わたしはまだ死なないだろう。ハンスやカール(引用者注・ケーテの夫の名)が死ぬことがあっても。わたしの才能を最後まで伸ばし切らぬうちは、わたしの中にある種子(たね)が定められてある通りに、最後の小さい枝までも茂らせてしまわぬうちは、わたしは退場しないだろう。このことはもしわたしがどちらかを選ばせられたら、ペーターやハンスの身代わりになって ― ほほえみながら ― 死んだであろうこととは矛盾しない。どんなに喜んで、どんなに喜んで死をえらんだことだろう。ペーターは臼でひいてはならない種子の実であった。(略)しかしわたしは種子播き人であるからには、誠実に仕えよう。》
ケーテの中にある種子は、芸術という枝を茂らせずにはおかなかったのだろう。それをやりきるまでは決して死なないという、涙ぐましい宣言は、彼女の人間的な強靭さの証明のようだ。悲しみを創作意欲に転換させるのは、芸術家だけに許された処世術なのかもしれない。
***
ところが、さらにその3年ほどのちに、ケーテはこんなふうに書きつけている。
《戦争で打撃をうけた人たちが、みなかれらの生活から喜びを失ってしまったとしたら、かれらはほとんど死んだにひとしい。喜びのない人間は屍と同じである。(略)
わたしの胸はだまされたという感じでいっぱいだ。この怖ろしい欺瞞にひっかからなかったら、おそらくペーターはいまも生きていたことだろう。ペーターとそして幾百万の他の若ものたち。みんなが欺かれたのだ。
だから心の安静がない。腹の立つことばかりであり、うらめしいことばかりである。(略)
すべては滅茶滅茶である。》
同じころに描かれた、『母たち』というリトグラフがある(下図)。我が子を抱きしめ、観念したように目をつぶる母親。呆然と前を見据える母親。顔を両手で覆っている母親・・・。“怖ろしい欺瞞”への必死の抵抗である。しかしそれは同時に、無力な抵抗でもある。“すべては滅茶滅茶”だったのだ。
***
『子どもの死』という木版画が作られたのは、ペーターが死んでから10年余りものちのことである。死児の齢を数えるという言葉があるが、ケーテは何年経っても、息子の戦死を忘れ去ることができなかった。
しかしここに描き出されたのは、かつての生々しい記憶ではない。棺を両手に抱いた母親の顔は、悲しみというよりも、祈りで満たされているように思える。背景は黒く塗りつぶされ、聖なる光が、この小さな棺の上にふりそそぐようである。
ケーテはこのとき、つかの間の“心の安静”を得ることができたのだろうか。この絵を観ていると、そんなふうにも思われてくる。いや、そうあってほしい、と思いたくもある。なぜなら彼女は、間もなくやってくる第二次大戦の中で、またも時代の荒波に翻弄されるからである。
参考図書:
『ケーテ・コルヴィッツの日記 種子を粉にひくな』(鈴木東民訳)
アートダイジェスト
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以前、「コルヴィッツとバルラハ」という随想の中で、ケーテ・コルヴィッツについて触れたことがある。コルヴィッツは版画だけではなく、彫刻の分野でも重要な仕事をしていて、その随想でも彼女の彫刻作品について述べたのだったが、ぼくが実際に観たことがあるのはたった数枚の版画にすぎない。それもかなり前の話で、今ではすっかり記憶が薄らいでしまっている。
このままコルヴィッツのことを忘却してしまうのも心残りなので、彼女の日記や手紙を集めた本を手に取ってみた。巻頭に何枚かのモノクロ図版が掲載されていて、ぼくの知っている絵もそうでない絵もあったが、特に強烈な印象を受けたのが、この『子どもの死』という木版画だった。
ぼくはこれまで、コルヴィッツのことをリトグラフかエッチングの作家だと認識していた部分がある。おそらく、今までその手の作品しか観たことがなかったからだろう。実際、幾とおりもある版画の技法の中で、ものごとを写実的に表現するにはリトグラフやエッチングが適しているのかもしれないし、虐げられた人々や下層社会の労働者の生活ぶりなどをリアルに表現する彼女の作風には、よりふさわしいものだったにちがいない。
だがこの『子どもの死』は、そういった社会的な意味を離れ、人間が時として立ち向かわなければならない普遍的な悲劇へと、観るものを引き寄せるのである。
