てつりう美術随想録

美術に寄せる思いを随想で綴ります。「てつりう」は「テツ流」、ぼく自身の感受性に忠実に。

画家として死ぬということ(5)

2007年08月07日 | 美術随想


 やはりNHKの番組の中で、最晩年の奥村土牛(とぎゅう)の姿も紹介されていた。代表作のひとつ『醍醐』については、以前に「さくら三昧 ― “極美”を訪ねて ―」の中で取り上げたことがあるけれども、彼もまた101歳の天寿をまっとうした日本画家である。

 そのいっぷう変わった雅号は、彼の人生とよく一致していると思う。北海道立近代美術館のサイトには、その由来について次のように説明されている。

 《この雅号は、土牛のお父さんがつけたもので、中国の詩「土牛、石田を耕す」という一節からとったものです。(略)土牛とは、古来中国の豊作を祈願する土製の牛のことです。そんな壊れやすい土牛でも、根気よく耕せば、石ころの多い荒れた田を美田に変えることができる、ひとつのことを根気よく続ければ、必ず成就されるだろう。「土牛」という雅号には、そんなお父さんの願いが込められているのでしょう。老年に入ってなお、傑作を生みだし続けた「大器晩成」の画家土牛に、ぴったりの雅号であったといえるでしょう。》

 画家自身、85歳のときに『牛のあゆみ』と題された自伝を執筆してもいる(中公文庫、ただし未読)。この年齢にもなれば、いくら牛のように遅々たるあゆみといえど、彼もすでに功なり名遂げた巨匠であって、自分の来し方を振り返るのに何の不足もないだろう。だが、土牛はそれからさらに16年もの間、現役の画家として美田を耕しつづけた。

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 社会の高齢化が進むにつれて、介護の問題が大きくクローズアップされてきていることは周知のとおりだ。だが、なかには100歳を超えても、ほとんど何の介護も必要としないほど矍鑠(かくしゃく)とした方がおられることも事実である。ぼくがテレビで見かけた土牛は、もう100歳を目前にしていたのではないかと思われるが、しかし彼は見た目にもすでに老いさらばえ、明瞭な言葉を話すこともほとんどなく、こういっては何だが年相応の衰えを隠すべくもないように見えた。この状態でまだ画家をつづけていられるというのが不思議なくらいであった。

 もちろん、彼の世話をする家族の苦労はひととおりでない。土牛の生活は昼と夜が逆になっていて、創作はもっぱら深夜におこなわれていたそうだ。若い画家であれば、家族が寝静まったあとにひとりで集中して仕事をするということもよくあるだろう。だが土牛ほどの年齢ともなると、誰かが付き添っていないわけにはいかず、彼が絵に取り組んでいる間は、家族もそれに合わせて昼夜逆転の生活をしたという。

 ぼくも夜勤の仕事をしていて最近痛感していることだが、創作のためならまだしも、日常の暮らしを送るためには、夜型の生活というのは何かと不都合が多いものだ。土牛は東京都の名誉都民だったそうだが、まさか不夜城のごとき都会のど真ん中に住んでいたわけでもあるまい。ひとりの画家を取り巻く家族や肉親は、ある程度は芸術の犠牲に晒されながらも、同時にその芸術の成立を力強く支えねばならないという、痛烈なジレンマの中に立たざるを得なくなるもののようだ。だがこのことは、ひとりの高齢者を介護するときにもいえるのではあるまいか。

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 奥村土牛は、好んで富士山を描いた。最晩年になってもそれは変わらなかった。

 NHKのテレビに映し出されたこの老画家の生きざまの中で、ぼくの脳裏に今でも焼きついて離れないのは、車の後部座席に横たわった土牛の姿だ。彼の眼には力がなく、言葉もなく、ぐったりとしているように見え、これから病院に運ばれていくところのように思われたが、実はそうではなかった。彼は新作を描くために、富士山を見にいくところだったのだ。これまで何度も何度も描いてきたモチーフにもかかわらず、土牛はもう一度自分のこの眼で富士の存在を確かめ、観察し、新しい富士を描き出そうとしていたのである。

 絶筆となった『平成の富士』(上図)も、そうやって描かれたものにちがいない。この絵を前にして、批評めいた言葉を口にすることなど誰にもできないだろう。絵の中にそびえる荘厳な富士のたかねは、同時に奥村土牛がたどり着いた画境の高みでもある。

(個人蔵)

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