“大正の生まれだ。昭和に成人し、平成で高齢期に入った。ついに四つ目の時代となる令和を迎えた。いよいよ死を受け入れる覚悟をしなければならないと思っている。
ドライブが好きで週末になると京都や福井へ日帰り旅行に出掛けてきたが、三年前に運転免許証を返納してから遠出はすっかりご無沙汰になった。学友や戦友は皆亡くなった。シルバー人材センターで知り合った仲間も次々とこの世を去っている。七歳年下だがわが人生の師と仰いだ男性は最近、老人会に姿を見せなくなった。
私は、今まさに孤独であることを思い知った。そんなあしたも知れぬわが身の心の支えといえば、大病を患っても不死鳥のように復活された大正生まれの作家で尼僧の瀬戸内寂聴さんが.私より二歳年上で今もお元気で活動されているということか。百歳までは生きていたいー。そう思って私は毎日、近所のスーパーヘ歩いて出掛けている。”(6月2日付け中日新聞)
愛知県尾張旭市の三輪さん(男・95)の投稿文です。高齢になり、いろいろ悲哀を感じながらもまだまだ、100歳までは生きたいと言われる。元気なればこそであろうか。これが人間というものだろうか。ボクの母が90歳の時、いつ召されてもいいと言いながら「わしはまだ90歳だから」と言っていた。しかし、どう考えようと安楽死が認められていない現在、死ぬまで生きねばならない。これも権利であると共に義務である。そうであるならばできるだけ前向きに生きたいものである。それには意欲と感謝である。
6月6日の「(第2796話)新時代の思い」で「百歳まで元気であったとして、あと三十年弱か」とさらりと言われた梶原さんの文を紹介した。そして今回は「100歳を目指して」と言われる95歳の三輪さんの文である。こう簡単に100歳と言われると、本当に人生100年時代が来たのか、と思ってしまう。ボクの机の上には「明日死にと思って生きなさい」と書いた紙が張ってある。明日死ぬのだったら、もう今日はどう生きたっていいや、と言うことではなく、最後の1日をより大切に、より有意義に過ごそうということである。これを続けていけば、この後何年生きようとも、100歳まで生きようともより有意義な人生で終えることができよう。この言葉はまだボクの頭の中の教えにしかなっていないが・・・。
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