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ケーテ・コルヴィッツは24歳で結婚し、ハンスとペーターというふたりの男の子に恵まれる。ペーターが14歳を迎えたころ、彼女は日記にこう書いている。
《わたしの生涯のうちで、この時期がわたしには非常に好ましく思われる。大きな、身を切られるような苦しみに、まだわたしはぶつかったことはない。わたしの愛する息子たちは、一人前になるだろう。すでにわたしにはあの子たちが一本立ちする時が見えている。そしてわたしは今のところ心の痛みなしに、それを眺めている。なぜならあの子たちは完全に自分自身の生活を立ててゆけるまでに成長しているし、わたしは自身の生活を学んでゆけるまでにまだ十分に若いから。》
成長しつつある息子たちを見守る母親の、率直な喜びに満ちあふれた文章である。しかしそれからわずか4年後、第一次大戦に出征した次男ペーターは、18歳の若さで、フランス前線で戦死する。ケーテは文字どおり“身を切られるような苦しみ”に直面することになったのだった。
だがケーテは、息子の死から4か月も経たないうちに、次のように記すのである。
《わたしはまだ死なないだろう。ハンスやカール(引用者注・ケーテの夫の名)が死ぬことがあっても。わたしの才能を最後まで伸ばし切らぬうちは、わたしの中にある種子(たね)が定められてある通りに、最後の小さい枝までも茂らせてしまわぬうちは、わたしは退場しないだろう。このことはもしわたしがどちらかを選ばせられたら、ペーターやハンスの身代わりになって ― ほほえみながら ― 死んだであろうこととは矛盾しない。どんなに喜んで、どんなに喜んで死をえらんだことだろう。ペーターは臼でひいてはならない種子の実であった。(略)しかしわたしは種子播き人であるからには、誠実に仕えよう。》
ケーテの中にある種子は、芸術という枝を茂らせずにはおかなかったのだろう。それをやりきるまでは決して死なないという、涙ぐましい宣言は、彼女の人間的な強靭さの証明のようだ。悲しみを創作意欲に転換させるのは、芸術家だけに許された処世術なのかもしれない。
***
ところが、さらにその3年ほどのちに、ケーテはこんなふうに書きつけている。
《戦争で打撃をうけた人たちが、みなかれらの生活から喜びを失ってしまったとしたら、かれらはほとんど死んだにひとしい。喜びのない人間は屍と同じである。(略)
わたしの胸はだまされたという感じでいっぱいだ。この怖ろしい欺瞞にひっかからなかったら、おそらくペーターはいまも生きていたことだろう。ペーターとそして幾百万の他の若ものたち。みんなが欺かれたのだ。
だから心の安静がない。腹の立つことばかりであり、うらめしいことばかりである。(略)
すべては滅茶滅茶である。》
同じころに描かれた、『母たち』というリトグラフがある(下図)。我が子を抱きしめ、観念したように目をつぶる母親。呆然と前を見据える母親。顔を両手で覆っている母親・・・。“怖ろしい欺瞞”への必死の抵抗である。しかしそれは同時に、無力な抵抗でもある。“すべては滅茶滅茶”だったのだ。
***
『子どもの死』という木版画が作られたのは、ペーターが死んでから10年余りものちのことである。死児の齢を数えるという言葉があるが、ケーテは何年経っても、息子の戦死を忘れ去ることができなかった。
しかしここに描き出されたのは、かつての生々しい記憶ではない。棺を両手に抱いた母親の顔は、悲しみというよりも、祈りで満たされているように思える。背景は黒く塗りつぶされ、聖なる光が、この小さな棺の上にふりそそぐようである。
ケーテはこのとき、つかの間の“心の安静”を得ることができたのだろうか。この絵を観ていると、そんなふうにも思われてくる。いや、そうあってほしい、と思いたくもある。なぜなら彼女は、間もなくやってくる第二次大戦の中で、またも時代の荒波に翻弄されるからである。
参考図書:
『ケーテ・コルヴィッツの日記 種子を粉にひくな』(鈴木東民訳)
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