久しぶりにしてやられた。
ある日、友人からかぼちゃを送りたいから、住所を教えて、と電話があった。
よく話を聞くと、今手元にかぼちゃがあるという。
私は思った、カボチャを送ってくれるのだと。
その友人は、姫路出身。
姫路は、カボチャの生産地なのだろうか。
いや、たくさんのカボチャを頂いたのだろうか・・・
そして、
カボチャを頂いたらどう料理しようか?
・カボチャの煮込み
・カボチャスープ
・カボチャのサラダ
・カボチャのみそ汁
・パンプキンパイ
などなど
料理の本など滅多に見ることはないが、
カボチャコーナーだけは熟読した。
翌日、
郵便ポストに行くと一枚のハガキがあった。
かぼちゃの絵が描かれていた。
「間違いなくかぼちゃです。ウソはついていません。」というメッセージと共に。
確かに友人はかぼちゃを送ります。としか言っていない。
私が勝手にかぼちゃという言葉から取れたてのカボチャだと想像していた。
まさしく、私の思いこみである。
お釈迦様は、私たちの経験からくる思いこみが、
現実と自らの思いのギャップが苦しみを生むとおっしゃられた。
・いつまでも健康でいたい
・いつまでも若い自分でありたい
・おいしいビールを飲み続けたい
しかし、現実にはそんなことはありえない。
よく聞く話だが、人間の死亡率は100%。
一日一日と年をとっている。
この瞬間にも、今までとは違う自分が誕生しているのだ。
その時々の自分を、自らのいのちを精一杯に生きられた方がお釈迦様だろう。
そして、私たちもお釈迦様が歩まれた後姿を仰がせていただくのです。
浄土真宗の仏様・阿弥陀如来は、私たちに「ああなれ」「こうなれ」とはいいません。
そうではなく、今その瞬間を楽しんでくれとハタラキ続けているのです。
ハガキの左上に
「外見じゃないよ!!中はぎっしりつまってます!!」と
外見に惑わされない、
充実した人生を歩むのが仏教者の歩みであろう。
(龍)
ある日、友人からかぼちゃを送りたいから、住所を教えて、と電話があった。
よく話を聞くと、今手元にかぼちゃがあるという。
私は思った、カボチャを送ってくれるのだと。
その友人は、姫路出身。
姫路は、カボチャの生産地なのだろうか。
いや、たくさんのカボチャを頂いたのだろうか・・・
そして、
カボチャを頂いたらどう料理しようか?
・カボチャの煮込み
・カボチャスープ
・カボチャのサラダ
・カボチャのみそ汁
・パンプキンパイ
などなど
料理の本など滅多に見ることはないが、
カボチャコーナーだけは熟読した。
翌日、
郵便ポストに行くと一枚のハガキがあった。
かぼちゃの絵が描かれていた。
「間違いなくかぼちゃです。ウソはついていません。」というメッセージと共に。
確かに友人はかぼちゃを送ります。としか言っていない。
私が勝手にかぼちゃという言葉から取れたてのカボチャだと想像していた。
まさしく、私の思いこみである。
お釈迦様は、私たちの経験からくる思いこみが、
現実と自らの思いのギャップが苦しみを生むとおっしゃられた。
・いつまでも健康でいたい
・いつまでも若い自分でありたい
・おいしいビールを飲み続けたい
しかし、現実にはそんなことはありえない。
よく聞く話だが、人間の死亡率は100%。
一日一日と年をとっている。
この瞬間にも、今までとは違う自分が誕生しているのだ。
その時々の自分を、自らのいのちを精一杯に生きられた方がお釈迦様だろう。
そして、私たちもお釈迦様が歩まれた後姿を仰がせていただくのです。
浄土真宗の仏様・阿弥陀如来は、私たちに「ああなれ」「こうなれ」とはいいません。
そうではなく、今その瞬間を楽しんでくれとハタラキ続けているのです。
ハガキの左上に
「外見じゃないよ!!中はぎっしりつまってます!!」と
外見に惑わされない、
充実した人生を歩むのが仏教者の歩みであろう。
(龍)
でも、今この瞬間をいかに充実して過ごすかということも大切だなぁって思います。