旅人労働者~気づくのが遅すぎて(鹿児島県→千葉県編) 

今回は千葉県のいろんな場所をドライブしたり、城跡を探索しようと思います。(前回の旅、鹿児島編から6年後)

鹿児島県・薩摩川内市(旧・入来町)の旅 第36回目

2017-04-27 19:53:28 | 36.鹿児島県・薩摩川内市(旧・入来町)の旅

 

こんにちは。

実は今日は2ヶ所目収録です。(1本目は旧・祁答院町)

薩摩川内市の旧・入来町になります。

一体何があるのでしょう?

入来温泉の一つ、湯之山館。

大人1回入浴 270円とかなり安いが

施設内は新しく清潔で広々としている。

廃線となった入来駅跡。

今は鉄道記念公園になっている。

建物前に線路のような道があるが当時はこれが実際の線路だったのだろう。

鹿児島県は大隅半島をはじめ、鉄道社会はあまり浸透しなかったようだ。

何故であろう?

よく田舎は車社会というが

それだと鹿児島はほとんどが田舎ということになるな。

国道328号線と入来町の風景。

薩摩川内市役所・入来支所。

入来支所周辺は清色城跡の城下町となっており

武家屋敷が立ち並ぶ。

清色(きよしき)城跡の麓(武家屋敷群)にある馬場跡。

馬場というのは馬の乗り降りや世話をする為の場所。

駅という字に馬の字があるが

まさに馬場は中世、近世ではまさに駅だった。

この画像の規模からすると清色城は相当繁栄していたのであろう。

画像上部にあるのは入来小学校で当時はこの地の政治を担っていた入来郷地頭仮屋が設置されていた。

 

入来郷地頭仮屋はいわゆる中世でいう領主館(政庁)である。

この水堀も防衛の観点から掘られたものであろう。

入来小学校(旧・入来郷地頭仮屋)。

武家屋敷風、お城風の建物である。なかなか凝っていますな。

ここら一帯は武家屋敷が多く立ち並び石垣も江戸時代の頃のものである。

このような武家屋敷群を鹿児島では麓という。

いわゆるお城の城下町である。

しかもこの麓は近世ではなく中世(1500年初頭)ぐらいから形成されたものであり

清色城跡も中世に築城されたとされ

両方とも中世を起点とする形成は全国的に見ても珍しいケースであり歴史的価値が高いという。

戦国時代によく見られる野面積みという石垣の手法。

安土桃山や江戸時代に見られる石垣とは違い、石や岩を加工せずそのまま自然に積み上げたやり方である。

一見、単純そうであるが排水性に優れ、意外と頑丈である。

その証拠に江戸時代のものでありながら、今でもこのように健在である。

清色城跡。

ここはちょうど入り口付近でここから山に登ることになる。

中世では平時は先ほどのように麓にある政庁で政治を行い、

敵が攻めてきたような非常時には山の上にある城に篭り状況に臨むようになっている。

大阪城や江戸城のような平地に大規模な堅牢な城を築くのはまだ先のことであり

統治面でも、財政面でもその必要がなかったのである。(北条氏の小田原城は別であるが)

中世の大名、豪族、領主は山城と館のセットであることが多い。

清色城跡の入り口ともいうべき、大堀切。

地上から10メートル以上もある断崖が敵の進行をここでストップさせ

狭い通路を通らないといけないことになる。

崖の上に守備兵を配置すれば、ここで停滞している攻撃部隊は大きな損害を受けることとなるだろう。

内部に入って入り口付近を見た様子。

両壁が高く、そして通路は狭い。

守る側からしたら戦いやすいであろう。

この崖を上ることは不可能である。

清色城跡内の様子。

城内にはこんな看板も。

マムシやスズメバチのいない冬が一番安心して城跡を見学できる。

訪れたのは4月中旬であるためか

タケノコを発見。

清色城跡周辺は竹林が多いのでこのシーズンはタケノコに出会えるかも。

清色城跡・本丸。

本丸内にあった石塔、祠。

 

清色城跡を下山し、再び麓を歩く。

次に訪れた場所は旧・増田家住宅。

明治6年に建てられたこのお屋敷は武家屋敷の造りを継承しながらも

近代の生活を織り交ぜた造りも見られる重要文化財である。

 屋敷内は「おもて」と「なかえ」と呼ばれるスペースに分かれていて、

今写っている画像の部分は「おもて」と呼ばれる部分。

いわゆる客間や寝室と呼ばれる場所で

旧増田家住宅の場合、4つの部屋に分かれている。

画像手前が客間で右側が当主または長男が使用する部屋。

奥側と奥側右の部屋は奥さんや子供たちが使用する部屋となっているとのこと。

ここが当主の間。

ここが奥方や子供たちの部屋。

当主の間や客間に比べて天井が低いのは

襲われたときに刀などが振り回せないようになっているため。

武家屋敷の特徴である。

天井裏は米蔵などになっている。

また、奥さんは食事の準備をするのが日課なので

「なかえ」と呼ばれる居間や炊事場などがある部分と隣接している必要があるのだ。

「なかえ」と呼ばれる部分。囲炉裏があるように、ここで食事をしたり、皆で話をしたりする。

居間兼食堂である。

ここでも座る場所は決まっており

右側は当主、手前側は子供たち、左側はお客さん(庭や玄関が左側にあるため)、奥側は奥さんである。(炊事場に近い為)

「なかえ」は「おもて」と違い天井がない。

屋根の裏側が見える造りなのである。

飯を炊いたり煮たりすることもあるので、天井がない方が湿気がこもりにくいのだろう。

増田家骨董コレクション。

なにやら島津の家紋が入ってるものが多い。

一番右のものはパリ万博の時に出品したとされる作品のレプリカ。

さすがに本物は置いてはいないが、それでも価値はありそう。

庭には浴室と便所の建物もある。

武家屋敷とはいえ、時代と共に生活は変わってくる。

これは大正時代ぐらいのものであるとのこと。

便所(小)、男性だけでなく女性も使用したとのこと。

丸見えである。(ちなみに大のほうの便所はちょうど壁の反対側、建物内にあります。)

薪を入れる場所。

ここで火の加減を調節する。

よく昭和以前の時代の映画とかドラマで風呂を沸かすシーンなんかでこういう場面ありますね。

建物内にある五右衛門風呂。

直接入ると金属の部分で火傷するので、風呂に入る時は板を敷く。

画像をよく見ると板を引っ掛ける金具がある。

 

茅葺門(かやぶきもん)。

これは修復したものであるが姿かたちは鎌倉時代からのものである。

麓を含め清色城跡一帯は入来院氏(当初は渋谷氏と名乗っていた)が治めていた。

800年も入来院氏が現代に至るまで鎌倉文化を守り続けた功績は素晴らしいことである。

ところ変わって、入来町南部に位置する清浦ダム付近に来て見た。

人工物でありながら山とダムというコントラストはいつ見ても美しいものである。

ゆめかけ橋という吊り橋。ここから清浦ダムが一望できる。

夢架けが夢欠けにならないような人生をしたいものである。

ゆめかけ橋を渡った場所にある鷹子神社。

昔々、この地に猛威を振るっていた毒蛇だったが

飛来した3羽の鷹が毒蛇を食い殺したおかげで人々が住めるようになったそうな。

後に火の玉がこの地に到来し、神霊の地として神社を建て3羽の鷹を祀ったのがこの神社の由来ということだそうだ。

境内まで結構上る。

質素な造りの拝殿。

水を支配する平和の神として現地人から当初より崇められ中世では軍神としても崇められた。

清浦ダムや鷹子神社を後にし

県道395線に入った。

途中、道沿いには長野の滝という小さな案内があったので寄ることに。

こんな山の中でひっそりと佇む長野の滝というのは一体どんなものであろうか?

こ、これは・・・・

なんという美しさ。そして静けさと隔離された空間が神秘的な雰囲気を醸し出していた。

滝の水をずっと見ていると、仙人のような気持ちになる。

これは間違いなくパワースポット。

体が心が修復されていく。

滝口の様子。

国道328号線と県道42号線の交わる地点にある大宮神社。

何とここは国歌である「君が代」発祥の地である。

しかもこの付近の地名は「日の丸」である

君が代発祥の地でありながら

境内、拝殿はこじんまりとしていた。

祭事の神楽舞に君が代が歌い継がれている。

これが国歌の源泉としての始まりといわれるそうだ。

 

旧・入来町の旅はこれでおしまい。