天真寺日記

天真寺の日々を綴ります

寺報発送作業(ボラン寺)

2011-06-24 10:51:10 | 天真寺
本日は、ボラン寺の日。
皆様のおかげで無事に月刊天真7月号の発送作業が終了しました。
今月の寺報(PDF)→http://www.tenshin.or.jp/tayori/tayori23-07.pdf



今回の寺報には、住職が田老の町を訪れた「被災の地を訪ねて・・・」という岩手県田老町の現状についての報告があります。

東北の町は震災後、人家の明かりが無くなり、夜空の星が一段ときれいに見えるという。今から40数年前、大学時代の友人の住む岩手県の海沿いの宮古市田老に行った時、生まれて初めてサンマの刺身をご馳走になった。当時は物流もよくなかったので、傷みやすいサンマの刺身なんて食べたことがなかったが、いや~感激したもんだ!!その後、度ある毎にお邪魔している。



田老は慶長・明治・昭和と度々20m以上の大津波に襲われ、多くの被害を出してきた歴史があり、昭和54年に長さ2.433m、高さ10mの二重構造の防潮堤が構築された。度々20m以上の大津波に多々襲われている田老にとって、10mの堤防では防ぎきれないことは明らかなこと…。しかし高さ20mの防潮堤にしたら、町には風が入らず地底のような湿気などで生活環境が悪化してしまう。
この田老防潮堤の目的は、初めから津波を撃退することではなく、津波の衝撃を和らげること。防ぐことはできなくとも、せめて住民が避難する時間を少しでも稼ぎたいとの思いで作られたという。この度は、その10mを軽々と乗り越え田老の町は壊滅的被害を受けた。友人のSさんからのメールで「最後に見た田老の町はもうありません」という言葉が、今でも深く印象に残っている。未だ避難所であるグリーンピア田老では、町の人600人が生活を送っている。


(金融機関の金庫)


(ご遺骨が安置される客殿)

友人のお寺はチョットした高台にあるので被災は免れたものの、檀家900戸中700戸が被災した。一時はお寺も避難所になっていたが、現在は客殿に150体余りのご遺骨がずらりと安置されている。檀家さんの家では仏壇から何から何まで流された為、各家の過去帳を新たに作成の毎日という。住職のTさんは町の人が明るく元気になるようにとの願いのもと、日々田老の町の人々と共に過ごしている。この度は、宮古市田老のJ寺さんで一泊、翌日は海岸沿いを南下し気仙沼の知り合いのK寺さんで一泊させて頂いた。お見舞いに伺ったつもりが、かえってご迷惑をお掛けしまった。

被災地の 涙に映る 流れ星 住職

以上です。

今月も宜しくお願い申し上げます。

(龍)





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