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カンディンスキー『印象III(コンサート)』(1911年)
この絵が、今回の展覧会のハイライトだろう。モダン・アートを扱った画集には必ずといっていいほど登場するのが、『印象III(コンサート)』である。シェーンベルクの作品の演奏会の“印象”を描いた、とされる。カンディンスキーのほかにミュンター、そしてフランツ・マルクも客席にいた。
演奏されていたのは、『3つのピアノ曲』。上部に描かれている黒いかたちは、グランドピアノだといわれている。けれども、そのときカンディンスキーをとらえた“印象”がどんなものだったか、追体験することは難しい。というのも、ぼくはこれまでシェーンベルクの曲をほとんど聴かないようにしてきたからである。
昔、FM放送の企画で、クラシックの主だった作曲家の人気投票があった。上位はモーツァルトかベートーヴェンかショパンか、多分そのあたりだったろうが、覚えていない。しかし、最下位がシェーンベルクだったことはよく覚えている。番組では、たしか「支持率1パーセント」などという投票結果が紹介されていた。
「ではそのシェーンベルクの曲をお聞きいただきましょう」というアナウンスのあとに流れはじめた『ヴァイオリン協奏曲』は ― ものの2、3分の断片だったけれど ― ぼくの繊細な(?)耳にはとても耐えられず、「こんな曲を支持する人が1パーセントもいるのか」と驚いた記憶がある。
あれからもう30年近くは経つと思うが、シェーンベルクを積極的に聴こうとしたことはない(彼の弟子であるウェーベルンやアルバン・ベルクは、頑張って聴いてみたこともある。好きにはなれなかったけれど)。
シェーンベルクといえば12音技法の創始者とされ、音楽史上の重要人物のひとりと目されている。ただ、歴史的に重要であることと、人々に広く受け入れられることとは別である。12音技法はぼくの愛するストラヴィンスキーやショスタコーヴィチなども用いているが、本家本元のシェーンベルクに耳を傾けようという気にはならない。初期の傑作といわれる『浄められた夜』は精緻な弦楽合奏のアンサンブルを極めたようなロマン派風の曲で、日本でもしばしば演奏されるが、好んで聴くことはしない。よっぽど、シェーンベルクに対するアレルギーがあるようだ。
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だが、『印象III(コンサート)』はシェーンベルクの音楽を絵画化したものではない。そしてまた、“印象”といっても、モネのように視覚的な印象を描いたわけでもない。そう考えてみると、この絵はこれまでさんざん眼にしてきたわりには、どういうふうにとらえていいものか悩んでしまうところがある。
そのせいか、“原始の眼”をどこか遠くに置き忘れてきた人たちがこの絵の前に立って、ああでもないこうでもないと“絵解き”をしているのを見かけた。「あれがピアノで、両脇の白い縦の線が柱で、柱のうえに輝いているのが照明」「なるほど、そういえばそうね」。それで満足したように、彼らは絵の前から離れていく。
けれども、そんなことのためにカンディンスキーはこの絵を描いたのか? ぼくにはそうは思えない。ここにはシェーンベルクの音楽に触れたカンディンスキーの魂のおののきが、冷静な観察眼を押しのけて、視覚を激しく揺り動かしたときの感動が記録されているのかもしれない。シェーンベルクの曲は、おそらく理知的に構成された冷たい音楽ではないかと思うが、それがカンディンスキーをかくも興奮させたことを、この絵は伝えてくれるのである。
ただ、ぼくはシェーンベルクの音楽に感動したことがないので、もしその場にいあわせたとしても、ただピアニストの後ろ姿だけを ― その人が若い女性であればなおのこと! ― ぼんやり眺めていただけかもしれないが・・・。
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この演奏会のあと、カンディンスキーはシェーンベルクに書簡を送り、彼らは親しくなる。カンディンスキーの後期の抽象画には、楽譜のようなモチーフが登場するものがあるが、シェーンベルクの影響があるにちがいない。
後年、カンディンスキー夫妻(相手はミュンターではなく、2番目の妻)とシェーンベルク夫妻が、水着姿で並んで座っている写真がある。ふたりの大芸術家の交流を示す貴重な資料であるが、ぼくなどは単純に「へえ、カンディンスキーやシェーンベルクも水遊びをしたのか」と驚いてしまう。それほど、彼らの作品からあたたかな人間味を感じ取るのは難しい。
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