“小学生の頃、お盆になると名古屋市瑞穂区にある母の実家に行って泊まるのが常でした。2階和室の壁の上方に大きな丸い穴がありました。直径が三十センチはあったと思います。外側はふさいでいましたが、部屋の中からは穴の存在が分かりました。
「あの穴は?」と祖父に聞いたら、「おう、気が付いたか」と戦時中のことを語りだしました。一九四五(昭和二十)年三月の空襲で、焼夷弾が壁を突き抜けて裏庭の防空壕の入り口付近に到達して爆発しました。壕には祖母、母とその妹二人がいましたが、もう一つの入り口から脱出して皆無事でした。母によると、勤務先から急いで帰宅した祖父は家族の姿を見るや、「よう生きとったもんだ」と涙ながらに一人ずつ抱き締めたそうです。幸い、家は焼失を免れ、祖母のおなかの中にいた叔父も四ヵ月後に生まれました。
壁の穴は祖父が戦争の記憶としてあえて残したようです。祖父が空襲警報のたび米軍爆撃機を捜したという双眼鏡の形見とともに、ずっと忘れずにいたい、わが家の歴史です。”(8月27日付け中日新聞)
名古屋市の大学日本語講師・久野さん(57)の投稿文です。戦争の傷痕を残した家の話である。傷痕はいつまでも記憶を生々しくしてくれる、歴史を語る家である。人間はすぐに忘れるし、知らない人も多くなる。特に戦争を語るものは残したいものである。
各地に日清日露戦争から第2次世界大戦の戦没者碑がよく立っている。寺社の境内から個人の敷地、道路脇の公有地などでよく見かける。第2次世界大戦からももう75年である。こうしたものの処置に困っている話もよく聞く。管理する人が無くなっていくのである。実は今年、ボクの村の寺院境内に立っていた戦没者碑が取り壊された。今までは遺族会が管理してきたが、その遺族会が無くなっていくのである。ボクの中学校の一角に戦没者を奉る神社が建っていた。それも昨年取り壊された。遺族も世代変わりしてもう関心が無いのである。そうして国はどんどん戦争ができる国に邁進している。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます